第2話 桜の下で
あなたもシャオウに食べてもらいたい記憶がありますか?
「あなたも幽霊さん?」
優雨は校門前の庭の中央へ鎮座した桜の幹へ手を乗せていた。合格した高校の入学式まで、まだ一週間ある。開花宣言はとっくに過ぎ、校門を出てすぐにある幼稚園の桜は満開で、高い太陽に照らされて白くなった道路へ、散った桜が敷き詰められていく。
それなのに優雨が見上げていた桜に蕾すらない。
枯れ桜かしらとため息をついていた優雨の後ろから女の人の声がした。
シャオウが優雨の肩の上で体毛を逆立てた。
「こら。失礼でしょ」優雨はシャオウの全身を覆う毛を撫でながら窘めた。
ネズミぐらいの大きさのシャオウが不満そうに体を丸める。
「それ、あなたのペット?」
優雨は緊張で下唇を噛む。ぎこちなく肯いた。
「同じ新入生?」
後ろに立っていた女子高生のネクタイの色は臙脂だった。学年ごとにネクタイの色は色分けされている。優雨のも同じ臙脂色だ。
でも優雨は首を傾げる。
「あなた後輩ね」
眼鏡に、髪の先でまったく遊んでいないおかっぱ頭の女子高生は、優等生っぽい落ち着いた笑顔で優雨へ尋ねた。
臙脂、紺青、浅黄の色が順番に巡っていく。この女子高生は、つまり、優雨と入れ替わりで卒業したのだろうか。
「あなたは……?」
優雨が数歩、後ずさりして、桜の幹へ背中を預けた。
「わたしは幽霊よ。でも残念。あなたは幽霊さんじゃないのね」
女子高生は唇を尖らせる。
「ごめんなさい」あまりにも目の前の先輩が残念そうにするので、優雨はとりあえず謝った。
「幽霊さんは、どうして自分のことを幽霊だって思っているんですか?」あなたは幽霊なんかじゃないのに。
「それってあなたのペット?」
幽霊さんは優雨の質問を無視して、自分の問いを繰り返した。
優雨はふっと息を吐いた。やれやれと肩を竦める。
足もとの優雨の肩が揺れたせいで、シャオウが肩から転がり落ち、優雨の胸に一度弾んでから、待ちかまえていた優雨の手へ収まった。
「ごめんね」毛を逆立てるシャオウへ、優雨は片目を閉じて軽く謝った。
「この子の名前は?」
幽霊さんがマリモのようなシャオウの体毛を撫でながら言った。
「シャオウって言います」
「あら、雨の名前なのね」
「はい。私の名前が優しい雨って書いて『ユウ』ですから……」
「二人とも、それは素敵な名前ね」
「あ、ありがとうございます」
照れた優雨へ、幽霊さんがにっこりと微笑む。胸の前で手を合わせて嬉しそうにする姿は、幽霊というより、アイドルとか、アクリル画の天使を連想させた。
かわいい人。女の優雨も目の前の幽霊さんに目を奪われる。
「わたしも名前をつけておけばよかったわ」
「どの子に、ですか?」
優雨の問いに、幽霊さんは校門の方へ向いて、指さした。
校門前の道路の中央車線に、子犬が一匹、お座りしていた。
「あの子、いつもオドオドしているの。車が来ると怖がって動けなくなるのよ」
幽霊さんはそう言うと、膝を曲げた。子犬と目線を揃えて、手で招く。
「名前がないと、呼べないですね」
「そうね。名前、どうしようかな?」
幽霊さんが一つも蕾のない桜の木を見上げる。
「サクラなんて、どうかしら?」
「サクラ、いいですね。じゃあ、呼んであげてください」
「ちょっと照れるわね。初めてつきあった彼の下の名前を呼ぶぐらい緊張するわ」幽霊さんは手を組んで一気に空気を吸い込む。
「サクラ! 君の名前はサクラだよ!」
子犬はワンと一声吠えると、一気に駆けてくる。
「あっ、危ない!」
突然、幽霊さんが子犬へ向かって走り出した。
道路を横切ろうとする子犬へ、白い軽トラックが迫る。
「幽霊さん!」
しまった名前を聞いてない。
さっきの子犬と同じく、幽霊さんは『幽霊さん』と呼ばれても、立ち止まらなかった。
「やめて、幽霊さん!」
子犬へ向かって幽霊さんは飛び込んだ。
車と、子犬と、幽霊さんが重なる。
「あっ、ダメ!」
優雨はことの結末を知っているのに、つい、目を反らしてしまう。
「……幽霊さん」
恐る恐る、目を道路へ向けると、子犬を抱えていた幽霊さんが立っていた。
その体は透けていて、幽霊らしい姿だった。
「お願いね」
幽霊さんはそう言うと、すっと消えていった。
それと同時に春の風が幽霊さんの消えた方向から流れてくる。
きゅううん。
かわいらしい声に気づいて、優雨は桜の木の裏側へ回る。
桜の下で、子犬が寝息を立てていた。
「学校の偉い人にね、頼まれたの。もう他人へ、悲しい事故の記憶を見せないように、って。でも……」
優雨はシャオウを地面へ下ろすと、幽霊さんと同じように子犬を抱きかかえた。
「あなたは優しいね。幽霊さんが事故死した記憶を多くの人へ見せて、幽霊さんの最後の願いを叶えてくれる人を探していたんだよね」
優雨が枯れ桜を見上げると、また幽霊さんが現れた。
「桜の花を咲かせる命の力を全部、幽霊さんの姿を映すのに使っていたんだよね。
でもね、もう忘れていいんだよ」
優雨は再び現れた幽霊さんを指さす。幽霊さんは優しく微笑んだあと、瞼をゆっくりと閉じた。
「シャオウ!」
優雨の叫びに、シャオウが吠えて応える。
全身を二つに分かつぐらいに大きな顎を広げると、現れた幽霊さんを一気に食べつくす。
「ちゃんと面倒みるからね。だからこれからはまた、みんなのために花を咲かせてあげてね」
桜に刻まれていた幽霊さんの最後の瞬間の記憶が、シャオウに食べつくされた。
優雨の胸の中で、子犬が吠える。
「シャオウと喧嘩しないでね」最初、そう思ったけれど、子犬はシャオウではなく、空へ向かって吠え続ける。
「ありがとう。貴方って優しいね」
見上げると空を覆い尽くすぐらい、桜が満開になっていた。
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