真偽の彼岸Ⅲ

終焉Ⅳ

 チャイムが鳴り亙る部室にて、エンターキーを叩く千野さんを傍観していた。

「脱稿されましたか。〆切当日の昼休みまで、お疲れ様でした」

 目頭を抑える彼女は、疲弊した声で告げた。「とてもしんどかったです」

「小説内の架空人物と只管戦っていましたからね。自我の取り合いは複雑で、答えはありません」

 坐している彼女の左傍に立ち、ディスプレイを拝見した。すると、現在もなお文章作成ソフトウェア上の原稿には文字が続いており、この僕自身の思念が……記録されている。

「あれ? 第四舞台講筵で終わっていいはずでしたけど、どうして私、書いているのでしょう?」

 タイピングする両手を動かしたまま、彼女は疑問を呈する。

「此処の文芸部も結局はフィクションですからね」

「あら。火遠理君ったら、そんなあっさりとネタバレしちゃうのですか」

「架空なんてそんなもんですよ。作者と登場人物が交錯する世界の内では、現実は生じ得ません。こんな支離滅裂な物語を読んでくれた稀有な読者ならば、多層構造を屹度理会しているはずです」

「彼岸を正しく俯瞰するには、世界の外へ私達はもう一回飛び出さなければいけないってことですね」

 と、自らの声音に沿って彼女は文字を打つ。

「現実に近しい現実である真偽の彼岸がその踏み台となるのですが、手白香さんが気附いていたように所詮は非現実です。千野さんも一生懸命書き乍ら……違和感に撞着したのではありませんか?」

「はい。事の発端に遡ると、文芸部を創立する責任を感じたが故に自分一人で文芸誌を書くことになったはずでありましたが、其処から非現実を指し示す事柄が潜んでおりました」

 指の動きを遅くして、一語一語噛みしめるように彼女はこう記述した。

「――火遠理君達が私の苦労に対し、応援するだけで済ませるはずがありません。絶対に、具体的な形を以って助けてくれるはずです。そう……フィクションの人物が主観を取り合っていたように、

 しみじみと語る彼女と僕は、現実と非現実の境目で偶然性のキャッチボールをしているのだ。

 即ち、真偽の彼岸。正と誤が曖昧模糊な地平に於いて僕達は、現実を生きているかもしれなく非現実を生きているかもしれない。ありとあらゆる矛盾が非連続に孤在されても、その裏側の裏側の裏側の裏側辺りまで考慮することに意義を齎すかもしれなく無意味なのかもしれない。

「都合の良い絶対的希望を別世界に委ねた私は、空虚な人間だったでしょうか?」

 尻の位置をずらし浅く座り、彼女は脱力した。

「此処にいる千野さん単独で考えるならば、確かに空っぽでしょうね」

「直截的で辛辣な感想ですね。だけど、サディストに構える火遠理君も好きです」

「ですが、死の哲学にも偶然性の問題も……所謂哲学的思惟に連関する思潮を拝借すると、相反する存在があることで自存在が保証され得る矛盾的思考の共存もないがしろにされません。真偽の彼岸に居る千野慧生さん其物は無であっても、悲喜の彼岸で大いに暴れた千野慧生さんに、自分自身の主観を最上層で執筆した現実の千野慧生さんと関係を持つことで、有であったと言えるでしょう」

「深淵たる叙述で私に希望を与えている甘い火遠理君は、もっと好きです」

 斯様に、対立的存在の僕を反復横飛びして受け入れる彼女も矛盾を備えていたが、その志向は別の次元か。

「素直に嬉しいことでありますが、むず痒いです……」

「どうしてですか? 現実世界の内向的な私が火遠理くんに秋波を送る千載一遇の愛情表現ですよ?」

「いや……だって、今書いているのって現実世界の僕じゃないですか……。自作自演でモテているほど惨めなものはありません」

「だったら、現実世界の私が必死こいて火遠理君に頼み込んだかもしれませんね。私だけが火遠理君への愛を語るのは寂しいから、火遠理君を好きでいる私を客観的に書いてください、って」

 そこまで要求出来る根性があるのなら、現実側の二人はさっさと附き合えばいいのに。

 だが、そうはならない理由があるのだろう。複雑なようで単純な喜劇的理由には予測がつくが、此処では公表しないことにする。痴話喧嘩は世界外にてお願いいたします、と切望するは踏ん切りがつかない駄目な男であるのだ。

「恋愛小説に近寄ってしまいましたよ。本来的な作品のテーマへと戻って終わりにしたいのですが、千野さんはこの物語のジャンルを覚えています?」

「……ライトノベル的なファンタジー?」

「無辜惨禍の魔女との平明な戦闘が描かれていたらそれでも構いませんが、ティーンエイジャー向けの小説とは懸隔されています」

「では、文芸部の存続を目指した青春エンターテインメントは?」

「河川敷で本音を語り合う場面や自転車の二人乗りとかありましたっけ?」

「うーん、生と死の真理を探究するヒューマンドラマはどうでしょう?」

「第一舞台講筵では僕、自分の葬式に出席しては棺桶に入って、挙句の果てには遠江さんに異能で燃やされたのですが」

 顧みると、全力で巫山戯ていた世界で僕らは生き通していた。

「――窮余の一策で、実話的メタフィクションと表明したくなりましたが如何でしょうか?」

 意味不明じゃないですかと呆れるかもしれなく、大正解だと拍手を送るかもしれない。

「だとしたら、僕と千野さんは何に依って最後の句点を刻むべきですかね」

「……また難事を創造してしまうと、この世界の〆切ではなく上層部の期限に間に合わなくなってしまいますよ」

 彼女の配慮は正しい。終末の決定に苦心している現実に向けて、せめて僕と千野さんが打開しなければならない。

「でも……打開と云うか……一つのエンディングへ結ばなくても別にいいのか」

「良いですね、火遠理君。そういう発想こそ、彼岸の突端です」

 起立した彼女は僕の両頬に触れ、暗色の瞳を接近させた。

「つきましては、火遠理君と私が幸せなキスをして終わるかもしれなく、火遠理君が情熱的に私を抱き締めて終わるかもしれなく、火遠理君が結婚を前提にした告白を私にして終わるかもしれなく、火遠理君が私をお姫様だっこして睦言を交わしてフェードアウトしていって終わるかもしれないのです」

「偶然性のベクトルが一方角に偏っているのですが」

「さあ……火遠理君はどの火遠理君がお好みですか?」

 選択を迫られてもな、と逡巡した僕――いや、火遠理くんは心を鬼にして慧生の両腕を払い――しかのみならず慧生さんの手首を捻って転倒させた。

「僕ってそんなにバイオレンスな男じゃないですけど!」

 自らの挙措を世界外より強制せられた火遠理さんは、悲喜の彼岸を書いていた世界もまた書かれている側の世界だと容認し、フィクション的存在としての自覚と面白味を看取した処でしまいとさせていただくわ――なお、余談であるが慧生はこの後、火遠理くんにサクッとフラれてしまうのであった、と。

「あっ! 行方御嬢様にルミナちゃん! 世界外から火遠理君の主観を操作したのですね! 意地汚いですよう!」

 地に伏せたメインヒロイン(笑)が何やらほざいているが、これ以上喧騒を続けていても悲喜の彼岸と同じ物語を繰り返してしまうので、本当の本当に此処で終わりとさせていただく。


 以上、現実界スタジオより別世界スタジオの様相を中継させていただきました。リポーターは元無辜惨禍の魔女・遠江ルミナと――元無辜惨禍の魔女・手白香行方で御座いましたわ。


 (ねえ、ルミナさん。元無辜惨禍の魔女って肩書、要るのかしら?)

 (何となく言ってみたかっただけだよ)


 ――と、意味を為さない二人の沈黙的言表の後、僕達は一望千里終局の地へと帰来する。懐古的な無に浸り、安らかな眠りについた証として句点を置き遺したのだった。

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