悲喜の彼岸Ⅳ

海岸Ⅰ

 目を覚ますと、其処は文芸部の部室でもなく、哲学科の教室でもなく、保健室でもなく、屋上でもなく、都庁前でもなく、高架下の居酒屋でもない新たな場であった。

 小波さざなみの音と潮の匂い。遠方で蒼穹と大海を画する如く、真横に斬る水平線。見上げれば春陽。見下げれば砂浜。

 跪き、砂を掬う。指と指の隙間よりサラサラと抜け落ちる。凡ての自然を肌で、目で、鼻で感じ、現実であると見做す僕を看取する。

「彼岸、という題名が附けられている割には、河の場面が一切無く、どうして作者は海に転移させたのかという疑念についてお答えしましょう」

 物語を進行させるトリガーが引かれた。膝についた砂を払い、波打ち際で佇む千野さんの許へ歩み寄る。彼女も僕と同じ制服姿であったが、緩めたネクタイと白のワイシャツを潮風に靡かせ、スカートをたくし上げて素足で波を受けている。如何にも青春を体現したシーンであったが、彼女がしたいことはバシャバシャと海水をかけ合うドラマの一コマに非ず。

「理由なき理由的偶然性、ですか?」

「ご名答であります。火遠理君には凡て知られているようですね」

 褒められたことに、僕は首を傾げる。当たり前では?

「大したことではありません。何故なら如上の物語でも抵触した通り、僕は千野さんに包含せられる存在ですよ」

 この瞬間も屹度、僕の個我は保証され得ない。

 僕らはこれまで、努力はした。無辜惨禍の魔女と融合相即した手白香さんも、巧緻な舞台講筵のアイデア含め、作者・千野慧生の圧制から逃れようとした。

 だが、此処で一つの難問が僕達と対立する。第三舞台講筵に於いて、手白香さんは最終的に本来的な自我を獲得したと語られていたが、この架空即現実の世界で意志の起因を確実に判断する超越的客観を果たして入手せられるのだろうか?

 そうは思わない。思惟機構……もとい『地の文』で僕は完全なる自由を得ている、と宣言しても、この文章も千野さんによって書かれているという意識が消えない限り、二者の拮抗は永劫に続く。


 ――駄目なんだ。こんな滅茶苦茶な現実的架空など、生み出されてはいけなかった。現に私は、火遠理君をこんなにも迷わせている。元来、現実と結び附いた架空の火遠理君達が、同じく現実世界……上層部の私に掌握されるなんて、有り得ない。今更こんな物語に常識を投げ入れても徒労であることは況や解っているが、如何せん矛盾が乱立し過ぎている。どうしたら……?


 内界に紛れた苦悶の声は、誰でもない彼女から発せられた。

「文芸部の存続が懸かっている物語の最終判断を、どうして僕に委ねたのでしょうか?」

 現実側の話を僕は持ち出した。この質問も過去にしていたかもしれなく、初めて訊いたのかもしれない。

「どんな深刻な顛末になろうとも、私にとっての主人公は火遠理君で間違いないからです」

 千野さんがそう断言している根拠を探るのは、この世界でやることではない。

 彼女に依って、僕はこの世界に被投せられた。同時に、僕自らの希望で投企した。

 どうして現実と架空の混在が起り得ているのか、という疑問は世界外の隅へ措く。そもそも、無前提無根拠無因果の規律から『悲喜の彼岸』が構築されているのだ。

「であれば、僕は千野さんの物語を完全に了承する迄、主人公への被投性投企を継続すべきということですね」

「有難きお言葉でありますが、火遠理君に待っている、若しくは待っていたのは可也苛酷な偶然即必然の運命です。度重なる障礙を乗り越えるべく私が繋いだプロットは貧弱であり、無辜惨禍の魔女と舞台講筵の異空間で戦う本来的な展開を殆ど無下にしてしまったのです。孔だらけの架空世界を、私は火遠理君に修復してくれと勝手にお願いしているのです。厚顔無恥な頽落者には絶対になりたくないという矜恃も大海の底に沈め、私は果たして火遠理君に縋ってよろしいものでしょうか……?」

 彼女が抱えている葛藤と矛盾律は、十二分に共感せられた。

 あなたは、宿命を背負い過ぎたのだ。文芸誌を一人で書き仕上げると言ったからには部長としてのプライドもあるだろうし、孤在的立場にて只管執筆しなければならない状況で自らを深淵に追い込んだ経緯に否とは云わないが、その現実的設定から誤謬が生じていたのだ。

 僕は此処で頓悟した。従って夕籠火遠理という存在は更新せられ、およそ原稿用紙三枚分前で記述されていた自我への疑惑は非連続的に解消された、と僕は彼女に言わされた、ということにしてくれと彼女にお願いしたのかもしれない、程度の曖昧さで既に常に僕達は真理へ到達している。

「勿論頼って下さい。現に千野さんは、遠江さんと手白香さんの気遣いと我慾の原始を有耶無耶にし乍らも、各々を主体にした章を言語世界に記録しました。ページを逆方向に捲って存在しているお二人……保健室で愛を語る遠江さんに、舞台講筵の即興修正を行った手白香さんも……俯瞰すると千野さんが操っているマリオネットの糸が天蓋と繋がっていたかもしれませんが、その千野さんの手足にも複数本の糸が繋がっているのかもしれない偶然性を引き合いに出せば、自ずと僕の気持ちは楽になります」

 スニーカーと靴下を脱ぎ、ズボンの裾を膝付近まで折った僕は海水に浸かった。外界の気温と比較するとまだ冷たく、水着になって泳ぐのは先の話になりそうだ。

「れっきとした作者が不在の世界では、このように偶然で溢れ返ります。でも、それもまた千野さんや僕が個々で錯視しているだけで、世界の絶対認証者は各々の心象に任されているという考え方も稀ではありません」

 僕が現在、どういう企図で何を語っているのか世界外へ正しく伝わらず、擾乱を巻き起こしていても……地平を超越した因果律を成立しているという意味合いで僕は存在其物をありとあらゆる外に向けて強調していることには肯ける。

「火遠理君の考え方……異国の哲学者の思潮をお借りすると、『各存在者の内に、神が含有されている』ということでしょうか?」

「それに近いでしょう。真理其物を示すイデアの一即多にも同じことが云えます」

 灼爍しゃくしゃくの日光に照らされた千野さんの表情には幾許かの陰影が附加されているが、それは彼女のアイデンティティであり、負の感情へ進むための要因ではなく、黒を突き抜けた白へ到達せんとする矛盾の一致を予告していたのだ。

 波音が遠くより迫る。水面の揺れを眺め、有体的に原的に流転する瞬視の中で僕は生きていることを漸次実感していた。

「千野さん、手品の要領でノートパソコンを取り出してもらえますか?」

「はい」

 と、スカートのポケットから明らかにサイズ感が合わないノートパソコンを現出化させたが、すぐに到来した腰くらいの高さの波で彼女は服ごと濡らしてしまったのだ。

「これも偶然と偶然が織り成すストーリーラインでしょうか?」と、彼女は言い切ってからくしゃみをした。

「そう推測せられるかもしれなく、誰かにとっての必然であるかもしれません」

「成程。では、ノートパソコンが故障してしまったことについては、何かの暗喩でしょうか?」

 珍しく彼女はずっと、質問する側に回っている。そうさせたのは彼女自身の意向であるかもしれなく、僕自身の暗躍であるかもしれない。

「具体的なツールを介さなくても、千野さんは今までこの物語を書いてきました。なので、ノートパソコン自体を壊すことと設定上の確たるルート変更は同一律ではありませんが、僕達がこれからの現実即架空の人生を歩む上での先駆的決意の象徴と成り得ます」

 と僕の縷説は、千野さんが期待していた通りで伝えさせられたかもしれなく、千野さんが期待しているであろう内容を僕が能動的に伝えられたのかもしれない。

「よく解りました。では、ビショビショになった是は水没させてしまいましょう」

 晴れやかな声と共に、彼女はノートパソコンを海に落とした。なお、あくまでこの海岸は実在する場所ではないが故に不法投棄が許されているのであり、世界外の皆様は決して彼女の所作を真似しないよう何卒宜しくお願い申し上げます。

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