統御
「さて、本題に戻りましょうか。作者である千野さんはこれから、どうするつもりですか? 主人公として、僕は何をするべきでしょうか?」
鹿爪らしい面持ちで僕は訊いたつもりだったが、千野さんは恍けた様子でこう答えた。
「では、この後火遠理君の台詞で……『最後の主要人物はどうされたのですか?』と私に質問してください」
「回りくどい指示だな……って、おい。慧生、何処からノートパソコンを取り出したのさ」
気が附いたら、千野さんの手許には執筆用のパソコンがあった。しゃがんだ彼女は自らの太腿を机にしてタイピングを始めた。
「今、千野さんが書いているのって……」
僕と遠江さんは彼女の背後に回り、中腰になって画面を覗く。
「リアルタイムの世界でありますよ」
声を弾ませた彼女は今、声を弾ませたという自らの様相を捕捉する文言を地の文に書きつれ寝ていた、と捕捉の捕捉をしようとしたところ誤字が発生したが、彼女はあえてバックスペースで戻らず、書き連ねてと此処で修正し、斯様に捕捉の捕捉の捕捉を追記して句点で閉じた。
「僕の視点で……『悲喜の彼岸』が今も進行している」
僕の発言と思惟に追随しては先駆するように、言語世界が拡張されていく。
「私がこうやって喋っているのも、私の意志でなく慧生の支配なのか?」
「そうとも言えますし、ルミナちゃんに書かされているとも看取せられます」
「書かされている? 能動的な行為が許可されているってのか?」
「小説内のキャラクターが作者の構想から逸脱するって現象、よくあるじゃあないですか。それって実際、こういう形で発生するのだと思います。だから、一元に主従関係を決めることは難しいですね」
「ほう……じゃあ慧生、私の靴を舐めろ……いや、わたくしが是非率先して、慧生様の靴を舐めさせていただきます」
「ただ、気分を害する抵抗には陥穽を仕掛けるのです」
「くそー! 言わされたしー!」
悔しそうに地団駄を踏む遠江さんだった、とまでのやり取りを僕は言語世界と並行して拝見させていただいた。
「『悲喜の彼岸』内の世界構造実証は此処までです。火遠理君、引き金をお願いいたします」
と、其処まで記述した千野さんはノートパソコンを閉じ、スカートのポケットに収納した。
「今どうやったんだよ。マジシャンの技能を何時何処で習得したし」
遠江さんが面食らっているように、物理的不可能性が明確だった。コンパクトな2in1のタブレットなら無理矢理捻じ込むことは出来なくもないが、彼女のノートパソコンは13インチ以上あったはずだ。
「こうやったのです」
ポケットに手を突っ込むと、ノートパソコンが再び引き出された。空間の歪みが生じている。
「メカニズムは……訊いても無駄か」
文章化されたのが最大にして唯一の理由であることを悟った遠江さんは深く息を吐いた。
――文章化?
「変ですね。千野さんは今、記述されていないじゃあないですか。では、今なお進んでいるこの物語の存在を何処で記録しているのです?」
千野さんは戸惑うことなく、僕に向かって指差した。
「言語にも具体と抽象がございます。火遠理君の脳内に向かって、私は現在タイピングしているのです。このノートパソコンは私の実績を分かり易くするためだけのものでした」
これには畏敬の念に堪えない。そうだったのか。超能力めいた他者支配は、先鋭的なクラウドデータの共有と形容せられるのだ。
僕は千野さんであり、千野さんは僕である。
遠江さんは千野さんであり、千野さんは遠江さんである。
二者を等号で繋げられる因由は、この世界其物にある。
蓋然性をかなぐり捨てられるのであれば、僕は遠江さんであり、遠江さんは僕であるとも公言せられる。
僕、若しくは千野さんが何を言っているのか世界外の読者には完全に伝えきれていないと察するが、各々が自由な解釈をしていただいて構わない。
「では、僕の心的機構に改めて次なる途を刻みますか。『最後の主要人物はどうされたのですか?』」
莞爾として笑う千野さんの姿を最後に、僕の視界は再度黒に塗り潰された。二人は消えていたが、親しみのある天声は鳴り響いていた。
「私は先の場面で待機しています」
「まーた世界=外=存在かよ。三人称の代理も七面倒だし、私も慧生について行くさ」
悉く奇怪な世界構造をしているが、もう慣れたものだ。瞑目して心を落ち着かせた僕は、転進せられる場への対応を意識し、移り変わりを示唆する色彩を浴びた。
列車のジョイント音と共に、僕は視座を取り戻した。
単純に高校へ回帰するとは期待していなかったので、馴染みの無い街中で投げ出されても先ず周辺を冷静に観察した。
夜の帷が降りた時、車一台通るのがやっとな狭路に僕はいる。右手側には高架下のスペースに詰め込まれている飲食店が並び、窓越しで賑わっているラーメン屋や居酒屋を窺えた。対照的に左手側には古びた木造の建物が電気を消してひっそりとしている。行き交う歩行者は年配のサラリーマンが多く、もしも此処の高架橋を走る電車が都内の環状線だとしたならば、大凡の場所的な見当がつく。学生の自分にとって縁の無い街だなと平凡な感想を漏らしていたら、自身の恰好が私服であることを認知した。千野さんより指定せられたコーディネートは少し野暮ったい。暖色のネルシャツにサイズが微妙に合っていないジーパンを身に着けていた。うだつが上がらないフリーターのような様相に、将来の展望を今からでも真面目に考えようという危機感が生まれた。
「其処のお兄さん、寄って来なよー。ビールとハイボール、一杯二百九十円っすよー」
棒立ちになっていたら、提燈をぶら下げているこぢんまりとした居酒屋より声がかかった。タオルを頭に巻いた茶髪の兄さんが手を叩き、揚々と僕を誘う。悪いけど未成年の自分はアルコールの価格帯を今一つ把捉しかねるので、兄さんの営業努力を無下にするだけなのである。そもそも、未成年をキャッチするなよという話でもあるが。
「じゃ、ちょっとだけ」
心中、僕は困惑していた。これもまた、彼女による運命力なのか?
素通りを許されなかった僕は、あろうことか入店してしまった。
「あざっす!!! ようこそ、いらっしゃいませー!」
威勢の良い兄さんの声に続き、店内の従業員がいらっしゃいませと復唱した。従業員は皆、黒のTシャツで統一されている。背中には『谷中組 最高!』と荒い字体で書かれていた。谷中組というのは屋号だろうかというのが本来的な僕の感想であり、学祭ではしゃぐ高校生みたいなペラい団結力だなと斜に構えるのが僕に憑りつく作者様の感想である。
「お好きな席へどうぞー! カウンターだけでなく、テーブル席も空いてますよー!」
こんな形で初めて酒の席へ訪れるとは露程も思わなかった。そういえば本日は金曜。翌日の休みで浮かれるサラリーマンがジョッキを片手に席を埋め尽くし、紅潮し乍ら煙草をふかす者も多い。
煙草と焼き鳥の煙が入り混じり視界の悪い店内で一歩進む度に、床鳴りがする。頼りない木板の上で何処の席を選べばいいのか模索していたら、偶然にも……いや、仕組まれた展開の基、邂逅すべき登場人物を見つけた。
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