終焉Ⅰ
「夕籠火遠理……貴方は私の希望を夙に保証していたのね」
やれやれ、と言わんばかりに手白香行方は肩を竦め、白い歯を見せた。
「これからもそうやって、笑ってください。固定された価値や倫理の桎梏から抜け出して、強く生きてください」
「生き抜く先には、貴方達は待ってくれているのかしら?」
「言うまでもなく」
憑き物が落ちたように、彼女の顔は晴れ晴れしく輝く。
無辜惨禍の魔女・手白香行方はこれを以って物故され、悲喜の彼岸を乗り越えた新たな手白香行方が現出されたのだ!
「では……可笑しな劇団員兼哲学者である共存在に、お願いをさせていただこうかしら。頽落魔導の徴発が為されていた過去の滑稽者の愚行……都庁の爆破テロ予告からの犯行未遂における妥当な罰を私に強要して頂戴」
贖罪の意志を提示する手白香行方は、警察官でもない僕らに向けて両手首を差し出した。パトカーのサイレン音が遠くから聞こえる一方で、法律的道徳に従順な手錠の概念を僕は世界の外へ投げ捨てた。
「結果、この事件の犠牲者はいません。都庁で働くお偉い公務員の業務を妨害した意味を除外すれば……特段気にすることはございません」
「でも……」と、懸念する彼女の言葉はルミナさんが遮った。
「もー、手白香ちゃんは気にし過ぎだっつーの。世間が勝手に騒いでいるだけだから大丈夫だよ。大掛かりなドッキリだったとか、テロ対策のシミュレーションでしたとか、言い訳は無際限にあるよー頑張ろうよー」
ルミナさんの弁証が無謀かどうかは角に措き、そういう考え方自体は僕も賛成だ。
「後始末は大人に任せてください。私……飛騨黎泉はただの高校教師ではございません。真なる姿は、お国様より薦められた学術研究プロジェクトのアラサー助手なのですっ!」
「飛騨先生、自虐が漏れているぜ。アラフォーとか美魔女とか、現代は若さにしがみつくババアの活躍の場が残存しているんだから、せいぜい頑張れよー」
と、ルミナさんは嘲笑しながら飛騨先生にも応援を送った。
「……遠江さんは来週末迄に舞台講筵の考察結果について、三万字以上三万三十五字以下の論文を書くことっ!」
「文字数の規定、細かすぎるし! 文量だけでも厳しいのに!」
飛騨先生の禁忌に触れてしまったルミナさんは項垂れてしまった。そもそも御本人がアラサーと言い出したので、彼女はさほど悪くないと思うが。
「間抜けな空談はそこまでにしておきましょ。さ、事が済みましたので撤退です」
話の脱線を阻止した慧生ちゃんが、手白香行方の手を引いた。
「行方さんも私達と一緒にここから逃走です。だけど、これは現実からの逃避ではありません。火遠理君を中心に現成させた悲喜の彼岸を跳躍した、新しい地平への奔走なのです。振り返っても其処には何もなく、既在の過ちは夜陰の彼方へ葬られたのです」
慧生ちゃんの瞳には、無底の……いや、光の深淵が潜んでいる。手白香行方の悪行を仮借し、暗闇の煌きで次に続く途を照らした。
「有難うございます、千野慧生……遠江ルミナ……飛騨黎泉……そして、夕籠火遠理。皆は私の人生に欠かせない、偉大なる道標になったようだわ」
悲しみと喜びの境界線を消し去ったのは、皆の協力があってこそだ。ルミナさんの拠り所となっている死の哲学のイデオローグを参照すると、絶対無即愛の協同こそ自己と他者の存在を
「僕からも皆さんに感謝しています。形而上学の抽象的思惟空間と悲劇即喜劇の霊妙不可思議な舞台を経由して……既存観念の破壊と刹那即永遠なる愛を知り得ました」
仲間とか敵とか、どうでもいいのだ。大事なのは、相手の愛を享受することだ。
有難う、飛騨先生。有難う、ルミナさん。有難う、手白香行方さん。
他者の存在価値に優劣をつけるつもりは無いが……やはり特別視してしまう彼女には、直截的な情態を込めた言葉を贈らざるを得ない。
「行方さんやルミナだけでなく、始めから同じ思索者であった私も……火遠理君の哲学に救われました。世界には微々たるものだけど希望があるんだ、って。虚無だと思っていた空間に手を突っ込むと人肌を感じられるんだ、って」
――私、火遠理君が好き。火遠理君のいる世界が、大好き。
そう言った慧生ちゃんの声音には、微細な色彩が施されていた。
第三者からすると、唐突な告白だったかもしれない。
されど、僕は先駆していたのだ。
慧生ちゃんと僕が……双方向の愛を交わすことを。
「僕も好きだ。慧生ちゃんのことが、大好きだ」
先に言われてしまったのが悔やまれるが、僕の内部から迸るパトスは決して遅れを取らない。
慧生ちゃんの身体に漂う厭世の影が愛の結晶と混淆し、彼女一人で悲劇即喜劇の精神が完結されているようだった。
微笑む彼女こそ、悲喜の彼岸の権化。死の時代を終焉させる闇の女神が魅せた世界の果てから看取し――目にも留まらぬ速さでキーボードを打ち続ける千野さんに話しかけた。
「何とか書き始められましたか、千野さん」
「うん……どうですかね、火遠理君」
背中を向けていた彼女は一息ついて、椅子をくるりと回転させる。赤く充血した眼で瞬きもせず僕を凝視し、ノートパソコンのディスプレイに映る縦書きのワード文章に対する感想を希求した。
「猛烈にややこしい幕開けと幕引きです」と、簡潔に僕は答えた。
「……やっぱりかあ。ちなみに、愛の告白のくだりは御容赦いただけます?」
「ハッピーエンドの即興感と心のむず痒さが否定するでしょうね」
「火遠理君は創作アイデア的に
お菓子を買い与えられず駄々をこねる子供のように唸っても、千野さんが創り上げた物語に装着された多数の疑問符を地道に取り外すべきだ。
「ケチとかそういう問題じゃありませんよ。取り敢えずは最低限の分かり易さと捕捉敷衍で軌道修正することです」
「……はーい」
全面的に納得していない返事だった。
確かに彼女の心境も、分からなくはない。
「時間に縛られても、千野さんの思惟は
「そ、そう。火遠理君に後押しされたのなら、寝る間も惜しんで執筆しなきゃです」
彼女の気概に貢献できたのであれば、僕は満足だ。
――空想的被投性の世界でなくても、僕はあなたのことが好きで居られる理由がある。
「どういう展開で『愛しているよ、慧生ちゃん』と火遠理君に言わせて、熱い口づけまで持っていけるかですよねえ……」
「我慾が独り言で露出されているのですが」
「……つい、うっかり」
啻に、消極即積極の愛情を陰影と交えて差し出す彼女に、僕の本心は遠慮されているような気もする。
「では、私の創作的
マイペースな調子を一貫する彼女は、ノートパソコンを静かに折り畳んだ。
お疲れ様です、と男女二人の声を重ね、僕もまた束の間の休息地へ赴くことにする。
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