隘路に駆る

歩隅カナエ

隘路に駆る



 多摩川たまがわまた鴨江橋かもえばし相良さがら総合病院を訪れるための唯一の経路として病院と同時期に建設された。もう十年以上前の話なので、当時は巨大ロボットのようにつるつるぴかぴかしていたらしい欄干らんかんの赤い塗装も、今では見る影もないほどに剥げ落ち、鉄錆に侵食されてしまっている。

 周囲には人口の灯りがないため、橋の上に等間隔で並ぶ消えかけの電灯を道の頼りに、というよりかは心の頼りにして渡り切る他ない。この廃れた橋には夜な夜な無念の死を遂げた亡霊が彷徨っているという噂があって、近辺の小学校ではオバケ橋と呼ばれているくらいだから、夜間に通行する際は戦々恐々としながら渡る羽目になる。

 とは言え、数軒の民家と墓地を除けば、その先にある施設なんて相良総合病院くらいのものだから、利用者もそこまで多くはない。それでも夜を避けたいという具合には、鴨江橋はおどろおどろしい雰囲気のある仄暗い橋なのだった。

 さて、何故そんな古臭い橋のことを回想していたかと言えば、今では見慣れたその橋の上で、見慣れない光景が展開されていたからに相違ない。

 僕は降りしきる雪の中、橋の中腹辺りで傘を差したまま、さながら亡霊のようにぼうっと立ち尽くしていた。眼前に広がるその景色は、現実からあまりにも逸脱していて気味が悪かった。

 時計の短針がもうすぐ九割を踏破しようという時刻にも関わらず、その雪化粧の施された鴨江橋の赤い欄干の上に可憐な少女が座っていた。雪が降っているというのに傘も差さず、欄干に浅く腰掛けながらぶらぶらと足を揺らす彼女は僕の住むマンションから程近い私立高校の制服を着ている。その昭和感の漂う黒いセーラー服は周囲の闇に溶け込むように暗夜と一体化しており、一見すると首から上が浮いているように見えた。背景に黒という対比があるためか、その透き通るような肌は雪よりも白く輝いて見えるので、もし着物でも着ていようものなら、誰もが直感的に雪女だと断定するだろうといった風情だった。

 また、川から吹き上がってくる夜風にさらさらとなびく真っ黒な髪は、雪を被っている所為か彼女の所作に合わせてきらきらと光って、それが殊更に、僕の目を彼女へと惹き付けていた。

 橋の標高は目測でも三十メートルはあろうかという高度なのだが、彼女はまるで幼い子供のように目の前の死に対して無頓着で、まるで恐怖など微塵も感じていないかのような自然体で雪中の月光浴に勤しんでいた。その光景は一見すると怪談のワンシーンのようだったが、しかし同時に、どこか詩情的な美しさを醸し出してもいた。

 自分がその少女の横顔に見惚れていたことに気付いて、僕はぶるりと身震いをした。その存在にどこか引き込まれるような錯覚を覚えて、あらぬ想像が脳裏を過る。

 ともあれ、その女子高生がオカルトティックな存在でないことを確かめないでいられるほど僕は未知への恐怖に対して無関心ではいられなかったし、なにより花の女子高生が夜中に橋の上で雪に晒されている光景を前にして見過ごせるはずもなかったので、情けなく腰が引けつつも声を掛けようと思い至った。ざくざくと雪を踏みしめて、恐る恐る橋の欄干へと近付く。

「何をしているの?」

 白い吐息を吐き出しながら、前置きもなしにそう声を掛けた。ところが彼女は僕の登場に別段驚いたりもせず、ただ緩慢とした動作で面倒臭そうに振り返ると、「なんだこいつ?」という視線で僕に一瞥いちべつをくれ、相手にする必要はないと判断したのか、再び橋の外へと向き直った。そこには混沌とした闇が広がっているだけで、見ていて面白いものなど何もないだろうに。

 しばらく何も言わずに返答を待っていると、彼女としても応対に困ったのか、たっぷりと間をとった後に「何をしているように見えますか?」と平坦な声が返ってきた。非常に不可解なことではあるけれど、どうやら僕と彼女の間には時差が介在しているらしい。もし仮に彼女が人智を超越したオカルト的存在だとすれば、つまり生と死の間には距離的概念と時間的概念が存在していることになる。なるほど非常に興味深い話である。卒業論文のテーマはこれで決まりだ。

 そんな冗談は思っても口には出さずに、僕は「昔ここで飛び降り自殺をした女子高生の亡霊に見えるかな」と率直な感想を述べた。すると彼女はくっと顎を上げ、虚空に向けてふひひと笑う。何が面白いのか足をぶんぶんとバタつかせ、楽しげに身体を揺らした。そうして一頻り笑い終えると、身体を半回転させて橋の内側へと向き直り、「ぶっぶー」と言って両の手の人差し指でバツを作った。

 どうやら不正解だったらしい。可愛らしい仕草に不覚にも萌えかけたが、しかし、その凍えるような無表情の所為か、彼女の人間味は饅頭の薄皮よりも薄く感じられた。

 可愛いというよりは、どちらかと言うと綺麗な部類だろうか。女子高生の顔の造形は、お人形さんではなく、彫刻と言った方が余程しっくりきた。

 僕が珍妙な生物を目の当たりにした時のような奇異な視線を向けていると、女子高生は肩に積もった雪を払いながら呆れたように言った。

「幽霊なんているわけがないでしょう。ボッシュートします?」

「突き落とす気か」

「回答権は残り二回です」

 そう言って、女子高生は死んだような顔のままピースサインを突き出してくる。その場違いな陽気さが可笑しくて、僕はつい笑ってしまった。

「じゃあ、無難に自殺志願者で」

「つまらない人ですね」

「うるせえやい」

 あからさまに顔をしかめてやると、女子高生はやれやれといった風に首を振り、今度は大儀そうに腕を組んだ。ついでに踏ん反り返って足も組んだので、スカートの間からパンツが見えそうになる。僕は童貞の如く、所在無げに視線を彷徨わせた。愛する彼女を持つ身でありながら、初対面の女子高生のパンツを覗くなどという不届きがあってはならない。彼女以外の女に欲情するなんて以ての外だ。万死に値する。

 ああ、白いなあ。

 もちろん雪の話である。

 僕が一人、脳内でくだらないコントに興じていると、女子高生はその形の良い眉をぐっと寄せ、小難しそうな顔を作りながらううむと唸った。

「しかし、こんな時分だとはいえ、ここにこうしているだけで自殺志願者扱いを受けるものですかね。しかも、こんなに可愛いぴっちぴちの女子高生ですよ?」

 随分と鼻につく言い方だが、どうやら人目を惹く容姿をしていることにはある程度の自覚を持っているらしい。些か過大評価が過ぎる、と言い切れないところが余計な反感を買い兼ねないと思った。同性に好かれないタイプだな、この娘。

「なら、別に自殺しに来たというわけではないの?」

 僕が若干砕けた物言いで訊き返すと、女子高生は顎に手を当てながら「いえ、迷っているところです」と答えた。僕は改めて不満を示した。

「自殺するか低迷するために此処へ来たわけじゃあないんだろう?」

「まあ、そうですね」

「ちなみに今はどっち寄り?」

 問うと、女子高生は「かんがえちゅー」と言って、その薄紅色の唇をくっと尖らせた。そうして降ってくる雪をさながら金魚のようにぱくぱくと頬張る。阿保だと思った。

……しかし、なんだかなあ。

 こうして会話をしてみて気付いたが、どうやら彼女は頭のネジが一本飛んじゃってる系の女の子らしい。まあ、大学三回生に進級して、とうとう就職活動に粉骨砕身して勤しむ身となった僕としては、そういった俗世から浮き出たような奇抜さは新鮮なんだけれど。

 とはいえ、死に袖が触れて尚、平生を保っていられる女子高生も珍しい。最近のじぇーけーなんて携帯を取り上げただけで絶命するほど脆弱だと聞く。それに比べて、目の前の女子高生のなんと強かなことよ。僕は彼女の人並み外れた大きな度胸に感服した。

 ともあれ、彼女がただの自殺志願者であることが判明したので、僕はとりあえずの安堵に浸る。幽霊の存在の有無も知りたかったところだけれど、誰も死んでいないに越したことはない。

「ところで、あなたこそ、こんな所で何をしているんですか?」

 女子高生がこてんと小首を傾げながら問うてくる。さらり、と前髪が僅かに横に流れ、その隙間から形の良いおでこがひょっこりと覗いた。

 逡巡の後、僕は簡潔に説明をした。

「愛しの彼女が事故に遭って、入院したり手術したりと色々あってね。まあそれなりに忙しかったんだけど、最近になって漸く落ち着いたんだ。だから、これからまた会いに行こうかなって思って。逢瀬というやつかな」

「それは、何と言いますか、遺憾な事故でしたね。彼女さんの傷が早く癒えるように祈っています」

 女子高生の労わりの言葉に、僕は一言、「ありがとう」とだけ返した。

「いえ。それにしても、この距離だとさぞ大変なことでしょう。もう少し道が整備されれば、車両での通行もいくらかは楽になるんですけれどねえ」

 言って、彼女は再び橋の外側へと視線を移した。橋から直角に当たる位置には、一ヶ月程前に彼女が運び込まれた相良総合病院がどんよりと佇んでいる。深夜帯なのも手伝って、なんとも言えぬ雰囲気を醸し出していた。

 僕は雪に晒されて冷たくなった顔を下ろし、再び目の前の彼女へと視線を移した。依然として、女子高生は怖がる様子もなく、欄干にて月光浴を満喫している。その横顔は酷く儚く、この世の終わりみたいなわびしさを携えていて、なんだか僕は無性にもどかしくなった。

「親御さんが悲しむぞ」

 雰囲気に当てられたのか、気付けば定番の台詞を口にしていた。二時間ドラマじゃ使い古された手法だけれど、「説得」という扇動的な行為に於いて、このアプローチは間違っていない。

 特に女性はそうだが、人間は物理的な痛みに対しては案外強くできている。その反面で、想像や共感により生じる精神的な痛みには滅法弱い。心の傷、と言うと安っぽく聞こえるが、実際のところ、心よりも繊細な器官など存在しない。とても繊細で、とても敏感で、それからとても壊れやすい。それは唯一の弱点であるとも言えるし、同時に、人間が他者と関わって生きていくための唯一無二の希望と言っても過言ではないだろう。

「両親はいません」

 一蹴とはこのことか。

「いやあ、それでも、ほら、親じゃなくたって君が死んで悲しむ人がいるよ多分」

 綺麗事だと自覚しながらも口にすれば、彼女は一層語気を強めて「そんな人はいません」と言い放った。その挙動に合わせて綺麗な黒髪がさらりと揺れる。それは彼女の心の動揺が反映されているようでもあった。

「自分は独りだって言いたいのかい」

 どうせこんなことを言い出すのだろうと容易に想像がいったので、先回りして通せんぼを試みる。すると、女子高生は躊躇することなく「はい」と肯った。

 死と隣り合ってみて尚、平生を保つその精神力には年上の僕でさえ脱帽を禁じ得ないが、しかし、その強情とも言える強かさがここへ追いやったのだということに、彼女は早く気付くべきだった。

 人を自殺させようと企む加害者は、いつだってその人の中にしかいない。彼女を一番殺したがっているのは他でもない彼女自身で、だから、生と死はいつだって裏腹だ。

 彼女に自殺を思い止ませるその大役、不肖この僕が請け負おう。

「随分と思い上がった考えだね」

 言うと予想通り、俯いていた女子高生の眉がぴくりと僅かに動いた。そうして暫くは、切れ長の目を細めて降り積もる雪をじっと睨んでいたが、やがて緩慢な動作でゆっくりと顔を上げると、その不機嫌さを隠そうともしない獰猛どうもうな瞳で僕を見据えた。闇夜の中でもはっきりと見える、射殺すような鋭い眼光が僕の心臓に突き刺さる。たけだけしい敵意に少しだけ腰が退けた。

 何が言いたいんですか、と女子高生は声を低くして言う。

 僕は苦笑から一転、次には真剣な表情を作り、しかし諭すように優しい声音で言葉を放った。

「君が思っているほどに、他人は君を気に掛けていなくなんかないよ。人は視界に入ったものを認識するし、意識もする。よく、自分で思っているほどに他人はお前のことを気にしていない、みたいなことを言う奴がいるけれど、実際そんなことはないのさ。みんな、案外気にしている」

「そんなことないです」

「それが思い上がりだって言っているんだよ。他人を理解した気になって、勝手に決め付けて、わざわざ加害者に仕立て上げるような真似はよしなさい。君が一人でも一人じゃなくても、君の存在を自分の世界に置いてくれる人がいるうちは、自分を諦めるようなことはしない方がいい」

 そんな風に偉そうに講釈を垂れると、女子高生は僕に対して、なんとも胡乱うろんな瞳を向けた。そうして眉を顰めてから、露骨に嫌そうな顔をする。

「説得しているつもりですか?」

「君にそう聞こえたなら、そうだったんだろうね」

 得意げにそう締め括れば、女子高生は「なんですかそれ」と喉を鳴らして笑った。そうすると先程までの剣呑とした雰囲気は蜘蛛の子を散らすように雲散霧消し、張り詰めていた緊張は残滓も残さず消え失せた。それまで僕と彼女を隔てていた壁が虚空に滲むように消えていく感覚は、降り積もった雪がゆっくりと溶けていくようでもあった。

「さっきはあんなことを言ったけれどさ、自殺しちゃいけないなんてことはないと思うんだ。僕は君の抱える事情を知らないし、さっき言ったことだって全部テキトーで、方便で、詭弁で、綺麗事で、嘘っぱちだもの。あんな妄言に動揺するくらいなら、死ぬにはまだ早いって話。それに、本当に死にたかったら迷ったりなんかしないものさ。結局、君には説得される余地があったってこと」

 それは君の過失だ。

 残酷な真実を突き付けるようにそう言えば、彼女は反駁はんばくを諦めたような、けれども最後までは納得できないでいるような、そんな曖昧な顔で俯いてしまった。彼女の小さな唇から吐き出される白い吐息だけが、奈落の底から迫り上がってくる夜風に流されて、滲むように夜の中へと消えていく。

 時間が膨らむような無言の時間が続いた。しんしんと降り注ぐ雪の音が聞こえてくるようだった。

 彼女はようやく顔を上げた。意思の宿った確かな瞳が僕を見ていた。

「分かりました。あなたの言葉を愚かにも信じて、もう少しだけ生きてみることにします」

 言って、女子高生はぺこりと頭を下げる。しかし、僕が「随分とあっさり説得されたものだね」と苦笑しながら言うと、彼女は少しバツが悪いというような表情をして、次にはどこかすっきりしたような顔を作り、遥か遠くの空を見やった。雪の降るモノクロの空は、どこまでも広がっていて果てがない。そんな空をじっと見つめながら、女子高生は言った。

「非常に不本意なことですけれど、もしも心から死にたいと思っていたなら、きっと私はあなたとも出会っていなかったでしょう。あなたは橋の下で寒中水泳に勤しむ私にも気付かずに、すたすたと通り過ぎた筈です。それに、声を掛けられて少し安心していたのも事実でした。あなたがここへ来たあの時、私は確かに、心のどこかで安堵したのです」

「……そう。なら、これでよかったのかな」

「よかったんです。きっと、心の底から死にたいと思っている人なんていないんですよ。結局、無理矢理に理由をこじ付けているだけなんです。私みたいに」

 死ぬことが許される、そんな悲劇のヒロインに誰だって憧れているんですよ、人間は。

 そう言って、彼女は全てを語り終えたように深く息を吐き出した。白い吐息が、またしても風に流されて虚空に滲む。

 そうして、再び遠くの空を仰いだ。

 その横顔が、何故かとても魅力的だった。

 そうかな、と僕は言った。

「そうです」

「そうだといいね」

「そうじゃなきゃ困ります」

「それは何故?」

「プライドの問題です」

「なるほど」

 先程までとは打って変わり、色のある表情を見せる女子高生。いっそ刺々しくさえあったあの鋭利な綺麗さこそ失ったものの、こちらの方が余程人間味があって可愛らしいと僕は思った。

 彼女は微笑んで言う。

「それと、あなたの彼女さんとやらによろしくお伝えください。結局のところ、その人のおかげで命拾いをしたみたいですから」

 その言葉に、思わず感心する。知らずのうちに誰かを救ってしまうなんて、やはり僕の彼女はとても素敵な人だったんだなあ。

 しかし、あれだね。

 どちらにしたって人の生死をひっくり返してしまったことに変わりはなく、僕は今更になって、なんだか余計なことをした気になった。死ぬ筈だった彼女は確かにいて、勿論そんな選択が正解だとは思わないけれど、僕が干渉したことでその運命が改変されてしまったことは事実だ。それこそは僕の過失なのだろう。

 僕はその死ぬ筈だった彼女に対して責任を負わなければならない。だから、せめて死ねなかった彼女に対しての手向けとして、生き残った彼女への餞別せんべつとして、鼓舞こぶの言葉を送ることにしよう。

「月並みだし、煩わしいだけかもしれないけれど、まあ、頑張ってよ。生きていればいいことあるって、そんな気楽なことも言えないようじゃあ、この先やっていけないぜ」

 安っぽい言葉を高らかに謳う。すると、彼女は就職したてのサラリーマンのようなつまらなそうな顔で「善処します」と答えた。それでいいよ、と僕は笑った。

「ああ、そうだ。これを使って」

 僕は彼女のすぐ手前まで寄って行き、自身の差していた傘を彼女の手の中へと半ば強引に押し込んだ。彼女としても意地があるのか、しばらくは受け取ることをかたくなに拒んでいたけれど、ようやく徒労だと気付いたのか素直に傘の柄を握り込んだ。不意に触れ合った指先は温かく、まるで彼女の体温が染み込んでくるようだった。

「いいんですか?」

「もっと早くこうするべきだったね」

 女子高生の肩や頭頂部に積もる雪を見て、今更ながらにそう思う。彼女は橋の欄干からぴょんと内側に着地すると、身体をふるふると揺らして身体に積もった雪を払った。

「色々、ありがとうございました」

「礼には及ばないよ。現役女子高生のパンツを見れたんだから、僕としても役得だった。これでもう思い残すことはない」

「ああ、これ見せパンですよ」

「見せパン?」

「はい」

「ええっと、パンツじゃないから恥ずかしくないもん?」

「なんですか、それ」

「さあ」

 僕が首を傾げて答えると、女子高生は「何言ってんだこいつ?」という侮蔑にも似た視線を向けてくる。出会い頭に向けられたそれよりも冷たいものだった。

 女子高生は濡れた顔を制服の袖でぐいと拭い、それから少し乱れた前髪を手で梳いて整えると、ぱっと顔を上げ、改めて僕の方を見やった。

「では、私はこれで失礼します。あなたも早く彼女さんの元へ行ってあげてください。誰だって一人は寂しい筈ですから。そうして、できることなら、ずっと一緒にいてあげてください」

 女子高生の言葉に、つい頬が緩む。

 随分といじらしいことを言う娘だ。

 言われるまでもないね、と僕は答えた。そうすると女子高生はひらりとスカートをひるがえし、相良総合病院へ行くのとは逆の道、僕の歩いてきた方向へと此方を一度も振り返ることなく去って行った。

 僕は静けさを取り戻した鴨江橋の上で「へきしょい」とひとつくしゃみをした。一人になった途端、急に周囲の気温が下がったような錯覚を覚える。身体に降り積もる雪は存外に冷たく、悪足搔き程度に乾布摩擦を試みるが、その甲斐も虚しく体温はそろそろと奪われていった。

 しばらく、そうして、ぼうっとしていた。降り頻る雪にかじかんだ指がちくちくと痛む。解けた雪が靴に染み込んできて、靴下に浸透し、足の裏を灼く。ずず、と洟を啜ると、鼻腔びこうの奥に冷たい空気が流れ込んできた。

「さて」

 僕は棒に成り果てた足に鞭を打ち、ゆっくりと一歩を踏み出した。ざく、と擬音にすると鋭利そうな音を立てて雪を踏み締める。なんとなく後ろを振り返り、すでに消えかかりつつある女子高生の足跡に惜別にも似た想いを抱く。

 ふと、自嘲的な笑みが溢れた。

 女子高生との遭遇に伴って生じた気休めの安堵は、しかし、低迷すらももたらさなかった。あれだけの綺麗事が吐ける自分をどこか他人のように思う。自分のことを棚に上げ、人生の先輩面をして説教を垂れた僕の方こそ、あの娘の爪の垢を煎じて飲むべきなのかもしれない。

 僕は女子高生の座っていた欄干部分まで歩み寄ると、すでに積もり始めている雪を手で払い、再び露出した錆色に手を掛けた。あの子の体温がまだ微かに残っていて、そこだけが生きているようかのようにじんわりと温かい。その僅かな生の残滓ざんしに、僕はなんだか泣きそうになってしまった。悴んで感覚の曖昧になった手をポケットに突っ込んで、薄墨色の空を見上げた。星はひとつも見えなかった。

 僕は腕に力を込めて身体を持ち上げると、女子高生がそうしていたように欄干に腰を掛けた。

 真下に広がる膨大な闇が、まるで抱擁するように腕を伸ばしてくる。それがひたりと頬に触れて、そうすると、冷静を通り越して実感する。

 ああ、やっぱり、すごいや。

 女子高生の綺麗な横顔を思い出して、なんとも情けない気分になってくる。喉の奥から、鋭く重いものが腹の底にずんと沈んでいく感覚がした。

 どこかで大丈夫だと思っていた。それに憧れていた自分が好きで、そんな自分を否定する自分が好きだった。

 しかし、中学生の時から愛読書を持ち歩くように抱いていた死に対する憧憬は、実際に向き合った途端に跡形もなく崩れ去った。眼前に広がる景色は奈落以外の何ものでもなく、死ぬことは恐怖そのもので、だから、僕は臆病だった。

 情けないと思いつつ、まるで作業を全うするように、僕は今日もここにいる。

 大丈夫と自分に言い聞かせ、ゆっくりと瞼を閉じた。

 吹き上がる風に煽られ、その勢いのまま、欄干を蹴る。内臓の浮くような浮遊感に身体が強張り、手頃な恐怖に首を竦めた。

 雪に足を取られながらも橋の内側に着地すると、卑下にも似た笑いが口の端から溢れた。そこには一切の余裕もなく、介在するのは地に足が着いているという、たったそれだけの安堵だった。そんな当たり前のことが幸福さえも凌駕する人生の価値だった。それが基盤であり、目標だった。それだけが人の全てだった。

 僕は死なない。

 何度も何度も繰り返して、その度に少しずつ脅迫していって、彼女の死をいたむその裏側で、生きる気力が湧いてくる。彼女に会いたいと気取ることで、その怖さを生きるよすがに、僕はここに立っていた。

 幽霊なんていないと知っている。役目を終えた肉体は壊れたブラウン管テレビで、途絶えた魂が消えたデータだってことも知っている。

 だから、生と死を相殺して彷徨い続ける僕こそが本物の亡霊だった。

 いつか死ぬその時まで、僕はまたここに来るだろう。視界の端で些細な幸せを感じながらそれなりに満ち足りた日々を過ごして、だけど時折、そんな毎日にぬるい絶望を覚えて、きっとここへ帰って来る。そんな作業を延々と繰り返しながら、僕の幸せと彼女の死の間にある距離を限りなくゼロに近付けていくのだ。その時にこそ、僕は満足に死ぬことができるだろう。

 劇的なことなんて、きっとない。

 そんな普通の、平凡な当たり前の、だけども簡単じゃない日々を、僕は必死に生きていく。

 

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