翻転
「……何だ、これは?」
僕が思い描いていた授業風景とは、明白に遠ざかっていた空間。
本来ならば六×六(若しくは六×七か?)の学習机が整列される教室には、余りに余った広範の空白が目立った。
教壇に対面している学習机は、たったの二席。一つは空席。もう一つには……文庫本を捲る女子生徒がいた。
自己的状況把握の進捗が滞っていると、周囲世界の他存在が急かしてくれた。文庫本を両手で閉じた女子生徒は、平静な様子で言葉を発する。
「そこのあなた。たった今、『何だ、これは?』と発言されました?」
音量は小さめであるが、よく通る声だった。
「……ええ、僕はそう言いました」と僕は丁寧に応え、首肯する。
「ふむ……あ、どうぞこちらへ。あなたの席はこちらであると思います」
女性生徒は立ち上がり、隣接していたもう一つの席の椅子をスッと引いた。促されるままに僕は座した。遅れて教室に入っては扉を閉め、教壇に登る飛騨先生を目で追っていたが、隣の女子生徒に声を掛けられる。
「自己紹介を前に……ちょっとだけ審問対話をさせていただけます?」
「審問対話? まあ、いいですけど……」
担任の存在を遮ってまですることでしょうか、との言葉が喉から出かかったが、にっこりと僕ら二人の生徒を眺めては沈黙を守る飛騨先生の姿を確認し、奇異な雰囲気の裡で会話を進めることに同意する。
「二年六組の教室内を確認したあなたの第一声に内在されている意味につきまして、これから私の言語で抽出させていただきたく思います」
堅牢な言い回しで装甲されている……まさか、同類の存在者なのか?
興味を惹く対象の外観を、観察するように間近で窺わせてもらった。
ダークグレーの粒子を纏った髪に、清廉性が滲透されているかのような白い肌。
彼女の容姿を形容するならば……己の中途半端な可愛さをマスメディアに誇示する軽率無知なアイドルの天狗鼻を易々と叩き折る、正真正銘の優美ということであろうか。偏頗な批判が占めているような気もするが、兎にも角にも彼女は綺麗であった。
だが……惜しいことに、彼女の美そのものを損なわせる暗部が剥き出しになっている。
大きく開かれているその双眸に、一筋の光も無い。黒に黒を塗った彼女の瞳は恰も、辺り一帯の影をなりふり構わず吸い込んでいるようであった。
「あなたの驚嘆に紐づく因由は、私という存在内に世界的終焉となる絶望中の絶望が蠢いている仮象……」
陰鬱を極めた彼女の見解に、僕は首を横に振った。
「または、私に纏わりつく鬱蒼な闇の森に感染し、あなたは世界の全てを嫌いになった……」
「何も生い茂っていませんよ」
「では、或いは……まず違うと思いますが……当たっている自信はありませんが……想定していたクラスとは、明らかに人が少ないから……」
「不安そうな前置きでしたが、完璧な模範解答です」
すると、彼女は大根役者のような驚き方をして、こう言った。
「わーお、It’s wonderful days」
突然おどけた彼女の裏側を慎重に探っていると、飛騨先生の拍手の音が響く。
「意味深な哲学的対話ですねー」と、何やら僕と彼女を賞賛しているようだが……。
「いや……単に、初対面の人に闊達な女の子だと無理してまで認知されたいが故の空談的行為でしたけど……」
意図していた伝わり方が違ったのか、目線を下げて困惑している彼女に僕は疑問をぶつける。
「ん? ということはさっきからずっと、全力でボケられたのですか?」
「う……真意を根こそぎにされるほど、恥ずかしいものはないです」
朱に染まる頬を文庫の装丁で隠す彼女の所作は、意図を疎隔させた本心を感じさせる。澱む黒の瞳が仄かに輝いたのは、決して錯覚ではないはずだ。
「それ……僕が来るまでに読まれていた本ですね。タイトルは……」
背表紙には、『悲喜の彼岸』と書かれていた。ニーチェ作品だろうか……いや、あれは『善悪の彼岸』だ。
もしも彼女が愛読している文庫が哲学者ニーチェと連関する内容であれば、未解決の状況空間でも彼女との会話を自然に受け入れられる理由は平明化される。
「あなたも読みますか? 若き女流作家……
千野慧生……聞き覚えの無い作家名であった。
「僕の知悉度が低く恐縮ですが、有名な方でしょうか?」
「いいえ。無名の二文字で収まる相手です」
但し、と彼女は接続語を挟み「間もなく、知れ渡ることになります」と言った。
その『悲喜の彼岸』のとある見開きが僕に見せられた。偏った左右のページの厚さから推測すると、終盤中の終盤であった。
彼女に掲げられた『悲喜の彼岸』……小説の形を保証する文言を僕は黙読し――『
「世界が命じる善は、私にとっての悲劇に過ぎないのよ。不慮の航空機墜落事故で両親を亡くし、孤独を強いられ……居場所を失わせた偶然的運命が、全人類の胸中に懐く不安と闇を私に押附けたわ。全世界は、少数者の犠牲で大勢の頽落を防げたことを誇りに思うかもしれない。だけど、『惨禍の世界的看取』によって生き乍らの死を半永久的に味わう私の希望的将来は何処に求めればいいの? 答えなさい、夕籠火遠理!」
付近にはカメラを肩に担ぐマスコミが群れ、リポーターは自身の職務を一時的に忘却させているが如く、固唾を飲んで僕らの戦いを傍観していた。
「……もう、終わりにしませんか、手白香行方さん」
「何をですか! 私はこんなにも怒っているのよ! 『頽落魔導の徴発』が完了しては、この都庁を破壊する魔法が創造されてしまう領域に至らんとしているのに……貴方は何を言いたいのよ!?」
高く聳え立つツインタワーの根元で、手白香行方は大きく吠えた。されど、僕ら四人は泰然と構えていた。彼女のために開かれた第四舞台講筵の結実が、既に常に表象されていたからだ。
「全ての受苦は虚妄であったと割り切って、希望の光へ先駆けするんだ!」
手白香行方に援言したのは、無辜惨禍の魔女を経験した
そして、哲学科の生徒として初めて僕と邂逅した千野慧生ちゃん(畢竟、彼女から、ちゃん付けで名を呼べとしつこく懇願されてしまった以上、恥ずかしがらず脳内から意識して言うしかないのだ)は、静かな足取りで手白香行方の傍に寄り、声をかけた。
「行方さん……自覚されていることを素直に認めましょ」
「私が……認める?」
少なからず、手白香行方は本心を会得しているのだ。棘のある言葉で僕らを拒絶しようとも……僕の隣に居る飛騨先生に陽気な口調で励まされては、それを引き出されんとする。
「残影を振り払えば、手白香さんの超人化は現在化されますって。だって、第四舞台講筵からずっと……今の手白香さんの顔には……幸せそうな笑みを保持されていますからっ! 世界は手白香さんが思っているよりずっと、明るくなりましたっ!」
ああ、そうだ。がなり立てる貴女は……笑っている。その矛盾性が、彼岸の超克を意味するのだ。
「嬉しいと……思っている? 精神が粉々されるほどの悲しみを受けたはずの、私が……?」
存在の変遷を認知し始めてくれただろうか。僕らという世界に開いてくれる心を……即ち『悲喜の彼岸計画』の目的となる、舞台講筵に備わる『悲劇即喜劇性』での救済を……させてもらえないだろうか。
「これが僕らの最終地点……存在への問いにおける極北でした。死の時代に蔓延する腐臭を喜びの炎で溶かし、その炎は灰色の氷で消され……その氷は強く響く笑い声に砕かれ……悲喜の反復が成立した先に誕生する者こそ、既成の価値観も感情もかなぐり捨てた超人……つまりは今の手白香行方さんなのです」
哲学者と魔女の人生が交叉し、境目の無くした一つの集合体と化した。
世界が治療困難な感染病に罹患しているからこそ、僕らは共存在として力を重ねるべきなのだ。
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