海岸Ⅱ
「千野さん」
僕は改めて彼女を呼んだかもしれなく、彼女に呼ばされたかもしれない。
「何でしょうか、火遠理君」
彼女は
僕の意識は正常だと主観が言っていたが、存在地点より把捉される外界の様相は不定な自家撞着を引き起こしていた。
「現実の僕達が架空の僕達を制約し、架空の僕達が現実の僕達を制約している関係は諒としてよろしいものでしょうか」
僕の問いに彼女は即答したかもしれなく、逡巡したかもしれない。
前者であれば、泰然としてこう言いのける。「私の許可に由らず、火遠理君の御判断にてお任せいたします」
後者であれば、躊躇った口調で呟く。「火遠理君の意志を尊重します」
何れにせよ僕に決定権があるのは明確であり、言うに俟たない事項だったなと反省する。しかるに僕は、自らの思惟機構で融合させた二人の彼女に近寄った。離別していた両者は一時的に別なる世界線を歩んでいたが、直ぐ先にあった交叉点に収束せられ、僕と手を繋ぐ時には一に帰していた。
「作者の権限も、火遠理君にバトンタッチされたようですね」
「なかなかに制御の難しい機能です。こんなのよく、ずっとお一人でコントロールしていましたね」
「上手くなんてやっていなかったですよ。失敗の連続でありました。ルミナちゃんの恋慕に行方御嬢様の性格……舞台講筵のシュルレアリスム……どれも齟齬が発生し、本来的に描きたかったフィロソフィカル・フィクションとは程遠い作品になってしまったのです」
彼女の手に力強く握られる。互いの熱量は、彼女の憤懣と僕の否定で拮抗する。
「――千野さんの理想とは懸絶された物語であっても、僕が千野さんにとっての理想を回帰させる存在になります」
これから語ることも、彼女の望みで言わされていることかもしれなく、僕の確乎たる思惟を基軸に論じるかもしれない。
七面倒な境遇であるが、僕が大事にしているのは何方かの真理を希求することではなく、何方かの真理に絶対的な意志と信頼を注ぐことにあるのだ。
「声を大にして、僕は幸せだったと叫びたいです。遠江さんと手白香さんの悲劇……無辜惨禍の魔女との哲学的抗争は結句、概要でしか触れられなかったですがそれで構わないと思えます。架空の僕へ投げ出された僕が本当に得たい知識と経験というのは、正義と悪を明瞭に区劃する闘いでもなく、束の間の休息で訪れる女子との消極的恋愛でもなく、抽象的衒学的弁証で確定せられた平和な大団円を迎えることでもなく、凡てを不明瞭ならしめる偶然的可能性の領域に逗留することにあったのです」
「……偶然、ですか」
千野さんは満足そうに頷いたかもしれなく、瑠璃色の水面を蹴っては飛沫を上げたかもしれない。そう、それも偶然。僕達は常日頃、必然性に達しない可能性の塵芥で構成せられる世界で生きている。
「現実から非現実へ歩み寄ったことで無際限の偶然性を看取し、緊張と弛緩を反復し乍ら幸福というものを知り得ました。だから、僕は千野さんに書かれたことに感謝していますし、僕を書いた千野さんを書く共同的輪廻が萌芽しております」
「では、そんな火遠理君を私が上書きしなければです」
「上書きした千野さんを僕が再度書き直します」
「じゃ、二人は私が書いてやるよ」
最後の声は、砂浜の方から届いた。
遠江ルミナが現れたのも、一つの偶然。振り返ると彼女は不敵な笑みを浮かべ、仁王立ちで待ち構えていた。
「……何故スクール水着なのですか? それに……ワイシャツ?」
苦笑する千野さんが指摘した通り、ルミナさんの恰好は学校指定の水着の上に白シャツを羽織っていた。どういう組み合わせだろうか。
「いやー、萌えるかと思ってさ。それに慧生との差別化を期待した火遠理君の我慾が働いたのかなー」
と、ルミナさんは僕に潜在せられている好み(下劣な言い方が許されるのであれば、性癖)が作用して、スクール水着とワイシャツの加法が演算せられたと解釈しているらしい。酷い言いがかりではあるが、全否定しかねる僕の実存を感じている以上――私の微表は火遠理くんが望んで決められたことである。
「……ふーん」
鈍く耀かせる慧生の瞳が極度に濁る。私か火遠理くんに嫌味を言い連ねると予想したのだが、意外にもあいつは積極的に火遠理くんにくっつき、彼の胴に腕を回した。
「ち、千野さん……主人公の権限がさっき、遠江さんへ移られましたから……」
困惑し乍らも、火遠理くんは自覚されていた。ふむ、順調のようだ。彼と私の内的存在点が一致した。
「ポッと出のなんちゃってヒロインは、別なる世界の主人公へトレードされることを推奨いたします。そうですね……喩えば、アイドル崩れの女流雀士が日々、場末の雀荘でストレスを蓄積しつつチヤホヤされたい自分を諦めきれない辛苦を語る大衆小説であれば、ルミナちゃんはメインキャストに大抜擢であります」
だが、傲岸不遜な作者による言葉の暴力は相変わらずだったので、私は物理的暴力に頼った。砂浜を駆ける。
「あああああああああああああああああ!」
行方ちゃんの叫びを参考にして轟かせた声を世界外へ届け、内界へ反響させる。物理即精神の跳躍……全力疾走からのドロップキックは、慧生を軽く吹っ飛ばした。私も落水したが、綺麗に決まったプロレス技に心が躍る。
「や、野蛮ですねえ……。其処までして私と火遠理君のラブストーリーを抹消したいのです……」
慧生が水面から顔を出し、目を擦る。
「当たり前だ。それと、其処から動くな。海に漬かったままでいろ」
「何故ですか?」
「濡れたワイシャツでブラジャーが透ける、しょーもないラブコメ展開を阻止するのさ。そう忠告した方が賢明だろ、火遠理くん?」
彼は腑に落ちたようで、私に関心の目を向けた。
「とても助かります。皆からの誘惑が多過ぎると、僕も冷静で居られなくなりますので……」
「だろ? それで折角だから、これより六行後に『遠江さんってスタイル良くってセクシーなんですね。ペシミスト系女子なんて最初から要らなかったのですね』って褒めてくれい」
「ええ……結局ラブコメ的描写をするんですか?」
そう嫌がるなよ。騙されたと思って、私が欲する火遠理くんに投企してくれよ。
言語世界の未来に先駆けた私は、彼からの祝福を待機した。
「fgh徐ptbんkljrshぎgf打f」
――と、私は火遠理君の言葉をジャルゴンと化した。
「何語だよ!? 今どうやって発音したんだ!?」
「わ、解りませんが取り敢えず断言せられることとしては、僕が懐く好感度としまして、慧生ちゃん>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>遠江さん、であります」
「だから不等号の程度をどうやって言表したんだよ!?」
声と文字のズレが齎す可笑しみで誤魔化し、私は権限を奪回した。それに気附いたルミナちゃんに憎々しく睨まれる。
「さては……慧生! 私利私欲でメタ階層を操るなし!」
「ルミナちゃんこそ!」
私は身体のラインが艶めかしく露わになる濡れた制服姿を彼に見せるべく海から上がろうとしたが、私はそうはさせまいと阻止する。
沈黙内の戦いでは私が優勢であるかもしれなく、私が優勢であるかもしれない。私こそがこの物語の真なるヒロインであると私に言わせた私こそが上階層に属する存在であると私は勝手に思い込んでいるだけであり畢竟この私に最終的な権限が与えられているのだと高唱する私もまた受動的な挙動に気附いておらず実はこの私が本当の本当に優先された存在であると自負しているかもしれなく、劣後された不遇な存在であると憔悴しているかもしれない。
「……混沌を極めているようなので、僕の主観に戻させていただきます」
と、非常にややこしいイニシアチブ争奪戦を強制的に終了させたのは僕だった。
「ご、ごめんなさい」
「わ、悪かったさ」
我を奪われたことで我に返った二人は、僕を操ったことに良心の呵責を感じ、頭を下げた。
主人公の切替というのは時に悪ふざけで応用されることもあるが、主客を考察する上では貴重な体験であるのだ。だから僕は、本気で二人に対して怒るはずがなく、『でも、二人のことは好きだと思っているから』と告げようとした自分がいたかもしれなく、気障な台詞は似合わねえよと冷めた自分がいたかもしれない。
「でも、僕にとっても楽しい世界と時間でした。有難うございます」
折衷案として無難な感謝報恩のコメントを残し、二人の顔を明るくさせる。
「私も嬉しいけどよ、もう一仕事残っているんだよなあ」
遠江さんの言葉には、僕達がこれから対機する存在を示唆していた。
「行方御嬢様は終戦の地で私達を待っていることでしょう。私達は其処へ向かい、御嬢様の本来的自我を失わせる惨禍の世界的看取を止める舞台講筵を開く必要がございます。
名残惜しそうに話す千野さんよりシリアスな雰囲気が漂ったが、彼女は後頭部を波に打ち附け、再びもがき沈んでしまった。
「センチメンタリストな所作は止めようぜ、って火遠理くんが望んでいるのかな?」
「確証はありませんが、そういうことにしておきましょうか。この物語は『悲喜の彼岸』です。表裏一体の幸福と不幸を享受して蟠りのないオーラスを迎え、架空世界に正しき幕切れの読点を最後に附けましょう」
現実と非現実の差異に関わらず、喜楽は僕達の傍に在るべきだ。
これは、曖昧な表現を避けられた。かもしれない、ではないのだ。それだけ確定せられていれば、十分だった。
「あ……足を攣ってしまいました……」
と、海中でジタバタしている千野さんにちょっとした危機が訪れた。
「なーにやってんだよ。ライフセーバーの免許は無いけどさ、泳ぎは得意だぜー!」
何だかんだ人の良い遠江さんが俊敏な動きで海に飛び込み、クロールで早急に救助へ向かい、千野さんの身体を片腕で支える。
「あ、有難うございます。ルミナちゃん」
「困った時はお互い様だ。ま、今回は慧生の悪行に由ってバチが当たったと……」
解釈して反省しろよなと言い切らず、遠江さんは顔を顰め、激痛に耐えているような煩悶の表情を浮かべていた。
「わ……私も攣ったし……」
「えー!? そんなボケは要らないですよー!」
「意図的じゃなくってよ……ちゃんと準備運動しておけば良かった……」
二人して必死になって腕を暴れさせ、不格好な立ち泳ぎを続けるしかなかった。
「ちょっとー火遠理君! 何でこんな作者的意地悪をするんですかー!」
千野さんはこの陥穽の首魁を僕だと疑っているが、そうでもないのだ。
「主人公の権限を会得した時に、過去を思い出したのですよ。あの居酒屋で最後……僕達三人の時を止めた手白香さんの、千野さんと遠江さんへの悪戯に対する伏線を回収しなきゃなってことです」
「マジかよー! 時空間を越えた罰だったのかよー!」
そりゃないぜ、と遠江さんは嘆いているが世界=外=存在の声は嬉々としていた。
(私もそのプロットを忘却していたかしらん。済まないわ、夕籠火遠理)
(どういたしまして。手白香さんは既に其方へ?)
(ええ。だけど台本が……最後の舞台講筵については一文字も書かれていなかったの)
(想定の範囲内です。僕が執筆します)
(助かるけど、貴方に頼ってばかりでは、ラスボスとしての存在がくすんでしまうわ。共同で書きましょ。私は貴方を打ち負かし、貴方は私を超人化で救う各々のストーリーラインの主導権を奪い合う流れでいいかしら?)
手白香さんの提案は、現状に於いて効果的だと思えた。丁度遠江さんと千野さんとのやり取りで試行出来たので、望みはありそうだ。
(諒解しました。それと、飛騨先生も其方へ?)
(ああ、あの駄目な大人なら、まだ居酒屋で泥酔しているわ。此処に来る道中で回収してきて頂戴。一応、あの人も時系列的に登場させないといけないし)
世界を越えて僕ら二人は笑い合った。一方で無辜惨禍の魔女に罰せられた二人はまだ溺れていた。
「放置プレイは止めてくれー! 早く場面を進めろし!」
チンタラしていると遠江さんから恨みを買う
なお、幕間における飛騨先生の介抱について詳述は回避させていただきます。何せ、焼酎一升瓶を開けた先生の様相はとてもはしたなく、洋式の便器に頭を突っ込んで寝ていましたから。その顔は自らの吐瀉物に塗れており、その臭いを形容詞で合一させることですら躊躇うほどでした。
「ふにゃー……なーに、夕籠くーん……私、酔っぱらってないですよう。ちょー元気ですよー」
世界よりこんな扱いにさせて、すみませんでした。お詫びに爾後、先生の見せ場を絶対に作るかもしれなく、やっぱり先生は不遇な脇役で終わるかもしれませんが、今は水を飲んで顔を洗って酔いを醒ましましょう。
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