悲喜の彼岸Ⅲ

恋慕Ⅰ

 僕の記憶は、途絶えなかった。

 今、此処にいる自分の過去を述懐しろと命じられたら、純然に従おう。

 第二舞台講筵で校舎の屋上から落下した慧生ちゃんを、予め敷いてあったエアーマットで救出し、遠江さんを死の哲学の深淵へ被投させた。

 遠江さんは、無辜惨禍の魔女特有の足枷を破壊したのだ。フィクション性存在の自覚が齎す不確かさが功を奏し、微睡みの現在に温かな彩色を施した。

 そして、本来的な『悲喜の彼岸』へ回帰せられることを望んだ僕は、チャイム音で瞼を開けた。僕の身体は、蛍光灯が規則正しく並んでいる天井に対していた。

 真っ白なシーツと掛布団を捲って、上体を起こす。背面には壁、残り三面は布状の衝立が僕を囲んでいる。

 ここは……保健室。視覚だけでなく、独特の薬品っぽい匂いで連想せられる。この場所が、第二舞台講筵後の正しきルートなのだろうか。

「……おわっ!」

 ゆくりなく誰かにしがみつかれ、横向きで倒れる。目と鼻の先に遠江さんがくっついている。

「まだ、寝ていよ。折角二人きりの楽園で滞在しているのだからさ」

 無邪気に破顔する彼女の声は、弾んでいた。

「遠江さんは、不思議に思わないのですか?」

 僕の問いかけを無視して、彼女は手足を徐々に僕の身体へ絡めてくる。

「第二舞台講筵を登攀した先が、どうして保健室であるのかを」

「べつに……」

 某女優を意識した返事の割には、彼女は御機嫌だった。金色の髪を白布の海で楽しそうに泳がせ、顔を僕の胸に埋める。

「火遠理くんが傍にいてくれたら、それでいいんだ。後は何も要らない」

「急にどうしたのですか? まるで、ラブコメのヒロインみたいな発言をしているじゃあありませんか」

「や、喩えばこんな終末でもいいんじゃないかなーって思ってさ」

 顔を隠したまま、彼女は言葉を続けた。

も言ったけど、私と火遠理くんの恋愛空想ファンタジーが展開される可能性も何処かであったのかもしれない」

 その何処が、此処?

「遠江さんには申し訳ないけど、その仮説には一毫の可能性は残されているけれども、蓋然性は保証されません」

「蓋然性?」

 鸚鵡返しする彼女に、的確な言表を探した。

「事象が起こり得る確からしさを意味します。架空に前提されるこの世界では、限りない仮説への可能性が賦与されますが、それが本当に実現するかどうかは別の話です。極端な話、僕が数年後に俳優デビューして日本アカデミー賞を授与することだって確立的にはゼロでありませんが……果たして現実的な――」

 見込みはあるのでしょうか、とまで声として抽出されなかった。僕の疑惑がそうさせたのだ。

 この世界にはいない慧生ちゃんが書いた『悲喜の彼岸』内で、現実への正しい定義を無暗に与えていいものだろうか?

「固いコト、言うなよな。火遠理くんは私の愛を黙って受け入ればいいんだからさ」

「そんな……突然過ぎやしませんか? だって……」

 遠江さんは僕への密着を止めず、うつ伏せの態勢で体重を預けた。

「だって?」

 喜悦として挑発的な視線を刺し、火照った頬を僕の首筋に猫のようになすりつける。生温かい感触が僕の心をくすぐり続ける。

「僕と遠江さん決して仲が悪い訳ではないけど、こんな近しく親しい関係では無かったはずです。不自然過ぎます……」

「もー、そういう整合性を憂慮する思惟が固いんだぜー」

 次の一言が急転して、熱を引いた凄然な彼女の感情を伴った。「――因果律は、不必要だ」

 僕自身へ鉄槌が下ろされた。その衝撃により内界の景色がチカチカし、思考基準の礎が蜃気楼に覆われていく。

「恋愛小説には必ず、男が女を、または女が男を好きになっていく過程を挟む。でも、それって、人が人を愛する理由を明確にして読者に納得させる意図が含有されているってことだ」

 妙に落ち着いた動作で僕から離れ、遠江さんはベッドの端に腰掛けた。僕は無言で彼女の背に寄り、正対した。表情を背けても、お互いに通じる生きた言語があれば十分だ。

「作者に支配されている私達フィクションは、真なる因果律の脱却を目指すべきなんだ」

「それが、遠江さんが僕を愛してくれる理由?」

「いいや、理由の無い理由で私は火遠理くんを愛している。現実なんて、そんなもんよ。異性と付き合う動機で、悪者と戦う彼の勇士を見守ったり、苦難に陥る自分に優しい箴言をくれたり、彼の裏側に隠された悲哀なる過去を知ったことでこれまでの嫌悪が逆転したり……毎回そんな具体的なエピソードが存在するかね?」

「いいえ。一目惚れやフィーリングで確定せられる愛も有り得るでしょう」

 でも、異性を愛することに理由は要らない、とだけ言いたくもない。クラスの一軍に好まれそうなJ-POPの(薄く頭の悪い)歌詞に、彼女と僕の意思疎通を同化させたくないのだ。括弧で一応オブラートに包んだつもりであったがこの一文で、粋がっている多数の学生を敵に回してしまっただろうか。

「だろ? 由ってさ、私にとって重要なのは『どうして』火遠理くんが好きか、じゃなくて火遠理くんを好きでいる『今』なんだ。それより前の過去より繋がっていた合理性の紐を切断し、更新せられた現在のみが真実を語れる……」

 彼女の一言一言に、重みがあった。

 これもまた、上書きされた現在。無辜惨禍の魔女より正式に逸脱した超人化の影響は、彼女の叡智にも及ぶ。

「そういう考え、僕は反対しません。フィクション上の過去は当時其物を言語で摘出されますが、現実を望む僕達にとっての過去は不確かであるべきですから」

 真実と虚偽の狭間で戦々恐々とし乍らも、僕らは確実に前へと進んでいる。

 将来でも既在でもなく、既に常に訪れている瞬間的な現在を生きていることへの自覚が、現実性を獲得する要諦。そして、『悲喜の彼岸』の理想的終末。

「架空へ飛び込む小説も不安へ陥れる魔女もいない世界で、素晴らしき日々を送ろう。この保健室の扉を開けた彼処には、日常感溢れる私と火遠理くんのラブコメが待っているぜ」

 互いに接していた背中に隙間が出来るや否や、遠江さんは猛然と立ち上がり目の前の衝立を前蹴りで倒した。白い歯を見せ、僕に手を差し伸べる。

「跳躍の時だ! 誰も知り得ない物語に突き進むぞ!」

「はい!」

 勇ましく吠える彼女の手を握り、僕も走り出した。

 保健室の引き戸に面しているのは、単なる廊下ではない。僕と遠江さんの意志が及ぶ、本来的生への途だ。

 此処から、僕達は新たな世界に心を開くべきなのだ。そう信じられるが為に、遠江さんが明けた扉の奥には、懇求していた平静の幸福的日常が続いている……はずだった。


「――!?」

 思わず言葉を失った僕達が踏み出した地は廊下などではなく、永劫に続く闇だった。

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