真偽の彼岸Ⅰ
涸渇
火遠理君に小説の進捗状況を初公開してから、一夜が明けた。
高校生としての本来的仕事である学業を放棄し、私は寂しい文芸部の部室で『悲喜の彼岸』を書き進めようとしていたが、ディスプレイ上で開かれている文章作成ソフトウェアには、カーソルが点滅しているだけ。
「……全くアイデアが出てこないですね。お近くの道端に落ちていたらいいのになあ」
在りもしない希望を語り、ノートパソコンとの睨み合いに疲れた私は両腕を上げて伸びをする。ついでに大きな欠伸もしようとしたら、部室の扉が開かれた。
「やっぱりここにいたのか。一時限目からサボりかよ。期末テストで真っ赤な成績に絶望しても知らねえよ」
笑う来訪者の言葉は、三割の皮肉と七割の喜楽で構成されている。
彼女――遠江ルミナはそういう人間なのだ。旧来の友人である私は、知り得ている。彼女は見た目こそ美麗で寡黙そうなブロンド少女であるが、中身は親しみのある性格と意外性のある思惟で詰まっていることを。
「普遍的な授業で習うような勉学には興味ありませんから、赤点など構いません。まあ、そもそも成績優秀な私にとって杞憂でありますよ、ルミナちゃん」
冷然と言いのけた私に対し、まあそうだろうな、とルミナちゃんは納得してくれた。
「慧生は変わんねえな。小学校の頃からずっと……どこか冷めたような思考で周囲から一歩どころか二十歩ほど退いて……達観を貫く姿勢はいつまで続ける気だ?」
「ルミナちゃんがこんな私と友達でいてくれる限りは続けますよ」
「そっか。じゃ、未来永劫そのままでいてくれ」
お互いに温かな笑い声を出し合い、ほのぼのとして日々を過ごすのでありました……。
「――幸せで現実を遮るなしっ! あの小説、何だよ?」
ルミナちゃんが話題を脱線させ……と云うよりは本題へ移行した。
当惑した様子で質問をさせた彼女の心境が見て取れる以上、私も困るしかないのだ。
「……昨晩にデータでお送りした、『悲喜の彼岸』ですよね?」
「そうだ。先ず聞きたいのがさ……もしかしてだけど、txtファイルがぶっ壊れた? 一万五千字しかないし、話の展開がおかしいじゃん?」
「いいえ。私が書いた文字数はそれくらいです。誤って途中の文章を抜かした覚えもございません」
そう答えたら、ルミナちゃんの混迷は一層深くなり、頭部が床に墜落してしまうのではないかと感じてしまうほどに上体を曲げて項垂れた。
「あまりこんな質問をしたくないんだけどさあ」と、金髪の髪をなびかせて顔を上げたルミナちゃんが、言葉を継ぐ。「慧生さあ、クスリやってるでしょ?」
「何でですか!?」
「違うなら、頭を強打したでしょ? くるくるパーになった要因がどっかにあるはず……」
「そんな疑いは払拭します! 違法ドラッグを服用していないし、脳活動は正常です!」
酷い言われようだ……けど、私が書いた『悲喜の彼岸』には、ルミナちゃんが作者の人格を憂慮してしまうほどの異常性が備わっていることに否やは無い。
「だったら事細かに検証させてくれ。えっと……そのノートパソコンには全データ入っているな?」
私が頷くと、ルミナちゃんは適当に辺りの椅子を引きずって、隣り合わせに座った。執筆は中断し、推敲に専念することになってしまった。
「第一舞台講演は取り敢えず飛ばして……此処よ、此処。悲喜の彼岸Ⅰで、小説内の慧生が小説内の火遠理くんに文庫本……『悲喜の彼岸』のとあるページを見せた場面だよ」
「はい」
「はいじゃないよ! 小説内の小説に話が飛躍してんじゃんよ!」
「ほう……ルミナちゃんは流石でありますね。メタフィクションの階層差に気附いてもらったことで、改めて小説家としてのやりがいを覚えるのであります」
純粋に私は、私自身とルミナちゃんに感心した。苦肉の策で講じた技法は、確かに読み手へ伝わっていた。
「褒めて誤魔化せる問題じゃあないの。話が一気にクライマックスへ移行して、意味不明な物語背景を各々の読者の想像に丸投げ。これは立派な職務放棄よ。プロローグ部分に前倒しした舞台講筵のことはまだしも……小説内の私と行方ちゃんは物語の飛躍後で突然出現したことになっているの。話の根幹を担う、無辜惨禍の魔女や悲喜の彼岸計画については詳細をスルーされたまま終わってるじゃない」
「えー……その辺もルミナちゃんの思惟で補完してくださいよう」
甘えた声で縋ってみせたが、ルミナちゃんの視線は冷ややかであった。
「それは最早補完でなく、代筆レベルなんだけど。慧生はゴーストライターを募集したいわけ?」
「とんでもないです。ただ……〆切までの時間が……」
「――そう。まあ、どうせそうだと思ったさ。長編小説の執筆では段取りをしっかりするように火遠理くんが言っていたのに、従わなかったが故の報いだと思えよー」
これにはぐうの音も出ない。厭世観や本来的存在の証左など語って論破する気持ちも無くはないが、私の見識を全て見透かしたルミナちゃんに反旗を翻したらもっと愚かになってしまう恥ずかしさも感ぜられる今、素直に反省するべきであろう。
私が『悲喜の彼岸』を執筆している理由……それは、文芸部の活動存続。
叡智大附属高へ入学してすぐ、私は文芸部の立ち上げを企てた。入学前から文芸部が無い高校であることを知っていたが、人数を集めれば何とかなるものだと楽観的に考えていたのだ。
友人のルミナちゃんは面倒だと言い乍らも、二つ返事で承諾。
同じクラスにいた火遠理君は休み時間によく哲学者を読んでいるような人である割には明るく、教室で孤立している私に声をかけてくれた聖人であったため、如何にも私は根暗ですって自称しているようなたどたどしい口調で勧誘しても、あっさりと文芸部へ来てくれた。イケメンさんと実存協同する人生が訪れるとは露程も思っていなかったが、世界は私に一縷の望みを与えてくれたようだ。
加えて、私の処まで率先して訪問してくれた手白香行方御嬢様は、文学への関心が高く、おしとやかで博識な中身と淡麗美人の外見を兼ね備える、誰かさんと段違いに磨き抜かれた崇高な存在者なのですよと、ルミナちゃんを見下し心の中で呟いてみたり。
ともあれ、私は他存在に恵まれていた。僥倖だった。顧問も飛騨先生が名乗りを上げてくれて、部活として成立する最低部員数にも達し、さてこれからだ……と意気込んでいたが、障礙の壁が未来の光を遮ったのだ。
「うう……部活動の内容を具体的に提示するための作品を学校側から催促することになるって飛騨先生から示唆された時、勢いであんなこと、宣言するべきでなかったです……」
一般的であれば、各部員の短編小説なコラム的な記事を寄せ集めた雑誌で文芸部の活動結実を著すことになるが、発足の起因となった部長の私が最初くらいは全責任を背負う気概を見せなきゃとカッコつけてしまったペシミスト系女子(未来永劫、流行ることのない言葉であろう)の無根拠性決意は下述の通りである。
『私が長編小説を書き上げます! 世界の空虚な幸福から逃げに逃げたぺシミスト(厭世家)の超克を一つの物語に仕上げて……文芸部の存在証明とするのです!』
わざわざ文芸部を創立させたのも、捻じ曲がった私の悟性と感性が原因なのだ。
世間に対し者に構えた私は、常々自分に言うのだ。普通の大人になれると思うなよ、と。
哲学者ニーチェの思想に深く感嘆している時点で、私の精神は暗闇の底へ転がり続けている。視界に広がる世界を本当の世界だとは認めず、ヘラヘラと楽しそうに話している目の前の人間達に唾を吐き、私はああなりたくないし、それ以前になれるはずもない屑であることも知り得ている。
憂さ晴らし……という表現では多少の齟齬が発生するかもしれないが、小説家を目指す理由は単純にそういうことなのだ。
だが、現実はそう甘くない。
飛騨先生から頂戴した作品提出までの期間は、一カ月。
活動報告となる文芸誌の評価次第では、正式に部として認められず、あえなく文芸部は解散となってしまう。
そして、現在。あっという間にその三分の二を費やしていた。進捗状況は……御覧の有様だ
「後十日しかないから、今更私達も手伝うに手伝えないし。慧生のアイデア一本で小説を書き上げてくれよ」
「一応、ほぼ完結したんですけどね」
「してねえよ。あんなラストで納得する読者がいるか。もしいたら、そいつは相当なお人好しか、適当に他者を褒めては体裁を取り繕う臆病者のどちらかだ」
ルミナちゃんの辛辣なコメントは数秒後に忘れるとしても、これでは文芸誌として公開できないか。
「全体的な構想は掴んではいるものの、何せ設定の詳細がてんで未確定でして。劈頭と終末だけこんな感じにしよっかなー、と。でも、話の中盤が書けないからどうにかしてスキップしたいなー、と。じゃあ、『悲喜の彼岸』の中に『悲喜の彼岸』で繋げるメタフィクションで誤魔化そうと思い立ったが故の結晶が、この小説なのです」
「そこもおかしいじゃん。どうして自分が登場している小説を読んでいる登場人物が出てくるのよ。矛盾も甚だしいし」
ガサツな性格の割には、空想内の疑問をしっかりとつつくルミナちゃん。意外と読解力はあるんですねえ。
「あまり整合性を求められても困りますので、ある程度はご容赦願います」
「……都合の良い設定だけど、それがメタフィクションのエッセンスだとも言えるか。分かったわよ。そういうギミックだと見做すけど、反論点はまだあるし」
金髪少女の詰問はまだ終わらない。そんなに私の作品を考察してくれているのであれば、本格的にゴーストライターを依頼してもいいだろうか。ダメか。
「フィクション内の登場人物と、現実の人物を同一化した理由は?」
「――特に理由はありません。強いて言うなら、私という存在をせめて空想内で一つの幸せを得させたい希求なのです」
分からなくもないけどフィクション小説ってそういうことじゃあないと思うぞ、とルミナちゃんは言い足した。
創作小説――『悲喜の彼岸』と現実の登場人物をリンクさせた私の決断は、確かに異様だと自覚しているのだ。
であるにしても……文芸部員と顧問の名前を拝借し、設定や性格、境遇を調整させて言語内の世界に皆を再降臨させた本来的な企図は、せめて空想上の私が火遠理君とイチャイチャする未来を手に入れて欲しいという虚しい願いだけで辻褄が合うだろうか。
漠然とした違和感を覚える私は、寄る辺ない意識の内在を探っていた。
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