終焉Ⅲ

「た、楽しそうですって? 遠江ルミナは盲目になってしまったの? 貴女達に卑下されて、無辜惨禍の魔女としての決意を踏みにじられた私がこんなにも怒り狂っているのよ」

 私と他存在の間隙にて、大きなズレが生じている。そんな予感を膨らませ乍ら、私は脚の爪先から頭の天辺まで深くなる夕闇に浸かる。

 閑散とした都庁周辺も、冷える秋風も、沈む夕陽も、凡ては架空的舞台であることは夙に知り得ていた。

 だが、私という悪役的存在に与えられた無辜惨禍の魔女としての属性と、無前提に押附けられた悔恨を基盤に、本来的な物語を敢行せねばならぬのだ。嘘だから手抜きをしていい理由にはならない。

 それが故に私は、存在者の存在を把持しようと勇み立っていたが……気張り過ぎていたのかもしれない。上書きされた自我は、夕籠火遠理の達観された様子から影響を及ぼされた。

「怒り狂っている、ですか。果たして、それも本当なのでしょうか?」

 彼は千野慧生に目線を送る。「千野さん。鏡を」

「はいです」と、千野慧生は背広の内ポケットより、A4サイズの鏡を取り出した。物理的に疑問が残る現象であるが、今更指摘するまでもない。

「行方御嬢様、此方をご覧ください」

 彼女に指示されて無愛想に顔を向けたはずが……虚構内虚構のミラーに映し出されていたのは、頬を朱に染めてニッコリと笑う私だった!

「……何よこれ? どうして嬉しそうにしているのよ? 私は世界其物を憎むべきなのよ!」

 声のボリュームを上げて感情を乱雑にしようとしても、私の頬は緩んだままだ。

 これが、私という存在の現在?

 悪心を拠り所とする手白香行方は……既在に置いて行かれたの?

「行方御嬢様の主観で長く記述された理由……それは火遠理君の類まれなトリックでもなく、作者の私に依る強制でもない……行方御嬢様が望んだことにあります」

 そうだったのか。メタフィクションの階段を上り下りしては輪廻された次なる世界軸でも、私は着々と本来的な終末へと邁進していたのだ。超人化への登攀は疾っくの昔から始まっていた。

 楽しかったのだ。刑事に扮する夕籠火遠理と一緒に張り込みをさせられたのも、飛騨黎泉が謎の権力で警察や自衛隊を退避させたのも、千野慧生と遠江ルミナに突発的なバースデーケーキを贈られたのも、誕生日で無かったのも、不可解な重罪で各々が悔悟しているのも、凡てが私にとっての真なる喜劇であった。

 それを認めたくない私も居た。嬉々として彼等の舞台講筵に参加する私を早々に認知したくない対蹠的な私が存在していたからこそ、自らが主観となって蔽い隠していた……。

「笑い顔を含めた客観的な喜の感情を僕に語らせたくなかったが為に、手白香さんは語り手を長く続けられていました。それが、喜劇と悲劇の反復に隠されていた手白香さんの本心です」

 ハッピーエンドを迎えましょう、と夕籠火遠理が再度告げた。

 素直に受け入れ難い事実であった。されど、テロリストとなる悪を一貫させたい意志とは裏腹に、これが偶然に偶然を連結させた必然であると看取している。


 ――火遠理さんは、虚無より生を享けたもう一人の私を……相反する情意を越えたメタフィクションで、不幸にも幸福にもしてくれました。


 現実に偏った善人の私が胸裡で述懐している。

 私は……無意味な登場人物で終わってしまう、のではないのね。


 ――ええ。あなたの有意義な役目はこれにてお終いです。本当にお疲れ様でした。辛い思いばかりさせちゃって、大変申し訳ございませんでした。


 あなたこそ、現実との混淆が顕著になっても物語上の出演が少なかったから物足りなかったのではないかしらん? 私ばかり出しゃばって悪かったわね。


 ――お気になさらず。慧生さんのご判断もありましたが、私達はこういう関係で良かったのだと思います。それに、気質を明確に変えた方が、ですので……。


 最後の一言で、私は世界と世界を区劃する境界線を喪失せしめた。それで初めて、私が笑顔で居ることを自認したのだ。

「酷く強引な結末だけれども、無辜惨禍の魔女が行き着く極限点が更新前の世界へと帰一する狙いは悪くないわ」

 悲喜の彼岸Ⅰで夕籠火遠理に語られた私も、最後は笑っていた。そして今回も……第四舞台講筵に到達するまでの道程は千野慧生の怠慢により多数の穴が穿たれているが……私はこうして彼等に優しく見守られて一先ず『悲喜の彼岸』に幕を下ろそうとしている。

「そろそろこの地平での物語が終わりそうだから、貴方にお願いをしておくわ」

「何でもどうぞ」と、彼は快諾する。


「せめて……現実世界に傾倒している御嬢様の私には、微小でもいいから貴方の愛を……分与してくれないかしら」

 発言者の私を含め、全員が大いに驚愕した。

 その言葉――『真偽の彼岸』となる世界名にこれまで接触しなかった各々の過去を振り返り、諒解すべき未来への途が開いた。


「手白香さんの切望は保証します。複数の世界を跨いでも、僕という存在は収斂されて現実世界へと確実に寄与されるでしょう」

 私は安堵して、最後に世界全域の時間を止めては崇高なる瞬間を未来永劫閉じ込めようとしたが、魔導は喪失していた。

 論理的な過程を描かなくても、現に超人化が為された私が此処にいることを世界へ明け渡せば叶うのだ。

「さて、と。これで悲喜の彼岸を語り尽くしたし、慧生も文芸誌を提出できそうだな」

 遠江ルミナは千野慧生の肩をポンポンと叩く。

「ええ。晦渋かいじゅうな表現が常時附き纏いましたが、私は概ね満足です。後は……最後の最後に……火遠理君」

 と、千野慧生は彼を呼び、「劈頭の場面に回帰して、終わりましょうか」と提案した。

 彼は首を縦に振り、私に頭を下げた。

「手白香さん。あなたがいなければ、僕も――」

 続くであろう彼の睦言を、右手を前に突き出して遮った。

「私への顧慮的気遣いはもう結構よ。続きは現実世界で……」

「ああ、そうでしたか」

 解ってくれたようだが、遠江ルミナが容喙ようかいしてきた。

「愛の告白的な気遣いだったら、今の行方ちゃんも受け入れていいんじゃないのー?」

「私には相応しないのよ。夕籠火遠理が本当に好きで居られるのは無辜惨禍の魔女ではなく、純粋無垢な御嬢様ってことよ」

 一時期、この私が彼に恋を要求したこともあったが、やはり粋では無かった。

 二重人格という通俗的な現象では当て嵌め切れない、超越的な実存協同が私と私で成立しているからこそ、私でない私の気持ちを尊重するのだ。

「強がっちゃってー。遠慮しなくていいんだぜ。もしも慧生が行方ちゃんの立場だったら、火遠理くんに喜んで抱かれていただろうな」

「ほう……ここにきてルミナちゃんはテレパシーを会得しましたか。私の胸の内を完璧に読み取りましたね」

 舞台講筵の目的である私の超人化が済んだにも関わらず、この二人は未だに喜劇を素で演じている。それも、くだらない喜劇だ。

「夕籠火遠理……私は推奨するのも変だけど、恋人として選ぶなら千野慧生や遠江ルミナより断然、手白香行方御嬢様バージョンの方が適しているわよ」

「……気恥ずかしいですけど、そんな気がしてきました」


 肩を竦める彼を、日没で乏しくなる赤光と共に世界と世界の狭間へ送った。

 それで、不器用な生き方しか選べなかった手白香行方の役割は凡て果たされる。彼の視界は白と黒が烈しく混在し、垂直的時軸と水平的時軸が歪曲され、肉体と精神が一即多を繰り返しては――校舎の廊下へと僕は降り立った。

 正面には哲学科の扉があったが、開けてくれる飛騨先生の姿は無かった。それでも誤差の範囲内なので、特段懸念することは思い当たらない。

 ドアを引くと、『何だ、これは?』と言いかけそうになったが、轍を踏むおそれが頭に過り、別の発言へと咄嗟に切り替えた。

「おはようございます、クラスメイトさん」

 二つしかない座席の一つに点在している彼女は前回と同じく、文庫本を読んで僕の入室を待っていた。名前を知らない設定を一応守り、小さく手を振って迎えてくれた彼女の言葉を聞いた。

「おはようございます、転校生さん」

 僕は会釈して、隣の席に着いた。

「その文庫本に触れてよろしいものなのでしょうか?」

「ご心配なく。フィクションの重複はもう二度と起きません」

 文庫本にしては分厚い背表紙を彼女に見せてもらった。題名は……『空有的存在』とある。

「くううてき……と読むのでしょうか。ちなみに著者名は?」

「春里亮介であります」

「はあ」

 知っているような、知っていないような作家だった。変な気分であるが、『悲喜の彼岸』でないだけ正常が保たれている。

「ペシミストにとって有益な小説ですよ。ブラック企業で働くダメリーマンの主人公が、自殺した同僚の不可解な理由を穿鑿するのですが、結局は何もない……同僚は偶然で死んだと結論附けられるのです。空無で一切の希望を断絶する……そんな理不尽な物語に心寄せられます」

 暗い概要だったが、彼女の趣向を鑑みると想像はつく。

「でも、一歩間違えたら僕達の物語も終始どんよりとしていたでしょうね」

「かもしれませんね。喜劇で悲劇を変えていく土台が意外と丈夫だったので、何とかこうして面白おかしく描き切りましたが」

「じゃ、最後に何方の台詞で締めくくりますか?」

 彼女はうーんと唸り、長々と黙考していたが……『空有的存在』の裏表紙にボールペンで何かを記入し、僕の机にそっと置いた。

『煽り文句的な瞬発性には強くない私は、理想の決め台詞がどうにもこうにも決めかねておりまして、何だが七面倒になりましたので、その、火遠理君の問いで終わりといたします』

 横を向くと、舌先を出して不手際をはぐらかす彼女が両手を合わせて、これで頼みますと懇願していた。

 最後の最後まで彼女に翻弄される主人公であったが、有意義な存在であったと自負している。


 由って後悔は無く、僕はあけの鐘を近くて遠いようで近い彼処へ響かせたのだ。

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