恋慕Ⅲ
彼女がテーブルを強く叩くと、瓶ビールが倒れそうになったので咄嗟に僕が抑えた。それでも構わず彼女は身を乗り出し、僕の胸ぐらを引っ張るように掴んだ。
「私は夕籠火遠理と結ばれる終末を望んでいる。力技の展開であろうと……世界外の読者から一笑に附されようとも……私の傍には貴方がいてくれることが確定しているのよ。作者・千野慧生の妨害なんて関係ないわ。ほら、現に私は貴方に告白出来た。確定とまで言表出来た。これにはタイピングしている千野慧生も狼狽えているんじゃあないかしら?」
抑揚をつけた話し方で、彼女はかつての人格を表面化させた。
おしとやかな御嬢様を闇の彼方へ葬り、本来的な『悲喜の彼岸』における最大の敵――無辜惨禍の魔女・手白香行方は気が狂ったかのように吠えた。
「ああああああああああああああああっ!」
直後、店内に無秩序な爆風が吹く。店の隅にいた僕と手白香さんを除き、サラリーマンの客もビールジョッキもテーブルも枝豆も刺身も箸も小皿も醤油の滴もハンドバッグも何から何まで三次元空間で入り乱れ、彼女が右上を振り下ろすと同時に凡ての物体が地へ落ちた。代わりに彼女が浮遊していた。
「非連続であった世界が繋がったわ……第三舞台講筵はこの私の頽落を超人化で止めることにある……さあ、夕籠火遠理! 貴方の哲学と笑いで私の悲劇と愛を帳消しにしてみなさい! 殆ど確実に失敗し、第四舞台講筵へ続く未来を知っていてなお、貴方は主人公として全力で生き抜けるかしら?」
宴の席で突如起こり得た異常事態に、客のみならず店員も業務を放棄して夜の街へ逃げていく。加えて再度電車が通過する喧騒の中、僕と彼女は黙って睨み合っていた。
ところが静寂が訪れた時、彼女はハッとして目を見開き、浮かせていた身体を接地させた。
「すっかり忘れていましたわ。第一舞台講筵の疑似三人称……追記しに行かなくてはなりませんの。あの部分だけ普通の三人称だと、統一感がありませんわ」
可笑しみと照れくささを込めた彼女の振る舞いは、平穏な御嬢様へ切り替えていた。
「た、手白香さん大丈夫ですか? 情緒不安定ですが……」
「しょうがないことですの。扱いづらいキャラクターですので」
身も蓋もないことを言われてしまってはフォローも難しいが、彼女は飄々としていた。グチャグチャになっている店内を見渡して、一言。「これは、恋の嵐」
「え?」
「我儘な彼女と私が齎した、感情の乱れですわ。貴方への先験的な恋の成就を期待しつつ、希望への拠り所を探し倦む焦りが悲劇の世界的看取を深刻化せられていますの」
またしても物語のアクセントを愛で補うとでも云うのか。その拘りを外すのも手であるが、無論言表はしなかった。魔女の反感を買い異能で殺されてしまう結末は最悪に等しい。
「少ししたら戻ってきますわ。舞台講筵のベースは台本ですが……其処に書かれている言語世界を改変するのも、火遠理さんの仕事の一つとなるでしょう。それを踏まえて、客観視された主人公の役割をよく検討していただきたく思いますの」
手を振り反転した彼女は、瞬き一つの間で姿を消した。
僕は何故、愛に恵まれているのだろう?
モテる男である証左も実績も見当たらないのに、遠江さんと千野さんと手白香さんの三者は無前提的な恋慕を僕へ寄せている。
「愚問ですよ火遠理君。私の心境を
前触れもなく僕の世界に侵入してくる人だなと常々思い乍ら、店の中央に佇んでいる千野さんに苦情を告げる。
「此処の店員、結局僕のオーダーを忘れたままでしたね」
「それは失礼しました。代わりに私が承りましょう」
醤油に塗れたメニューを拾い、彼女はそう言った。
「安らぎの時間をください」
「かしこまりました。すぐお作りいたします」
カウンター越しの調理場に彼女が目配せすると、カクテルシェーカーに氷を入れる遠江さんが其処にいた。
「安らぎの時間って、ノンアルコールカクテルなんだろ? 乳酸菌飲料とか適当に混ぜてやるさ」
舞台講筵はまだ始まっていないが、アイドリング感覚でボケ始めたらしい。本来的な遠江さんは、ツッコミより向いていそうだ。溌剌とした動きで複数のジュースをシェーカーに注ぎ込んでいく。
「大将、やってますー?」
と、おまけに飛騨先生が来訪された。暖簾をくぐるような古臭い仕草で店に入る。一番お酒が似合う人だから、サラリーマンに紛れて最初から居れば良かったのに。
「すいません、片付けしますのでお待ちくださーい」
千野さんが応答する。ひっくり返っているテーブルに割れたガラス類、飲食物が無残にブチ撒かれている現状、掃除と言った方が適切であろう。
「おう、今日も来たかいな。飛騨先生は相変わらず独り酒が好きだなー。そんなんだから永久に独身なんだぞ」
「毒舌な店員だこと。この後の第三舞台講筵でどうにかして、遠江さんにチョークスリーパーをかけるストーリーラインへ乗りますか」
「やれるもんならやってみろしー」
不毛な諍いをする二人は放っておき、世界外から肩を叩かれた感触がしたので、僕は意識のスイッチを切り替えた。
(手白香さん、どうしましたか?)
(悪いけど、台本を忘れてしまったわ。念のため照らし合わせて語りたいから頂戴な)
唯一暴風被害を免れたテーブルに置いたままの冊子を僕は手に取り、天に
(助かるわ。三人称を代弁している風で煽情的な追記を試みるってことよ)
(いつも乍ら難儀な役割ですみません)
(慣れに慣れたわ。ねえ、近くに千野慧生もいるかしら)
「いますよ。行方御嬢様……いや、今は行方さんでしたね。何でしょうか」
飛騨先生と遠江さんは口喧嘩を止め、世界=外=存在との会話に耳を傾けた。
(飛騨黎泉は除くけど……遠江ルミナと貴女、それと私の三人が何故、夕籠火遠理を愛しているか、合理即感情の奔流で理解せられたの。それは……)
「「私も遠江ルミナも、元は千野慧生。千野慧生さえ彼を愛していれば世界精神がそれとなり、必然的に個別化されているはずの私も彼が好きになる、ということだ」」
世界を越えて、千野さんと手白香さんの声が重なった。
現段階での真実は、とどのつまり千野慧生の神的存在にある。
だが、前々から望んでいるように僕らはフィクションの匣に閉じ込められるのも、飛び出すだけでも、不十分であるのだ。
「到達する事象は、現実と非現実の混淆……『彼岸の世界』で本来的な生を獲得することにあるんだ」
本心から発せられた僕の言葉は、非常にしっくりくるものがあった。
その理由を弁証してしまうとメタ階層に押し潰される気がしたので沈黙を選び、手白香さんの帰りを待つことにしたのだ。
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