記憶喰

@9mekazu

第1話 夏川の流れ

 優雨(ゆう)の前で、この男は指で摘んだ結婚指輪を未練たっぷりに見つめていた。

 橋長の長い吊り橋の真ん中。下は緩やかな川の流れ。真昼の喧騒。二人の後ろで、渋滞が続いている。アイドリングの排気ガスで空気が悪い。


「目がチカチカするね」優雨は閉じた瞼を上から指先で抑える。


 優雨の肩に乗っていたペットのシャオウは軽く咳き込んだ。

 シャオウは体を震わせて、その毛についた粉塵を払い落とす。

 リスぐらいの大きさのシャオウの全身を長くて硬い体毛が覆っていた。顔や体の輪郭も体毛に隠されている。その姿はまるでマリモか掃除用のモップだ。飼い主の優雨でさえ、シャオウの素顔を見るのは特別な時だけだ。


「ちょっと、汚いから止めて」わたしもガマンしているのよ。


 優雨もさっさとこの場から去りたかった。

 しかし、この男が過去の未練を断ち切って指輪を捨てるまで、優雨はただじっと待つしかなかった。

 いっそこのまま、指輪を捨てるのをあきらめ、目の前から消えて欲しい。

 もちろん高校生の優雨は、過去において、三十代のこの男と人生の接点を持たない。

 この先も、この男が優雨の長い人生に深く関わることなど絶対にありえない。

 今この時だけ、この男と優雨はお金だけで繋がっていた。

 前払いされた大金が優雨の懐にある限り、どれだけこの男の煮え切れない態度に嫌気をさしても、優雨はこの男に逆らえなかった。

 こうして、この男の逡巡を忍耐強く見守り続けて、はや一時間――。


「もうしばらく、静かにしていてね」


 優雨は肩に乗っているシャオウの豊かな毛を撫でた。するとクルルと体毛に埋もれた喉を鳴らしてシャオウが答える。

 そのとき、待望の変化。


「さよなら」


 この男が振りかぶってオーバースロー。指輪は陽光を浴びてキラキラと輝きながら、黒い水の中へ吸い込まれた。

 橋の上から、深い水面。指輪は川の流れに吸い込まれ、水しぶき一つ、聞こえなかった。


「いいんですか?」


 優雨は最後の確認をする。


 この男は女子高生の優雨へ「お待たせしました」そう深々と頭を下げた。

「これで、妻の持ち物を全て捨てました」


 大きく深呼吸。この男の表情に赤みが戻る。さっきまでの青ざめた顔が嘘のようだ。


「そんな顔ができるなら、記憶を捨てなくてもいいのでは?」


 優雨は再度、確認する。

 記憶を喰われずにすむのなら、そちらの方が、人間の生き方として良いに決まっている。

 記憶に良し悪しはない。全てが今まで生きてきた大切な証だ。その記憶がその人を形作っている。

 それでも人間は、つらい記憶を忘れたいと願う。

 この男も、今までの人間と同じく、優雨の問いへ、微笑み返した。


「僕の頭の中に、彼女の面影が残っている限り、僕は苦しみ続けるんです。裏切った彼女を許せない自分。彼女を恨み続けて、思い続けて、求め続けて、……生きていくのが耐えられないんです。いまさら断るんですか? それとも嘘だったんですか?」


 優雨は、どうしてこの男が妻の記憶を捨てようとしているのか、理由を聞いていなかった。

 聞かなくてもわかる……気がする。それにたとえ聞いて答え合わせをしても虚しいだけだ。幾百、幾千の記憶に一々干渉していたら、この男と同じく、優雨も憂鬱な記憶を捨て去りたくなるかもしれない。

 優雨は嫌な想像をかき消すように、首を強く振った。肩に乗っていたシャオウが振り落とされないように、爪をしっかりと優雨の服へ突き立てる。


「今回も、理由は聞かないわ」それは記憶喰を生業とする優雨にとって、最善の自衛策だ。


 優雨は乱れた髪を手で梳いて、背中へ払った。眉を寄せて、この男を厳しい視線で射抜く。


「お金は頂戴していますから、もちろん仕事はきちんとします。

 でも最後に一つ。

 どれだけ自分の記憶を失い、身の回りのものを整理しても、社会的な記憶は残ります」

「社会的記憶?」

「第三者の思い出だったり、役所の書類だったり……貴方が知らないうちに残した奥さんとの軌跡です」

「あぁ……でも、僕の頭からはなくなるんでしょう?」

「そうです」


 一瞬、引き締まっていた男の口元が弛み、白い歯が露になる。この男は胸元へ手を当てて一息ついた。


「だったら心配ありません。僕が知らないのなら、他人の言葉は僕にとって嘘ですから」

「そうですね」


 優雨は投げやりに答える。

 自分が全く知らなければ、他人の言葉はただの勘違い? 冗談? その程度にしかならない。

 役所の書類で確認しても、消えた年金と同じく「この書類の記載は間違っている」そう憤慨するだけだろう。

 だって、記憶がなくなるとはそういうことだからだ。


「早く……お願いします」


 この男は振り向く。優雨は自分の感情を一切切り離して、淡々と記憶を喰い散らかす作業を始める。

 優雨はその手を、この男の無防備な背中へ当てる。

 この男の心臓の辺りが青く輝きだし、記憶があふれ出す。次にこの男の両側の耳の上の辺りも青く輝き出し、やがて全身が青く輝きだす。

 その青い光は一点に凝縮し、この男と妻らしき女性との幸せな生活のシーンを空中へ映し出した。映像は風と熱気で揺れる。まるでカーテンに映し出された八ミリ映画のようだ。


 ――建築中の一戸建てを並んでみる二人。


 ――必死に力む妻の手を掴み、泣きながら応援するこの男。


 ――白いウェディングドレス、誓いのキス。はにかみながら薬指に通す指輪。


 優雨は否応なく、二人の幸せな生活を見せつけられる。


「シャオウ!」優雨は何かを吹っ切るように、大声でペットの名を叫ぶ。

 声に応え、シャオウが吼える。


 小さな体が上下に真っ二つに分かれた。大きな顎。まるで恐竜の頭部のように、その体の大半が凶暴な口と牙と舌だった。

 口の化け物が、青いこの男の記憶を貪る。

 貪欲。音もなく、喰い散らかすことなく、舌を巧みに使って欠片も掬い取り、この男の妻との記憶を胃袋へ飲み込む。

 ときどきシャオウの息継ぎする声が、生々しかった。


「全部食べた?」


 シャオウが口を閉じる。ゲップをしたとき、長い体毛がふわりと内から揺れる。

 シャオウは満足したように、ゆっくりと優雨の服を掴んで上ると、また定位置の肩へと戻る。


「どれだけ大食いなの? 重くて肩が痛いよ」


 優雨がこの男へ失笑する。それだけこの男の中の妻の存在が大きかったということだ。

 その独り言に応えたようなタイミングで、この男の目と口が動き出した。


「君は誰? 僕、ここで何をしていたのかな?」


 妻との記憶を失った男は、もちろん、妻との記憶を喰った相手のことも忘れていた。

 この男の顔から苦悩の色が消えていた。悲しみの涙で潤んでいた瞳は乾き、眉間から苦悩の皺は消え、頬も和やかに弛んでいる。

 この男は、晴れやかな顔で、高校生の優雨へ質問した。

 優雨は舌を打ち、


「良かったわね。忘れられて」と答える。


 この男は鼻先に自分の指を突きつけ、僕に言っているの? と首を傾げる。


「気にしないで。独り言だから」


 優雨は溜息を一つついて、遥か遠い川岸を目指して吊り橋の上を歩き始めた。

 そっちが満足しているならそれでいいの。こっちは仕事だから。そう納得しようとしていた優雨の耳元で、シャオウが威嚇するように低く唸った。

 反対側から、大勢の男たちが走ってくるのが優雨の瞳に映る。


「いつも、いつも、いっつも! ……やっぱりそういうこと?」


 優雨の横を、鬼気迫る顔の男たちが、後ろの男へ向かって走っていく。その集団の中に、制服の警察官も混じっていた。




「妻殺害の容疑で逮捕する!」

 観念しろと凄む警察。しかし男は目と口をぽかりと開けて、まるで突然の冤罪に巻き込まれた善良な市民のように、警察官へ訴える。


「バカなこと言わないで下さい。僕は未婚ですよ。妻って誰です? 付き合っている女性もいないのに……。第一、僕は人殺しなんてしませんよ」


 ベテランの刑事たちは、それが嘘の証言か、本気の証言か、見抜けるらしい。狐につままれたように、互いに顔を見合わせる。


「罪の意識で? それとも殺人の前から?」

「とにかく鑑定が必要か……」

 刑事たちががっくりと肩を落としつつも、男を確保する。


「シャオウも、見飽きたわよね?」


 優雨は逮捕劇から視線を逸らし、また岸へ向かって歩き始める。

 男は両脇を刑事に抱えられながら、無実を訴え続けていた。


「僕はやっていません! 絶対にやっていないんだ!」


 きっと、その命尽きるまで、無実を訴え続けるだろう。

 だって、殺した妻の記憶は記憶喰に食べられて、もう全てないのだ。

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