第4話 星のような雪

 女の人の悲鳴がトンネルに反響していた。

 駅の東口と西口を繋ぐ長いトンネルに入ったばかりの優雨はその声に立ち止まり、トンネル出口へと振り向いた。

 冬の街を丸く切り取った景色が広がっていた。

 夜気の冷たい空気が服の合わせ目から入り込む。優雨は思わず服の上から肌を摩った。この前まで優雨が通っていた高校の、制服のブレザーの生地は薄く、チェック柄のスカートの丈も短く、どうやら冬に向いていないようだ。

「星が見えないね」優雨は肩の上で座っているシャオウへ話しかける。

 夜景の明るさに夜の星は消されていた。光害というらしい。夜空に溶け込んでいるはずの黒い雲が、ネオンの光で下から照らされ、くっきりと形を露わにする。それほど明るかった。

「こんなこと止めて、星の見えるところに行く?」

 まるでマリモかモップの先のような毛むくじゃらのシャオウが甘えた声でクルルと唸った。

「ごめん、ごめん。冗談。早く食べさせてあげるから、もう一寸待っていてね」優雨はシャオウの毛を指の間に走らせる。

「今日は腹いっぱいになれるよ。人を喰い尽すんだから」

 シャオウは抜けた毛を飛び散らせるほど体を揺すりだした。

「嬉しいからって肩の上ではしゃがないでぇっ!」

 口を尖らせた優雨が肩のシャオウを軽く叩く。

 女の人の悲鳴はまだ続いていた。

 



「いやっ、助けて! 乱暴しないで!」

 トンネルは天井の照明で、オレンジ色に染められていた。その灯りの下、女の人が二人の男に追い詰められている。

 女の人のブラウスのボタンは引きちぎられていた。胸が露わにならないよう、女の人は合わせ部分をしっかりと手で握っている。そしてトンネルへ背を預けて必死に身を縮めていた。

 床に捨てられたスーツの上着は泥まみれだ。女の人のスカートの裾も切れて、下に見えるストッキングも縦に破れている。仕事帰りの事件。そんな様子だった。

 逃げればいいのに。一通りの格闘術を収めた優雨なら、そうするだろう。

 怯えた女の人を、二人の男が囲んでいた。

 男たちは厭らしく笑いながら舌舐めずりして、女の人へ大声を発する。怯え、助けてと訴え続ける女の人を眺めて楽しんでいるようだ。

「やっぱり今日も、最低なことをやっているのね」

 優雨は眉間に力を入れながら呟いた。

 見ていて吐き気がする。「そうね。さっさとこんな厭な仕事はすませましょう」

 優雨はため息をつきながら、歩幅を大きく、女の人へ向かって歩き出した。

「おい! もう一人来たぜ。頭おかしいやつ? 自分から来るなんて、どれほどのすきものだよ。……でもこれでどっちが先か決めなくていいよな」

「俺はあっちがいい」

 二人の男のうち、ナイフで女の人を脅していた男が優雨へ視線を向ける。優雨に向ってナイフをちらつかせながら、ニタニタと笑うナイフ男の顔に、優雨は不快しか感じなかった。男の頭の中では、とっくに優雨は裸にされていそうだ。

「俺は断然、大人の女が好みだけどなぁ」

 残った男は遠慮する必要もなくなり、女の人の太ももをゆっくりと撫でて、スカートを捲りあげていく。

「勝手にやってろ。俺はこっちだ」

 ナイフ男は持っていたナイフの切っ先を優雨へ突き出した。

 すると優雨はクロスカウンターの要領で男の頬へ手を伸ばした。

「なんだ、もうしたいのか、それなら……」

 男は突然、床へと倒れた。

「何をやったんだ!」

 相方の男が女の人から目を離して、優雨は向かい合った。

「もういい加減にしなさい。今日で終わりにするのよ」

 優雨ははっきりと言い放つ。

「ふざけんな! こんな楽しいことやめられっか!」

 男が優雨の腹を狙って拳を振ってきた。

 優雨は横へステップすると、あっさりと拳を避け、さっきと同じように頬へ手を当てた。

「邪魔っ!」

 優雨が手を離すと同時に、相方の男も先に倒れていた男に重なるように倒れた。

「何をしたの?」

「ここ数日の記憶を全部抜き取っただけ。脳が混乱して、しばらくは意識を失ったまま……って、貴女だって知っているでしょう?」

「あら残念。せっかくおいしく頂戴できると思ったのに」

 女の人はすくっと背を伸ばし、スカートについた泥を手で払う。優雨しかいないためなのか、胸が露わになるのもお構いなしだ。さっきまで身を縮め、恐怖に体を震わせていた女の人と、今の女の人はまったくの別人のようだった。

「あなただってわかるでしょう? 道は外れてもわたしと同じ記憶喰いなんだから」

 女の人の高笑いがトンネルを駆け抜けた。

「悪趣味。こうやって毎晩、人を誘惑して、記憶を喰らっているのね」

 女の人は笑い声を止めた。優雨へ深々とお辞儀する。

「それが悪いですか? わたしたちは記憶を喰らわないと生きていけない……そうですわよね、姫様!」

 女の人は顔を上げた直後――、

「姫様の記憶はどんな味がするのかしらぁねぇ!」

 女の人の手が優雨の顔を包みこむ。

 記憶を喰われる。

 しかし、優雨も、その肩に乗るシャオウさえも、女の人の手を拒もうとしなかった。

「あら往生際がいいのね。いいわ、望み通り喰らい尽してあげる」

 記憶を喰らい尽すことは、その人の人生を全て奪うということ。記憶を全て奪われても人間は生きている。しかしもう昔の自分はこの世にない。まっさらな人間になる。つまり記憶喰いの殺人とは、相手の生きてきた証、存在、人生を殺すことだ。そして、殺人は当主以外、厳しく戒められていた。

 優雨の体が青く光った。

 トンネルを照らしていたオレンジ色を浸食して、トンネルの丸い壁が染まり、優雨の記憶を映し出す――はずだった。

「なにこれ? 何で記憶がないの?」

 女の人は小娘のように喚き散らした。

 青い光の中に、記憶は一つも映し出されていなかった。

「当たり前よ。あなたと違って、シャオウは悪食じゃないのよ」

「姫様は……その生き物に自分の記憶を毎日差し出して……。

 えっ? でもちょっと待って。それだと姫様は誰から記憶を喰って……。記憶喰いは記憶を食べ続けないと生きていけないはず……。

 あなた本当に記憶喰いなの?」

 優雨の代わりに、シャオウが全身の毛を立てて、女の人へ怒りを露わにする。

「そうか、あなた……ただの記憶、人間でなくて、記憶ってことね。何よ、記憶を収める器の分際で、人間様に意見しようなんて!」

 けらけらと腹を抱えて笑いだす女の人と相反するように、優雨の顔から力が抜ける。怒りも悲しみも、喜怒哀楽の全てが優雨の心からこぼれ落ちていく。

「わたしはシャオウのために生き、共に生きるものよ」優雨が掌を女の人へかざす。

 その途端に、青い光がトンネルの全てを照らし出した。背中を丸めて笑い続ける女の人の影がトンネルへ映し出される。そしてまるでそこから細胞分裂するように、女の人の記憶が溢れだした。

 男どもに嬲られる姿。雪山で修業した少女時代。体から青痣が消えることのなかった幼年期。そして乳飲み子のとき里山に捨てられた姿。

 記憶の一部だけ、特定の部位ではなくて、女の人を形成していた記憶の全てが溢れだし、トンネルの端から端まで、そして湾曲した天井を埋め尽くした。

「シャオウ……お願い、さっさと食べて」

 シャオウは体を真っ二つに分けたような大きな口を開けて、青い色に彩色された女の人の記憶を喰い続けていく。

 それに呼応して、女の人は徐々に蹲り、ゆっくりと冷たい床へと体を横にしていく。

 それはまるで胎児のようだった。女の人は膝を抱え、原初の卵へと戻るかのように身を丸くしていく。

「全てを失ったのだから、もうあなたは記憶喰いでもない。普通の女の人として生まれ代わりなさい」優雨はそう言って、女の人の髪を撫でた。

 女の人は赤ん坊のような声を上げながら、まっすぐな瞳で優雨を見上げた。




「一人の人生を食べつくしても、人間に戻れないのね」

 優雨は満足そうに眠るシャオウを肩に載せながら、トンネルの出口へと歩いた。

「あっ、星?」

 トンネルを抜けると夜空に幾銭の白い光があった。

「違う、雪ね」

 空中にいる間は星のようにはっきりと存在を示している雪が優雨の鼻に落ちて、一瞬で溶けてしまう。

 それは優雨に体温があり、生きている証でもある。

「でも全て偽り。シャオウが人に戻れば消えてしまう記憶」

 優雨は瞼を閉じる。儚く消えてしまう雪を、一片でも見たくなかった。

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