恋慕Ⅱ
後ろを目視すると、其処にも保健室は無かった。三百六十度深淵に包まれているが稀有なことに、互いの姿を視界に捉えられる程度の光は存在していた。
「何だよこれ! 急にどうなったのさ!?」
僕も同じ気持ちだった。当惑する遠江さんと一緒にあたふたするだけだった。
「――そんな簡単に、無前提の幸せを享受出来るとは大間違いなのです」
聞き覚えのある声が何処からともなく響いた。東西南北の喪失せられた黒の空間に視点を巡らすと、闖入者を発見した。遠江さんの背後霊的な位置にいた。
「慧生ちゃん! これは……どういうことですか? 君はこの展開に於ける意味を……理解しているのですか?」
「展開? 火遠理君も随分と、メタフィクションの露呈をするのですね」
忽然と現れた慧生ちゃんは、暗色の澱んだ瞳を鈍く光らせる。
「別に悪いことじゃあねえだろ。千野ちゃんだって、自分が別の自分に創られた存在だってことを認めているんだろ? だからその虚偽性を壊してやろうと意気込んでいたのにさ」
遠江さんが代弁してくれたが、慧生ちゃんの様子が変だ。何処が変かと言われても正確に答えかねるが……全体的なズレを感じる。
「成程。ルミナちゃんはフィクション性存在への意識を重視した上で、現実への転換を求めているのですね。でも、それだけでは『悲喜の彼岸』の企図を凡て満たしていませんよ」
「満たしていないだと? どうしてさ? よりリアルな世界で生きることに達成感が無い訳があるかよ。私は単に……登場人物の一人として有意味な物語を紡ぎたいんだ」
だが、そこまで抗弁した遠江さんは頭を擡げて、僕と類似したような違和感を獲得する。
「ルミナちゃん? 今、慧生、何て……」
そう言い放った遠江さん自身、一驚に喫した。
互いの呼び名を起点に、ノイズが走る。
不規則の雑音が僕の脳を痺れさせ、一度目を瞑って開けた時には、場は黒から白へ一変していた。
陰が消え去っても、周囲には何もないまま。僕ら三人だけが、まさしく世界と世界の谷底へ堕ちているようだった。
「千野さん……君はもしかして、『悲喜の彼岸』内で今まで僕らと会っていた方の存在でなく、作者の千野慧生なのですか?」
混乱の波紋が烈しくなるような仮説だった。
しかし、それでも僕の予期は欠落していたのだ。千野さんは顕然たる様相で首を横に振った。
「違いますよ、火遠理君。二者の何方かを私に問うのでなく、二者の何方でもあることを受容するかどうか、自分自身に問いてください」
――そうか。僕の言動は迂闊だった。
「……それもまた、彼岸か。慧生の存在位置は、二つの世界を跨ぐ不安定な処にあるんだな」
面食らったものの、遠江さんも彼女の見識を反芻できたようだ。
この世界とは違う何処かで、屹度もう一人の僕らが存在している。
もう一人の僕は、こんな日常を送っているのだろう。千野さんが書いた『悲喜の彼岸』を楽しく読ませてもらい、自由闊達な遠江さんと親しくしてもらい、『悲喜の彼岸』では不毛な立場であった手白香さんも同じ高校にいて、違う一面の彼女の魅力を堪能していたのかもしれない。
いや、憶測ではなく実際にそうだったのだ。
何故なら、千野さんが彼岸を越えたように、僕が経験し得なかった並行世界の自分を投企する精神が既に常に備わっているからだ。
「んで、私と火遠理くんの恋愛展開は却下されたの?」
僕に身体を寄せた遠江さんが再度確認をする。
「泳がすだけ泳がしておいて、その都合の良い夢を剥奪したのです」
「とんだ悪趣味だな」
呆れても、結句彼女は僕から離れた。離れた理由は無い。唯一にして、『彼女は僕から離れた』と記述された事実があれば何も疑え得ないのだ。
「だとさ、火遠理くん。慧生には逆らえなくても、辛辣な世界で結ばれなくても、私が火遠理くんのことを好きでいられると発言可能なだけ、まだ救いがあるってことかな」
「追加して、『悔しいけど慧生の方が彼とお似合いだから』とルミナちゃんから言ってもらう、と……」
「言わされねえよ! 強欲な作者だな……」
油断も隙もない相手に身構える遠江さんだった。
驚くべきことに、僕らは別階層の自分と混淆している事実を許容し始めている。
作者・千野慧生のいた世界で実在していたであろう関係性を先験的に把握し、それを基に思惟しているのだ。
「この物語は……文芸部の進退を左右する鍵になっている。何より、その採択承認の可否を決めているのは僕なんだ」
「だけど、進行の権利は私であります」と、得意気に千野さんが話す。
「僕って、微妙な立場の主人公ですね。と云うより、実質の主人公って千野さんでは?」
「私は主人公向きの性格ではないので辞退させていただきます」
律儀にお辞儀をする千野さんの頭を、遠江さんが軽くはたいてこう言った。「ついでにヒロイン枠も辞退しろよな」
「それは許し難いですねえ。私が世界外へ退却したら、ヒロイン候補は行方御嬢様しかいなくなってしまいますよ。火遠理君には二択以上の権利を与えないと、一本道の恋愛になってしまいつまらなくなってしまいます」
メタへの容赦なき抵触が続く。企画会議で議論すべき話を小説内に持ち込むのは、どうも決まりが悪い。僕自身とってのヒロインを選定する場に居合わせる時、どんな顔をして聞けばいいのだろうか。
「おい、私だってヒロインの素質はあるぞ」と、遠江さんが反論。
「飛騨先生も一応、年の割には若い外見の設定だけどなあ。先生の立場は様々な障壁がありそうなので、メインヒロインの座はお渡ししかねます」
「わ、た、し、は?」
「思い切って新キャラを登場させる案も無くはないですが、既に物語の後半に入っちゃっているんですよねえ。今更感がありますね。火遠理君にはやっぱり、私と行方御嬢様の一騎打ちを見たいですか?」
「シカト決め込むなし!」
外野の罵声にも我関せずの姿勢でいる千野さんは、メンタルが頗る強い。流石多重階層の世界を構築し乍ら自ら潜入するだけの精神力を誇っている。
「あの……当事者の卑見も言わせてもらってよろしいでしょうか」
僕は肩身を狭くして、会話に加わった。二人は目で頷く。
「第二舞台講筵を終えた後の世界へ修正を試みる僕と遠江さんは、仮定的恋愛を指標に先の物語を築こうとしました。爾後、千野さんの判断に依れば、対象こそは異なるものの恋愛という区分は継続しています。であるにしても僕が皆を好きか嫌いかは別として、そこまでして恋慕というテーマに耽溺する必要はあるのでしょうか?」
本音を伝えたが、二人は血の気が引いた顔で口を開いた。
「マジかよっ! それは幾ら……メタフィクションの露呈を実行しているからと言っても……禁句中の禁句だぞ!」
「本当、火遠理君はつまらない人間でありますね。今後、去勢哲学者さんって呼ばせてもらいますよ?」
失言だと認め、僕は腕を組んで深く反省した。フィクション性存在の情意を演じるのは大変だな、と。
「悪うこざいました。けど、性に対してがっついている主人公が哲学的存在論を語るのもむず痒くないですかね」
「う……そんな火遠理くん、見たくないかも」
心地良くない方のギャップだな、と遠江さんはひっそりと呟いた。多少ご理解いただき、助かります。
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