エピローグ+α

エピローグⅠ

 梅雨明けと共に、蒼穹に入道雲が湧き上がる盛夏の季節、天候も各々の気分も晴れやかな心持で暮らしておりました。

 高校の裏手に伸びる畦道を歩み、僕の背丈よりも高く生い茂った雑草のさえずりと匂いを耳と鼻で感じ、凡ての桎梏しっこくから解放されたような自然の爽快さを享受しております。遠望するとサラサラと流れる小川が分岐しては田園を潤しています。茅葺屋根の民家が点々とありまして過疎地域らしさが窺えますが、前方にあります木造の四阿あずまやには農作業中の御老人ではなく制服姿の少女が、腰の高さくらいまである石柱に座って読書をされていました。

 近寄る僕の存在に目を向けた少女は土に足を附けて、股を閉じてスカートの裾についている埃を払いました。

「読書中お邪魔して、すみません」

 全然問題ありません、と少女――手白香行方さんは頭を振りました。

「こちらこそ、私のためにお気遣いいただき有難うございましたわ」

「いやいや、気を遣ってもらっているのは手白香さんですよ。千野さんと遠江さんの挙動不審を察して部室から出てもらって……一応あの二人も、サプライズで手白香さんをお祝いしたいそうですけど」

「そうですの。私が申すのも不躾ではありますが、慧生さんのバッグからプレゼント用に包装された物品が半分ほど露わになっておりまして……それとルミナさんは手許に大量のクラッカーを抱えてキョロキョロしていましたから……どうしても解ってしまいましたわ」

 口元を手で隠して微笑む手白香さんに、心の裡でもう一度謝りました。現実の文芸部員は大根役者ばかりで大変失礼いたしました、と。

 宝形造の屋根の陰に入り、僕の言表は謝罪ではなく感謝を選びました。

「期末テスト対策の勉強に追われ乍らも文芸誌の執筆にご協力いただき、大変助かりました。手白香さんの有するポストモダン文学的発想が無ければ、あれだけ無秩序で強靭な舞台講筵は成し遂げられなかったはずです」

「火遠理さんにお褒めいただくこと以上の幸福はございませんの。荒い文体とプロットでありましたが、私という存在と主観から描く言語世界の限界に挑戦した結晶が一つの作品になったことには、苦労した甲斐があったということですわ」

 悲喜の彼岸と真偽の彼岸に並ぶ場面――全四回の舞台講筵に於いて、世界=外=存在という力技を適用してでも彼女が語り手になってもらったのは、そういうことであります。

 あの舞台講筵の本文、並びに台本を書いたのは僕でもなく、千野さんでもなく、彼女でありました。

「改めて舞台講筵部分を読み返しましたが、あれだけの癲狂をコント調で貫徹するなんて意外でした」

「新たな試行の一環ですわ。文学の領野で精神を閉鎖していても、私の感性は停滞するばかりですの」

「成程。では、僕が恐縮乍ら指導させていただきました田邊元氏の『死の哲学』を取り入れたのも、向上心でしたか」

「ええ……」

 浮かない顔をする彼女は僕から視線を外し、か弱い声音で言葉を続けられました。「ですが、私の才知では錚々たる哲学者様の見識を低次元に落とし込めてしまいますの」

 彼女の情意に占める不安は、共鳴し得ます。弱力怯懦たる不要な感情ではなく、本来的存在たらしめる有用な契機であります。

「哲学を語る上では、僕も類似された不安を覚えています。以前に、僕が教えた解釈も合っているかどうか判別はつきません。日々、言葉や文字で表現しながら模索している未完全な状態でおりますので、手白香さんも気にし過ぎず現状での答えを答えだと認める処から始めてみては如何でしょうか」

 僕の思いは意図した通り彼女へ届いたようでして、段々と表情を明るくされました。所持されています書籍の表紙を一瞥し、光芒一閃が宿る瞳を僕に向けました。

「夕籠火遠理さんという主人公は、架空世界でも……架空世界の架空世界でも……そのまた下の世界でも……私に手を差し伸べてくれまして、この私は現実でも支えられてばかりですわ。それはまるで、ノンフィクションで語り継がれる偉人の如く……」

 彼女が両手で持つ本のタイトルは……『田邊元・野上弥生子往復書簡』とあり、僕は喫驚しました。

「手白香さんもその本、読んでいたのですか。言ってくれれば良かったのに。僕も所有しておりますので貸せましたよ」

「だって……恥ずかしいですの。火遠理さんもこの本がどういう内容か、お判りでしょう?」

 ローファーの爪先を地面に捻じ込むように足首を動かし、赤面している自分自身をもどかしく思う彼女でありました。恐らく僕も彼女の挙措をそっくりそのまま模倣していることでしょう。

「哲学者・田邊元氏と女流小説家・野上弥生子氏の恋文記録……」

 まさしく、哲学に傾倒していた少年と文学に嗜む少女の理想的関係を代理していた本でありました。

 そして、それを読んでいた彼女は何を感じ何を思うか……僕は認容していました。

「フィクション上の私は、火遠理さんの愛を現実のこの私に分有し給えと言いのけましたが、撤回させていただきますわ。私は未熟ですわ。六十を超える晩年に愛情関係を持たれたこのお二方とは違って、愛の本質を語るにはまだ早過ぎましたの」

 言い切った彼女は口を真一文字に結び、これで私の表明は以上ですと誇示しましたが……やはり悔悟に後ろ髪を引かれたようでありまして、照れくささを我慢しつつ言葉を続けました。

「で、ですけど、火遠理さんとの関係は切って切れない大切なものにしたいわ。もっとお互いに年を重ねて、老いを覚えるくらいに爛熟らんじゅくした時に私は火遠理さんに残り少ない生涯の恋人として認めてもらいますの」

 徹底的に真剣になれる彼女の愛は、本物でした。毫たる偽を許さないが故に、児童から成人への過渡期に生じる不安定な思いに対する整理に倦んでおられます。

 彼女がそう望むのでありましたら、僕は従います。恋熱に依る火傷を怖がる少年少女の関係も、十分に甘酸っぱく貴重な憶出であるからです。

「では、僕も半世紀後に改めて手白香さんにプロポーズさせていただきます」

「是非、お待ちしていますわ。その時にはもしかしたら、火遠理さんの正妻も物故されているかもしれませんので第二の妻として私を受容してくれますのね」

「矢鱈重い話ですね」

「現実なんて、そんなものですの」

 悲哀がたぎる話題の割には、僕達は歯を見せて笑い合いました。

 陰鬱な未来が待っているかもしれなく、消去したい過去もあるかもしれない人間でありますが、現在が幸せであれば凡ては帳消しになります。

「手白香さん」

「はい」

 僕は彼女の華美な双眸を見つめ、穏やかな声を発しました。

「無辜惨禍の魔女であるあなたも含めて、御誕生日おめでとうございます」

「あら、素晴らしき主人公さんの優しさを遠慮していた魔女にもお祝いされましたのね」

 どうしても、現実から架空へ届けたかったメッセージでした。


 ジメジメとした季節より開放された今日は、七月十七日。架空世界では果たせなかった、彼女の正式な誕生日を祝福することが叶いました。

 ハッピーバースデー、手白香行方さん。ハッピーバースデー、無辜惨禍の魔女。

 架空の意志を受け継いだ僕は、晴天を仰いで幽遠たる慈愛を彼方へ送りました。

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