決意
「話し込んでしまい、大変失礼しましたわ。私物のタオルで良ければ、拭いて差し上げますの」
「ぜ、全然。すみません」
拙い日本語で返したのは、廊下を歩き乍ら私の身体に手を添えて優しくタオルを当ててくれる行方御嬢様の気遣いに感動しては緊張してしまった為。
彼女の心は、論理や損得勘定を無視した善で満たされている。それなのに、小説上のあなたに於ける言動の違和感を哲学的につまらなく解釈してしまった私はつまらない人間であります。
「あ、いた。ねえ千野さーん」
「は、はいっ!?」
背後から呼ばれ、変な声が出た。文芸部以外の人間と関わるのは、猶更緊張する。恐る恐る踵を返すと、クラスメイトの女子が駆けつけてきた。
「次の世界史、視聴覚室に移動だってさー」
「そ、そう」
此処にも意外な優しさがあったものだ。さして親しい間柄ではないが、クラス内で孤立している私にも連絡をくれるクラスメイトは嫌な顔一つせず接してくれた。むしろ、ぶっきらぼうな返事をする私の愛想が悪い。
「慧生さんのクラス、次は世界史ですのね。担当は……酒井先生?」
と、行方御嬢様に訊かれたので、はいとだけ答えたがクラスメイトが嘴を挟んだ。
「あの先生ってテスト前だってのに、歴史に関連のある映画を流すんだってさ。暢気だよねえ」
「あらあら。それで中間試験の時より平均点を下げてしまったら、酒井先生のご指導に不手際があったと見え見えですの。いつも乍ら、危機感のない適当な教師ですわね」
クラスメイトは面白そうに頷く度に、彼女の短髪に映る光輪が歪み動く。髪型だけでなく顔つきも少年っぽくボーイッシュな印象が強い彼女は……多分バスケット部だった。もしかしたら、書道部だったかもしれない。真逆の選択候補が出てくる時点で、私の他者に対する興味の無さが露呈される。
「手白香さんと千野さん、そういえば同じ部活だっけ?」
「そうですわ。今年から発足した文芸部ですの。役目は現状。此方の部長様の力添えをするだけですが」
嬉々として初対面の相手と会話をする行方御嬢様は、独特な雰囲気を纏う社交的な性格だ。自然とコミュニケーションできる彼女は、その容姿と感性を考慮しても文芸部にいては勿体ない。
「お二人、仲良いんだねえ。文芸部ってあと……同じクラスにいる夕籠君と……金髪の目立つハーフの女の子だよねえ。ちょっと風変わりなメンバーだってみんなで噂しているよう」
「ふふっ。問題児の集まりだと言われてもしょうがないわ」
とんでもありません。私とルミナちゃんはともかく、行方御嬢様は品行方正な学生であります。火遠理君も同格であります。
悪い噂の対象に私はなるだろうな、と覚悟をして首を垂れたが……クラスメイトの言葉は意外性を伴った。
「ちがうちがう。悪口じゃあないよ。どうして文芸部なのに、イケメンと美女が集まっているんだろうって不思議がっていることだよう」
行方御嬢様と顔を見合わせた。互いに、何を言っているのだろうと首を傾げる。
「ま、まあ火遠理さんとルミナさん、慧生さんの三人は嘘偽りなく見てくれが良いですけど……」
「い、いや……火遠理君と行方御嬢様は噂通りの美をお持ちであって、ルミナちゃんは劣悪な性格を除けばの話だけどそりゃあ外人さんの血が通った美人で魅力あるのは確か……」
私が、ねえ……と、行方御嬢様と声を揃えた。クラスメイトはにこやかにしたまま、私達の疑問を置き去りにして去っていく。
「文芸誌ってやつ、作っているんでしょ? 夕籠君から聞いたよー。千野さんの小説、私も見たいなあ」
階段へ消える寸前、クラスメイトはそう言い残した。その言葉に嫌味が全く感じられないことが、逆に信じられなかったのだ。社交辞令の上手い人だ。将来、都会で活躍するキャリアウーマンの素質がある。
「噂はさておき、慧生さんの暗躍に人知れず期待が集注しているかもしれませんわね」
満足気に話す行方御嬢様に、文芸誌発行後のことを全く想定していないことを露わにさせられた。
「そっか。私の小説、全校生徒に公開されるんですよねえ。それはちょっとなあ。匿名でお願い出来ないかなあ」
「恥ずかしい、とお思いですの?」
「若干は。そうだ、出来が悪かったらルミナちゃんの名前を借りればいっか」
下司を極める魂胆を自分で言って、自分で笑ってしまった。行方御嬢様は半分呆れたような相好で私を軽く咎めた。
「文芸誌でも、ペンネームの使用が可能なのでご安心を」
と、またしても第三者が私達の会話に闖入してきた。すぐ傍に、レジュメの束を抱える飛騨先生がいたのだ。両手が塞がり、下方にズレている黒縁眼鏡がチャームポイントに成り得た。年には勝てないが、高校生に負けない可愛さと若さの均衡を保持されている。
「提出は今週末ですが、執筆は捗っておりますでしょうか?」
その言葉に棘は無いが、内より発する威圧が顧問としての管理能力を感ぜられた。
「……第二舞台講筵を終えた迄ですが、中途半端な程度で終えるつもりはありません。期末テストを捨てるつもりで最後まで書きます」
「よろしい。それでこそ、千野さんらしい気概です。ただ、期末テストは執筆に関わらず、最初から捨てられているような……」
ねっとりとした疑惑の視線を向けられ、私は無言で図星だと認めた。大人には勝てませんな。
「あ、そういえばですけど二人とも、さっきまで保健室にいました?」
「いいえ。慧生さんと屋上にいましたわ」
何のことだろう、と行方御嬢様は怪訝そうに答える。さっきのクラスメイトといい、今一つ真意を掴み損ねる鼎談が多発している。
「じゃ、遠江さんか。全く……あの子ったら十中八九サボりね」
「それは、どういうことですの?」
頬を膨らませてベタな憤り方をする飛騨先生に、行方御嬢様が追及する。
「保健室の先生から聞いたのですが、文芸部の女の子が体調を悪くして、昼休みから寝ているらしいの。で、看病をしてくれる男の子もいましたからって、保健室を出て二人っきりにしているんですって」
「……ほう」
二人して唸り、事の背景を察知した。
「ちなみに、手白香さんと遠江さんは同じクラスでしたよね。彼女、午前中もしんどそうでした?」
「滅相もないわ。絶好調でした。体育の時間では、陸上部に持久走で勝ちましたの。異常なほどの体力を有していますわ」
「その体育の後、無理に走り過ぎて倒れたりとかは?」と、私から訊いた。
「数学でしたが、気持ち良さそうに爆睡されていましたわ」
如上の見解を基に導かれた結実は、簡明だった。
「私がこんなにも生みの苦しみを味わっているのに、ルミナちゃんは火遠理君と密室でイチャイチャしているのですか。そうですか」
憤懣の情を漏らしていると、予鈴が鳴った。まだ、二人とも保健室にいるかもしれない。
「夕籠君は大丈夫だと思うけど、遠江さんは午後の授業を欠席しそうですね。私の現国をないがしろにするとは……舐められたものです」
「不良生徒を匡正しなければ。私、保健室へ行ってきますわ。ルミナさんを教室まで連行させますの」
意気揚々とする二人に同意しようとしたが、頭を擡げて……思い留まった。
「待ってください飛騨先生、行方御嬢様。ここは……この世界では二人を放っておきましょう」
「え?」
二人は意外そうな顔をして、硬直した。どうやら私の
「創作活動の話です。行方御嬢様よりご教授いただいた方針を守り、これから私にとっての現実は架空と同一されます」
バッグに入っていたノートパソコンをその場で掴み上げ、二人に示した。
「小説内存在を現実の周囲存在と同名にした意義が、此処をもってようやく有効化され得るのです。フィクション内での幸福に甘んじる皮相的な我慾などもってのほかであり……架空世界の神へ受動的になってしまった私は、空想を現実へ限りなく接近させるべきなのです」
現実の私が架空世界に淪落するのと、架空世界の私が現実に舞い降りるのとでは、全く異なる。
絶望を甘受する私から、希望を手繰り寄せる私に更新してやる。その引き寄せた希望に別の絶望が付随してきても、凡て飲み込んでやるのだ。
「面白い発想ですね。では千野さん……小説内の私も次の場面では遠江さんを無視して教室へ向かえばいいでしょうか?」
得々たる様子で飛騨先生は質問した。私の思惑を肯定してくれたのだ。
「構いません。ご理会いただき、助かります」
「えっと……私は寸前で、三人称の語りをしていたわ……その先ね。どうしたらいいのかしら。まあ、私自体は何も関与していませんけど」
行方御嬢様はもう一人の自分の経歴を想起させ、動向を窺う。
「不憫な手白香行方さんは、メタ構造の
再出発の準備が整った。私はこれより、大きな一石を投じる。
微笑を浮かべる二人に、それと保健室で桃色の空間を堪能している二人にも、作者としての大業を見せつけたく思うのだ。
それが、言葉で世界を描く理由。また、私という存在が生きていることの証。
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