分岐

 店の隅で独り侘しく瓶ビールをグラスに注ぐ者の対面に座した。折り畳みの安っぽいテーブルの建附けは最悪で、僕が肘を置くとグラスが揺れて零れそうになった。

「安心してくださいな。ノンアルコールビールですわ」

 そう言ってグラスを掴み、一気に飲み干した。お酌をさせていただくのがマナーであるが、飲みニケーション自体には寸毫の有意味しか残存されていない。よって、ファーストドリンクの注文で伺いに来ない従業員の接客にも諒とする。

 彼女――手白香行方さんもまた、僕と同様に朴訥な服装でいた。無地のパーカーの袖はには細かい毛玉が付着している。フリーター同士の飲み会らしい相貌だ。

「手白香さんは別にアルコールを摂取してもいいのでは?」

「何故かしらん」

 妖艶たる仕草で小皿に入っているたこわさを箸で摘み、舐めるように食する。綜合的世界に於いて、彼女こそが最もキャラクターの軸をブレさせている。

「現実世界では僕と同じ高校生でしたが、『悲喜の彼岸』では成人の可能性もありました」

 明言を避けている理由としては、彼女の年齢が正確に定まっていないからだ。此処までの記述において、フィクションの手白香さんの素性が最も蔽い隠されている。

「尤もですわね。けど、考えてみてくださいな、火遠理さん。この私が、些少でも未成年の可能性がある自分に飲酒させんとすることに、一切の負い目を感じずに居られますの?」

 成程、今の彼女は現実寄りの手白香さんだ。フィクションの渦に捻じ曲げられた無辜惨禍の魔女ではなく、純粋な情意を守護せられる御嬢様の割合が高い。

「軽薄な質問で申し訳ございませんでした。言うまでもないことでしたね」

「謝る必要はございませんの。火遠理さんに罪は無く、悪いのは世界の規律を乱す慧生さんですから」

 箸を置き、身体を斜めに構え乍ら凄艶な流眄りゅうべんを僕に使う。大人としての美貌を増している彼女も間違いなく、混淆する世界への適応を叶えている。

「されど、慧生さんの掌で転がされるだけの人生もまっぴらですわ。彼女に物語を書かせるような心意義で、『能動に限りなく近しい能動』を選り分けますの」

 真なる能動と宣言しない辺りが、手白香さんの高尚な知己を感じる。相対的にスペックダウンしていく主人公に成り下がりたくない僕は、有意味な会話に食らいつく。

「世界外で物語の語り手になってくれた手白香行方は、結局どんな人物だったのでしょう」

「其処については火遠理さんと是非対話したいのですが、人称に連関して避け難い疑惑を先に抵触いたしますの」

 空のグラスと小皿を脇にどけた彼女は、僕の頭部に手を伸ばした。児子をあやすように撫でると、彼女の手には一冊の文庫本が備わっていたのだ。

「貴方の経験と記憶を、この通り具象化いたしましたわ」

「――! 『悲喜の彼岸』か!」

 背表紙の文言は転校初日の教室で会った千野さんの所有物と同じだったが、それと比較すると半分ほどの厚さだった。

「但し、悲喜の彼岸Ⅰで慧生さんが読んでいらっしゃいました文庫とは違いますの。あれは完全版。これは此処までの複雑化された未完成版」

 表紙より数ページほど捲り、第一舞台講筵のサブタイトルに行き着くと彼女は見開きを横にして過去の言語世界を共有させた。

「この第一舞台講筵だけ……何のしつらえもない三人称で書き綴っていますわ」

 言葉を止めた手白香さんは、強靭な眼差しで僕の頭部を貫いた。

 匡正きょうせいへの警鐘を鳴らす彼女に、僕は試されている。

 僕は僕の思惟に限定せず……作者との共生に着手すべきだ。

 フィクション性存在を強いられるのであれば俄然受け入れ、上層部の腕を引き千切ってやるくらいに引っ張って手許に寄せてやるさ。

「悲喜の彼岸ⅠとⅢは僕の一人称、Ⅱと第二舞台講筵は一部遠江さんも担当していましたが……メインは手白香さんの疑似三人称で述べられていました。それは、作者・千野慧生の神的視点の放棄を意味する……」

 作者は、僕らに全うな命を吹き込もうとしていたのか?

 凡ての運命を掌握している立場であり乍ら、物語の進行を自分自身の声でなく(疑似的だとしても)登場人物自らに委ねたことを、偶然的な閃きだけで立証せられるとは思えないし思いたくもない。

「手白香さん、舞台講筵の台本はまだお持ちですか?」

「そう訊いてくれるのが火遠理さんですわ」

 頬を緩めた彼女は未完成版の『悲喜の彼岸』を僕の頭脳へ返却させ、壁に立てかけてあるメニューを手に取り、間に挟まれてあった冊子を僕に見せた。取り敢えず、主人公としてのハードルを一つ飛び越えたことに安堵した。

「これがあれば、一時的に第一舞台講筵へ戻れます。其処で手白香さんは追記という形で疑似三人称を装いましょう」

「承知しましたの。それが済んでから……畢竟、手白香行方の存在がようやく具体化されますが超人化迄には至らない第三舞台講筵へ移動する流れでよろしくて?」

「はい。第三舞台講筵は……此処で?」

 台本をペラペラと速読した彼女は頷いたが、表情を硬くした。

「自分語りで恐縮ですけど、私という存在性に関して……多角的な仮定を賦与せられますの」

 高架橋を走る電車の騒音で、一度口を閉じた。未だに店員がオーダーを取りに来ないが、大笑いしているサラリーマンの集団にドリンクを届けることで精一杯な雰囲気であるため、呼び止めはしない。

「本来的な『悲喜の彼岸』で成立していた、手白香さんの架空的人生ですか」

 電車の通過を待てず、食い気味に僕が言葉を発した。

「ええ。勝手な憶測的持論になりますけど、第一の分岐点……両親を事故で亡くしたは自暴自棄になり高校を中退し、非正規低所得者層の寂しい生活を過ごしていた……」

「で、バイト先の冴えない同僚の男と安い酒を飲んで、ストレスを発散していたと」

 現況に至るまでの過程を思い巡らせる僕らは、難儀な小説の組み立て方をしているであろう。現在的な場を与えてから未来と過去を補完する方策はいつかボロが出ますよと、僕ではない僕に指摘してみたり。

「それだと、火遠理さんも貧困に巻き込まれ苦労してしまいますわね。私の良心が悲鳴を上げてしまいますので、却下するかしらん」

 口元を手で隠して笑う彼女は、やはりフリーターの設定は相応しくない。もっと、劇的な悲劇を捜索すべきだ。

「では、第二の分岐点にしましょうか」

「よろしくてよ。身内の物故にもめげず黽勉びんべんに学業へ取り組み、一流大学に進学した彼女でありましたが……世間からのズレをズレだと認識し得ない本人の厄介な御嬢様気質が仇となり、就活に失敗しますの」

 一瞬にして、彼女と僕の身形が変化した。間違えて洗濯したのではと疑うほどクタクタになっているリクルートスーツに袖を通していたのは手白香さんで、僕は如何にも大学生っぽいライダースジャケットとベージュのチノパンを選択されていた。

「僕はどんな立場で手白香さんと飲んでいるんですかね」

「貴方はしっかり者で世渡り上手だから、疾っくに内定を得ているわ。不甲斐ない彼女に優しいアドバイスをくれますの」

 高校生の僕にとって就職活動の厳しさを感受する術は無いが、想像裡の虚構で僕と彼女の未来を創出した。すぐに心を痛めてしまった。

「僕と手白香さんの間に格差を生じさせたくありません。第三の分岐点を要求します」

「ふむ。百歩譲って彼女も社会人になれたと仮定して……企業という団体への適応にアレルギー反応を示すことにしますわ」

 仮説の時が更に進み、彼女は小奇麗なパステルカラーのブラウスを着ていた。初めて顔に白粉を塗られているが、下手で勿体ないメイクだった。くすんでいるアイシャドウを今すぐにでもおしぼりで拭き取ってやりたいくらいだ。

「彼女は固い業界の専門商社。火遠理さんは……中学か高校の教員に就くことになるわ」

 教師ということで、比較的カジュアルな恰好が許可された。五千円払えば二着セットで買えそうなワイシャツを捲って、堅牢な黒の腕時計を露わにしていた。

「貴方は生徒だけでなく、同級生の人生相談も聞いてくれる良き指導者。総合職で奮闘するも上司との軋轢や理不尽な洗礼により精神的に追い込まれた彼女は、貴方に救いを求めますの」

「待ってください。僕も苦労させてください。彼女の艱難かんなん辛苦を凡て受け止めるだけの人生経験は無いかもしれませんが、御両親を失った一人の女の子の悲劇に……僕は限りなく近しい高さの目線で入り込みたいのです」

 僕の未来はもっと嶮しい山道であるはずだ。偉そうに他者の人生を教える立場でなく、自分自身の人生に手一杯でないと、僕自身が納得しない。

 だが、問題はそんなミクロな範囲で無かった。手白香さんは頭を抱え、目線を落とす。

「……私から提案して何ですけど、不自然ですわね」

 憔悴した声を出した彼女は、自家撞着を提唱した。

「火遠理さんも現場面を基軸に彼女の経歴を模索しているようですけど、凡ての分岐点に於いて時系列の整合が難しくなりますの。貴方が高校生でいた第二舞台講筵後から、下手したら五、六年も経過してしまうわ」

「では、どうして手白香さんは仮説的に提示した分岐点上の二人を同年齢にさせて、なおかつ時を大きく進めたのです?」

 だったら、僕が高校生のままの状態で……と、言いかけたが止めた。

 矛盾は既に常に、この場から存在していた。

「それはまあ……私と火遠理さんが邂逅したこの場所ですの。二十歳以上は基本入店不可であることを知っていて? それとも貴方は、大学生の新入生歓迎会で迷わずお酒を飲まれる愚者なのかしら?」

 世の中をついでに斬り乍ら語った彼女の指摘点に、異論は無い。

「いいえ。僕は法律を固く厳守する人間でありたいです」

「そう宣うと思って、最有力候補となる第四の分岐点をたった今、考案しましたわ」

 咳払いをした彼女は、鷹揚な笑顔で声高らかに告げる。

は草臥れたキャリアウーマンのまま。火遠理さんは時を巻き戻しますわ。第二舞台講筵後の高校生へ」

 結句、僕は制服を着せられた。彼女との間に年の差が生まれた。

「経緯を三文で申し上げます。公園のベンチで意気消沈して項垂れている私に貴方が声をかけました。貴方の行為に私は見惚れました。私は貴方を居酒屋に誘いました」

「え? 僕、社会人のお姉さんをナンパしたんですか?」

「そんな不潔な言葉で代用しないでくれるかしら。火遠理さんの行為は御声がけだわ」

「で、手白香さんはナンパ……じゃなくて、御声がけで年下の男と飲みに行く尻軽に……」

「軽々しい表現は止めて頂戴! 何で分からないのよ!」

 酔っているはずはないのに、彼女の声は荒々しくなった。『悲喜の彼岸』版の手白香行方が降臨してきたか?

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