悲喜の彼岸Ⅰ

転校

 刺さるような凍てつく風が吹き止み、暖かな陽射が季節の更代を知らしめる頃、僕――夕籠ゆうかご火遠理ほおりは転校先の高校へ訪れていた。


「ようこそ、叡智大附属高へ。私が君のクラス担任を務めることになる、飛騨ひだ黎泉れいせんです」

 良く言えば趣があり、悪く言えば古めかしい木造の校舎に入り、職員室への扉を開けて一番に歓迎してくれた先生は、黒縁眼鏡が特徴の若い女性であった。

「こちらこそ、お願いいたします」

 僕が会釈を返すと、飛騨先生は自分のデスクへ着席された。目配りで左傍の空席に座るように促されたので、早足で従った。

 初対面の相手との対話は些か緊張するものであるが、不思議と平静を保てた。おしとやかに両足を閉じて、無彩色のパンプスの爪先も揃える女性教師の柔和な第一印象に好感を懐けたのだ。

「夕籠君、先月迄は都心の高校にいたのですね。田園に囲繞いじょうされた疎開地のような田舎に居てはストレスが溜まり、ナイトクラブへ放埓したい欲望を抑えきれないのかもしれませんねえ」

 微笑んで冗談を話す飛騨先生につられて、僕も笑ってしまった。

「野卑の突端にて邁進する今時の若者ではありませんよ。同じ東京都内でも長閑で過ごせそうな地域ですので、良い機会だと思います」

 父親の転勤を理由に夕籠家の引っ越しが余儀なくされ、新宿から快速と鈍行の電車を一時間ほど乗り継ぎ……高尾山と奥多摩エリアの中間ほどに位置する盆地へ赴いていた。ローカル線の終着駅から徒歩十五分程度の距離に、叡智大附属高等学校が布置されている。

 住民票を移して間もないが、好きになれそうな町であった。都会の喧騒から離れ、自然の澄んだ空気を味わい……上等な思惟を充溢させられる予期がした。

 飛騨先生の発言ほど極端ではないが、田舎に厭き厭きして不遇を託つ学生も少なからず居るであろう。元々の暮らしが利便性の高い地区であれば、なおさらだ。

 だが、僕は違った。訝る他者の視線を顧みずに敢えて言わせてもらえるならば、通俗的な娯楽など僕にとっては必要とされず、大事なのは己の存在を中心にした懐疑の波と対峙するための有意義な思惟の把持にあるのだ。

「無論、私も夕籠君はそんな人間ではないと知り得ていますよ。だからこそ、この高校の雰囲気だけでなく特異なカリキュラムにも順応されると期待しています」

「カリキュラム?」と首を傾げて訊き返したが、飛騨先生は答えず話を転換させた。

「ところで夕籠君……趣味は?」

「あ、ああ。哲学探究です」

 正直に言表してしまったことに、悔恨の念が湧く。せめて初対面の人間に伝えるとしたならば、『自分なんかが本当に生意気ですが~』と添えて控えめに表現するべきであった。

 ――されど、僕の本心は嘘をつけない。精神の深奥より既に常に、存在者の存在を配視しているからだ。

「……よろしい。夕籠君の見識含め、これからの学校生活ではより様々な事柄を俎上に載せることでしょう」

 寛容な感性をお持ちなようで、朗らかな様子で飛騨先生が答えてくれた。哲学に理解を示してくれる人……なのかな。

 おもむろに起立し、飛騨先生が一言。「早速教室へ案内いたします」

 職員室の壁に掛かっている丸時計に視線を放ると、朝礼の時間は疾っくに過ぎていた。ここの正門をくぐる時には、グラウンドに体操着姿の学生が集合されていた。

「分かりました……もう授業中ですよね。属するクラスの方々にご挨拶する機会を失いましたか」

「いいえ。心配ご無用です」

 どういうことでしょう、と問いたのだが飛騨先生はおどけたように舌を出して、僕を手招きするだけだった。

 判然としない状況下で飛騨先生の背中について行き……職員室を出て階段を上がり……二年生の教室が並ぶ回廊を歩く。


 校舎内は静謐で蔽われていた。講壇に立つ教師の声以外、殆ど聞こえてこない。

「久しぶりに静音を耳にした気がします。前の高校はすぐ傍に首都高が走っていたものでしたので」

「数少ない田舎の利点ですね。あまつさえ、不良生徒が絶滅危惧種に指定されている品行方正な学風が、平穏を加速されております」

 飛騨先生の言葉には合点がいく。地方と云えども、由緒正しい国立高校であるのだ。国内では最上位グループに属する旧帝大に匹疇する大学の一つが叡智大である。

 その附属高校となれば、偏差値もインフレーションを起こしているのではと疑うほどに高い。僕のいた都立高校と比較してしまっては烏滸がましいくらいに。

 ……だからこそ、不思議なのだ。よく僕が叡智大附属への転入が許されたな、と。何せ、筆記試験どころか面接すらなく、夕籠家の新たな住居が決まったと同時にどういう訳か、叡智大附属への転入手続書類を母親に書かされたのだ。

「来て早々……こんな質問をするのはですけど、どうして僕、こんな格式高い高校に入れたんですかね」

 不信感を言葉に含蓄させ過ぎたであろうか。飛騨先生の歩調が重くなり、僕が追い越してしまった。

 ただ……飛騨先生の表情は硬くない。むしろ、周囲世界の冥がりを照らすに事足りる快闊な明るさを、笑みでもたらしている。

「その事柄を疑問として感受されている時点で、夕籠君の謙遜と俊英が入学許可書に結実されているのですよ」

「はあ……」

 曖昧な返事をするしかなかった。僕への高評価に連関する無根拠の根拠を教えてもらいものだ。

「二年六組。ここが夕籠君の所属クラスです」

 歩を止め、やおら片膝をついた飛騨先生がとある教室の引戸に手をかける。

「どうぞ、お入りくださいませ。ご主人様」

 教師と生徒の関係にはそぐわない挙措だ。

「仰々しい案内人ですね……」

「物事には時に、無意味なる振舞いで装飾されると有意味になるのですよ」

「具体的な有無の転換を詳らかにお教えいただけますか?」

 数秒ほど押黙った飛騨先生は、苦笑いで戸を引いた。単純にふざけただけらしい。先生への好感度が漸次上昇していく。


 ところが教室内に足を踏み入れた瞬間、穏やかな心境が一変して凍りついた。

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