第3話 死にゆく秋
五時限の授業が半ば過ぎたころに、高校から百メートルほど離れた小学校でチャイムが鳴る。それに合わせて、私は校舎二階にある社会科準備室の南側の窓から、外へ向って顔を突き出した。
「あれは誰だ?」
正門から入ってすぐ横、生徒用の駐輪場に女の子が佇んでいた。
その女の子の肩に乗っている猫のような生き物が、背中? を伸ばしている。
自転車泥棒……。そう思いつくと、次の瞬間、窓枠を掴む私の手に力が入る。
しかし女の子は、整然と並べられた自転車のどれにも興味を向けず、長い髪を冷たくなった秋の風に靡かせ、くるりと振り返ったかと思うと、窓から見下ろしている私へ視線を合わせた。
「誰なの?」
女の子は、本校指定の白いセーラー服と臙脂のスカーフを身に着けていた。何年生なのか。スカーフの先にある刺繍の模様で何年度入学なのか判別はできるのだが、ここからでは遠すぎて見えない。とにかく生徒に違いないのなら、授業へ戻るように指導すべきなのだろうか? それとも授業を抜け出してしまうほどの悩みがあるなら、ここへ呼んで、その悩みをそっと聞いてあげるべきかもしれない。
「……なにを今更、先生として振る舞ったところで」私はふっと鼻で笑う。
「あのね。悩みを聞いたからって、何もかもが解決するわけじゃないんだよ?」
「敦子さん」私が振り返ると、三年桜組の瀬高敦子さんの朗らかな顔があった。いつものように両手を後ろ手に組んだ身体を左右へ小さく揺すって甘えた仕草を見せる。
「それでも、話せば楽になることだってある」
私は目元に力を入れて、十歳も年下の女子高校生に本気で反論する。
敦子は私の鼻先を指差す。対して私はびくっと顔を引く。
敦子にとってはその様子が滑稽だったらしく、腹を抱えて笑いだした。
「先生って、やっぱ見た目も考え方も男っぽい」
「失礼」
私の名前は正美で、姿は針金のように細くて凹凸がない。生徒は私のことを『男だ。』と噂していた。
生徒が先生の悪口を言うなんて日常茶飯事だろう。それに一々、反応していたらきりがない――にしても、面と向かって言われたら、内心面白くなかった。先生だって人間だ。寛容な神様ではない。
「例えば、自殺する子がいたら……」
「ちょっと、冗談でもそんなこと言い出すな」
「いいから、聞いてよ。いい先生は生徒の話をちゃんと聞くんでしょう?」
「上げ足を取るな」
敦子は一瞬、えへへと頬を緩めた。しかしすぐに頬を強張らせ、寂しそうな瞳を私の足元へ向ける。
「自殺するんだから、きっと重大な理由があるって大人は思いたがるけれど、それほど大きな理由なんて実際はないと思うよ。他の誰も気づいてくれないような小さな悩み事が重なって、重なって……死にたくなるの。その小さな悩み事だって一つ一つはやっぱり大したことない。
秋って寂しいから。
そんなきっかけで死んじゃったりするのかも」
「そんなこと言うな!」
私は声を荒げる。
「あははは。そこは、言わないでぇ〜! って言えば少しは女っぽいのにね。そんな怖い叱り方だから、『男』だって言われちゃうんだよ」
敦子は私へ抱きついた。背の低い敦子の顔が私の胸の下に収まった。私の肌を通して伝わる敦子の体温に、私は母に抱かれているような錯覚を覚えた。
「……だからね。理由は秋だからなの。先生と、女の人とつきあったことが原因でもないし、そのせいでいじめられたからじゃないんだよ。先生が学校を辞めさせられたことに責任を感じちゃって、ってことでもないの。
秋だから死にたくなっただけなんだよ」
敦子は私を突き放すと、泣き笑い顔を見せた。そして声を出さずに、口を動かした。きっと、ありがとう、と言っている。そう私は感じた。
「シャオウ!」
敦子と違う別の女の子の厳しい声が廊下から発せられた直後、黒い塊のようなものが顎を大きく広げ、敦子を頭から喰い始めた。
私の記憶に残っていた敦子が得体のしれない化け物に喰われていく。「……敦子」自ら臨んだことなのに、やはり頭に残っていた最後の敦子の記憶が消えていくのは、気持ちよくない。
私は喰われていく敦子を正視できず、ただ咀嚼の音だけを受け入れた。
「あなたは誰?」
昨日までの職場だった社会科準備室で私物の片づけをしていると、入り口に女の子が立っていた。
スカーフの色が臙脂ではない。おそらく学校指定外のものだろう。目を凝らせば学年を示す刺繍もなかった。
しかし、校則違反だと叱る資格を、私はすでに持っていない。
初めて見る子だから一年生かもしれない。二、三年生のクラスを担当していた私は、女の子の顔に見覚えがなかった。女の子の長い髪は特徴的だけれど、それよりもまず、肩に載せている毛むくじゃらのマリモのような生き物が目立っていた。
「最後の確認です。……瀬高敦子さんを知っていますか?」
「瀬高さん? きみは瀬高さんの妹なのか? 確か、桜組の生徒だったな。
ご冥福をお祈りする。この学校の生徒が自殺なんて悲しいよ。……でも、わるい。それほど親しくないから敦子さんのことよく知らない」
桜組の担任の先生が休まれたとき、代わりに出席を取ったことは数度ある。しかし名簿の名前で見たことがあるだけで、顔すら思い出せなかった。
この秋に自殺した生徒。その認識以外に何もない。
「それならいいんです。わたしの仕事は終わりました」
「仕事?」
女の子はその言葉だけを残して部屋を出ようと肩を回し始める。しかし突然、もう一度、私へ振りかえった。
「秋ですね」
「あっ、そ、そうだな。今年の紅葉は綺麗だ」
唐突の季節の話に、私は戸惑いつつ答える。
女の子が遠い目で見ているものへ、何気なく自分も視線を向けた。
遠くの山々は様々な赤色で染まっていた。
「泣いているんですか?」
女の子に指摘されて、私は目元を指で拭う。流れ出した涙に、指先はびっしょりと濡れていた。
「秋って、意味もなく悲しくなる……なるわね」
教職から離れるのだから、もう喋り方を気にする必要もないと思った。
でも、どうして教師をやめるのか、思い出せない。
「……秋だからかしら」
私は窓枠から身を乗り出し、滲んだ秋を眺めていた。
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