第17話

   十七、



 高緯度地域には、冬と夏しかない。さらには、長い昼と長い夜しかないのだ、とも。十月に陽が暮れると、二月まで長い夜が来る。海は凍りつき、刺すような風が吹き、晴れた日には、空にオーロラが輝くという極北の地の話。極地では極彩色の夢を見るとも読んだことがある。輝くオーロラの下で、長く明けない夜を過ごしながら、凍てつく時間を、極彩色の夢が彩るという。

 北緯五十度に引かれた国境線からわずかに北へ上がったところに私はいる。イルワクの村。極彩色の夢を見るにはまだ低緯度だ。

 北方戦域は、椛武戸の東側に広がるシェルコヴニコフ海全域を含めて、さらに北極圏近くまでを戦闘領域に含めている。だが、帝国の実効支配が及ぶのは、北洋州から島伝いに北緯六十度付近までと、北洋州本島から北東部へはるかに伸びる庫裏流(くりる)諸島だ。戦域全体を見渡すと、ガス田やメタンハイドレート採掘基地が点在しているが、都市と呼べるものはほとんどなく、冬になれば流氷が埋め尽くし、砕氷艦以外の船は航行すらできない。だから、散発的に島をめぐる戦闘が発生しているだけで、北極圏まで北上して北方会議同盟(ルーシ)連邦軍と帝国軍が衝突した過去はない。オーロラを見上げながらの作戦行動とは魅力的に思えたが、極寒の戦闘を考えるとうんざりする。厳冬期の戦闘は、敵との戦いだけではなく、まずは部隊の戦力の維持そのものが激しい作業になる。吹雪の中での戦闘には高度な訓練を要求される。体温の維持にしてもそうだし、寒冷地戦闘に特化した武器と、凍らない食事が必要になる。

 ターニャが私のために用意してくれた食事は湯気を立てていた。戦闘糧食とは違う、人のぬくもりを体現したかのようなメニューだ。私はターニャと言葉少なくテーブルを挟んで食事した。私の中では、それがこの村でとる最後の食事だと決めていた。だから、感謝の言葉をターニャに向けた。

「あんたは、ここにいたらいいのさ」

 ターニャは控えめに味付けをした煮込み料理を私に振る舞い、静かに言った。

「ターニャ、ありがとう。けれど、ここは私の場所ではない」

 意識をしているはずなのに、自分の声音が普段と違うことにいやでも気づく。けれど、ターニャに荒々しい言葉をぶつける気にはならなかった。

「どこに行っても、自分が納得できれば、そこが自分の場所になるのさね。あんたは、この村が気に入ってくれると思っていたよ」

「悪いところ……ではないと思う。本音は、一ヶ月でも一年でも、ここにいられればと思う」

「ならいたらいいのよ。いてもいいのよ」

 ターニャは木の器から木のスプーンで煮込み料理を口に運ぶ。煮込まれているのはシカの肉だ。私の郷愁を胸の奥底から強引に引きずり出す、涙が出そうな味。柚辺尾の実家が思い出される。

「ここにいて、私は何をしたらいい?」

「あんたは、柚辺尾でここの男衆みたいな仕事をしていたんだろう。聞いたのよ」

「仕事にしていたわけじゃない」

「銃の撃ち方も、獲物の獲り方も知っているってね」

「教わったから」

「誰にかね」

「祖父」

「あんたのお祖父さんは、猟師なのかね」

 私は黙ってうなずいた。元兵士。元狙撃兵。そのことは伏せた。

「いい手ほどきを受けたんだろうさ。あんたの目を見ればわかるよ。まっすぐで、素直だ」

「私のどこが素直だ」

「……野の花のようなものさ」

「花?」

 花、という単語に、私は紀元記念公園の満開の夜桜を思い出す。思い出す、というより、フラッシュ・バック。

「あんたはね、自分で思っているほどに、粗野でも、みすぼらしくもないの。私から見れば、あんたは儚い。けれど手折れない。逞しい。私が知っている帝国の人間とは、ちょっと違うよ」

「私が、野の花?」

「言葉づかいも、あんたは無理に凛々しく凛々しくしようと努力している。こっちの言葉にも堪能なようだけれど、あんた、言葉は誰に教わったのかね」

「ユーリ……祖父の友人」

「ユーリ。北方会議同盟(ルーシ)連邦の人間かね」

「ええ」

「北洋州では、同盟(ルーシ)の人間と、あんたたち帝国の人間が、一緒に暮らしているのかね」

「ええ。私の故郷では、ふつうだった。戦争をしているのが不思議なくらいに」

 ターニャの料理は文句なしにおいしい。祖父は料理までは教えてくれなかった。そして、私は母に料理を教わる前に家を出てしまった。二人の姉はしっかりと母の味を受け継いでいるのだろう。私は父の商才も、母の如才ない社交性も受け継ぐことはなかった。他を拒絶するかのように孤独を好む祖父の血を、後天的に受け継いでしまったのだ。

「あんたは、たとえるならね、カバブトの夏に咲く花だよ。秋が来て枯れたとしても、冬を耐えて、また次の年の夏になったら、おんなじように咲く。それが、あんたは自分で分かっていないのさ」

 宿根草か。私が。

「相棒の……優羽のほうが、よほど可憐な野花だよ」

「あの子は野花じゃない。この部屋の窓辺で世話をしないと、花を咲かせてくれないような、弱い花さ。あんたは誤解しているんだよ。あんたはきっと、憎しみで銃を撃ったりしてこなかったんだ。いまは戦士だから、怖い顔をして銃を撃たなければならないと思い込んでいるだけ。あんたは、いままでここに来たどの帝国の兵隊さんより、戦士らしくないよ」

「私は、ターニャ。戦士なんだ」

「わかっているわ。けれど、いつまでも戦士でいるつもりではないのでしょう。戦士でいるのをやめるのがいまでも構わないのじゃないかしらね」

「私に、村に残れと。それは、シカイの意向なの?」

「あの人はそんなことは言わないわ。ただ、あなたが残りたいというのならば、私の家に部屋は用意するし、そう決めてくれたら、シカイも何も言わないわ」

「なぜ私にそこまで」

「ここが嫌なら、あんたはもうここにはいないはずだから」

「相棒がけがをしているからとどまっているの」

「あんたにもわかっているのでしょう。あの子のけがは、もうすっかり癒えているわ。あの子の心がこの村から出たがっていないから、だから足がまだ萎えたままなのよ」

「なぜそこまでして私たちを引きとめるの……」

「私はね。トモ。あんたを強引にここに留めようとは思わない。けれど、最初の夜、あんたは泣いた。まるで、小さな娘のようにね。それで、私は、思ったの。あんたがここに残りたいというならば、ここをあんたの家にすればいいってね」

 疲弊した心。この家。ターニャの声。顔。そして青い目に捉われた私。

 私は確かに泣いた。心を縛り付けていた何かが瞬間的にほどけたような、流れ出す感情を押しとどめることができなかった。軍では、過酷に過酷を重ね、地獄のフルコースのような訓練を重ね、加えて医官がカウンセリングを繰り返し戦士としての心を強化しても、真冬の夜に暖かな布団にくるまるような、この村で受けている歓待からいかに身を守るかということは教えてくれなかった。

 けれど。私は、ここから出るのだ。そして、私が帝国の戦士である限り、二度とここへは来ないのだ。私の世界は、硝煙と迷彩色と戦闘糧食に囲まれ、自らの意思で危険に飛び込む常軌を逸した戦士たちが住まう場所。もしここへ来ることがあっても、それはやはり作戦行動でだろう。ヘリコプターでか、あるいは徒歩で越境してか。またはお得意の空挺降下か。方法はわからない。だが、次に来るとしたらそうした手順だ。歓待を受けるために来るのではなく、戦うために来る。イルワクとではなく、同盟軍と戦うために。

「トモ、」

 呼びかけられる。

 ターニャ。

 表情は穏やかなまま。親戚の家を訪れ、旧知のおばに歓迎されているような。

「あんたには、最初の夜、草(・)を使わなかったわ」

 さりげなく、けれど決定的な一言をターニャは優しい口調のままで言う。

「サーシャは掟どおり、あんたの相棒の女の子に、心を解きほぐす香を使ったそうよ。でも、私は使わなかったの」

 そうなのか。本当に? 私は問いかけず、ターニャの顔を向く。

「どれだけ勧めても、あんたは、ここを出ていくんだろうね。最初にそんな気もしたわ」

「……」

「最初の夜、あんたがここで涙を流したとき、私はね、新しい仲間が増えると思ったの。でも、あんたが泣いたのは、あの夜だけ。毎晩、あんたは部屋で銃を手入れしていた。優羽さんは、この村に来てから、一度も銃に触ってもいないそうよ。ここに来た兵士たちはみんなそうだった。喜んで私たちの仲間になってくれた。会ったんでしょう、ショウキにも」

 私はうなずく。

「あの人があんたに何を言ったのかは、なんとなくわかる。だから訊かないわ」

 この村をすぐに出ろ。相棒を連れて。

「ここまで言っても、あんたの目は変わらない。私はあんたにここにいてほしいと思ったのさ。シカイやほかの村の連中の気持ちとは別にね」

「……ありがとう」

「これは、歓待係のターニャとしてじゃなく、イルワクのターニャとしての言葉。帝国の戦士、トモ。……残念よ」

 ターニャはそう言うと席を立ち、コンロからお茶を淹れた。若草のような香りのする、あの、シカイがカップから飲んでいたものと同じ匂いの。

「安心して飲みなさい。私たちが普段から飲んでいるお茶よ。……疲れたら、戻ってくればいい。あんたの部屋は、空けておくからね。本当よ」

「ターニャ。気にしないで、……私以外の誰かに、あの部屋を使わせればいいのよ」

「トモ、」

「なに」

「初めて、娘らしい言葉を使ったね」

「え、」

「トモ、本当のあんたを、帝国に戻ってからも、捨て去らないことさ。私たちは、いつまでもイルワクでいるし、いられる。努力も必要だけどね。でもね、トモ。あんたは違う。いつまでも戦士のままではいられない。そのとき、自分をしっかり持っているの。いいわね」

 私は、ターニャが出してくれたカップから、一口飲んだ。

 甘味。そして苦味。

 きっと野草なのだろう。

 いつか、祖母が……言葉少ない祖父と同じく、多くを語らない祖母が淹れてくれたお茶が、こんな味だった。

「いつ、発つのかね」

「明日の朝に」

「あんたの着物は、全部あんたの部屋にあるわ。勝手に洗ったけれど」

「燃やしたって燃えない素材なんだ。勝手に洗ったくらい、何でもない」

「元に戻ってしまったね」

「なにが」

「言葉よ。せっかく娘らしい言葉遣いをしていたのに」

「私はずっと、こんな言葉だ」

「それもいいさね」

 ターニャと話したのは、それっきりだった。

 ターニャは洗い物をして、しばらく居間で繕い仕事をしていた。

 その場にいても、今度は私が間が持たなくなっていた。すでに私はターニャにわずかながらも感情移入をしていたから、これ以上、ターニャと同じ時間を過ごすわけにはいかなかった。離別は感情を移入しすぎると、痛みを伴うものだからだ。まして、ターニャは血縁者でも知人でもなかった。あえて云うなら、旅先で知り合った優しい人。

 私は短くターニャにおやすみを言った。

 ターニャも短くそれに応えた。

 ターニャにとっては、いつもと変わらないイルワクの村の一日が終わる。

 そして私には、日常へ回帰するための最後の非日常が終わる夜だ。

 蓮見を連れて、明日、この村を出る。

 だがもし、蓮見がこの村に留まると言ったら。

 それは許さない。先任である私は、彼女に命令する権利がある。そして、彼女を無事、部隊へ連れ帰る義務を負う。

 今夜は眠るのだ。そして次、安らかに眠るのは、高泊の宿舎だ。私は原隊へ復帰する。あの殺風景な二段ベッドの置かれた自室に帰るのだ。私の世界へ。

 ベッドにあおむけになり、目を閉じる。眠ることも大切な任務。睡眠不足は判断力を失わせ、加速度的に体力を奪う。

 眠ることだ。

 私は夢を見ることができる。<PG>とは違う。彼ら、彼女らは判断に迷わない。だが、私は迷う。迷った末に、判断をする。そうした積み重ねで、正しい判断を行える自分を得る。

 極彩色の夢を見てみたいと思ったが、しかしここではオーロラすら見られない。

 それは、また次の機会に。


 イルワクの娘が着る素朴で質素で、けれど愛らしい春服。

 私はそれらを脱ぎ、ベッドの上にたたんで並べた。

 ベッドも教育隊で習ったとおり、コインを落とせば弾むほどに整えた。

 かわいらしい春服を見下ろす私は、帝国陸軍第五五派遣隊の装備を全身に纏った戦士の姿だ。インナースーツは温度調節機能付きで、私の体温と高性能な燃料電池で駆動する。蓮見のスーツは被弾し故障しているのが気がかりだが、また沼地に落ちたりしなければもう問題ないだろう。国境を越えれば、味方が展開している。

 4726自動小銃、セラミックプレート入りの防弾ベストとチェストハーネスに予備弾倉、メルクア・ポラリスMG-7A制式拳銃、バックパック。

 そしてCIDS。敵の電磁衝撃波ですっかり沈黙していたが、ショウキから受け取った旧式CIDSのパーツを組み込むことで、よみがえった。ただし、基本的な機能に限定されている。やはり部隊が違ううえに七年前の基板と入れ替えただけでは、お役立ち機能のほとんどが使えなかった。特に敵味方識別装置(IFF)の類は一切機能しなかった。衛星とリンクし、壁の向こうの対象物をディスプレイに表示させたり、口の中やのどの奥でつぶやいた声にならない声を音声化したり、といった機能もダメだ。友軍との遠距離交信もできない。衛星とリンクできないことが決定的なのだ。ただし、私の個人認識が可能になったことで、パーソナルマーカーが復活した。南波が健在で、彼らが私たちを捜索してくれているのならば、向こうから私たちを発見してもらえる可能性が非常に高まったということだ。

 失われていた線が、つながり始めていた。

 南波にいまほど会いたいと思ったことはなかった。彼は私の世界を体現する存在だったからだ。

 彼は生きている。彼は生きる方法しか知らないからだ。確信的に私は思う。

 すべての装備のチェックを済ませ、私はそっと部屋を出た。

 居間には、ターニャの気配がしていた。

 朝食をとることなく、私はこの村を出るつもりだった。朝食の時間帯にぶつかると、蓮見を「奪還」できなくなると思ったのだ。戦闘中に戦闘糧食をむさぼるのと違い、この村で手料理を囲んで過ごす食事の時間は、とりわけ極限状態に対する憧憬ばかりが募り、心の奥底にとてつもない寂寥を抱えているらしい蓮見のような人間には果てしなく危険だ。

「トモ、」

 ターニャが振り向いた。昨夜の食事のときと変わらない、穏やかな表情だった。

「ターニャ。ありがとう。さようなら」

 最後は帝国の言葉で言った。

「サヨナラ」

 ターニャも帝国の言葉で言った。最後はイルワクの言葉で、そう思ったが、彼女の思いやりなのだと理解した。

 私はフル装備で家を出る。むしろ、村娘の服装をしていない今のほうが場違いで滑稽に思えたが仕方ない。光学照準器を載せ、イルミネータやフラッシュライトをレールに装備した自動小銃は、ウッドストックのシンプルなイルワクのライフルに比べると、電気工事の道具のように物々しい。村人にこの4726自動小銃を見せたなら、すぐにこれが銃だと理解できないかもしれない。銃床は樹脂製。レシーバーはプレス加工された金属製だが、やはり樹脂を多用し、軽量化とメンテナンスの容易化を図り、錆などから銃を守っている。

「よお、戦士」

 道端でセムピと出会った。

 私の姿で、すべてを理解したのだろう。初めて霧の中で出会ったときのような、警戒心が唇の端にあった。

「トモ、あんたはその恰好が似合ってるよ。不思議だな。娘らしい恰好もまあまあだと思っていたが、顔つきからして変るもんだな。そうか、出ていくのか。てっきり、あの娘と、ここに永住するのかと思った」

「ここへ連れてきてくれて、あんたには感謝する」

「余計なお世話だったようだな」

「そんなことはない」

「出るなら急げ。追い出したりはしないし、見送りもしない。だが、あのお前の相棒は、危ないぞ。お前ら流に考えるならな。いや、もうあの娘は、俺たちの一人になっているかもしれんぞ」

「それでも連れて行く」

「好きにするさ」

 セムピはライフルを肩にかけていた。私は弾倉を装填した自動小銃を提げていた。

 あまりにも違う出で立ち。

 私はセムピに最後の言葉を考えていた。が、彼はさっさと私とすれ違い、森への道を進んで行った。


 蓮見は部屋にいた。

 表情が硬かった。

 おそらく、私の来訪を予想していたのだろう。

 私の姿を、この村にやってきたときと同じ、私の世界の装備を見ても、表情はさほど変わらなかった。だから私は言った。短く。

「帰ろう」

 手を差し伸べたりはしない。

 もし蓮見が私を拒絶するならば、もうそれは仕方のないことだと思っていた。

 私は自分の世界へ帰ろうと思ったのだ。ここは私たちの世界ではない。ターニャの家で襲われたあの安堵感は、このイルワクの世界に私の責任が一切ないからだ。この世界において、私がなすべき仕事はまったくなかった。だから、安堵できたのだ。私は私の世界にやるべきことがあり、私の世界には私の責任がある。

「帰ろう、蓮見」

 私が過ごしたターニャのあの部屋と同じく、簡素な造りの一室のベッドに、蓮見は腰かけていた。かすかに甘い匂いがした。香料というよりは、彼女自身の匂い。まるで、少女のような。それは蓮見が着ているイルワクの娘の衣装から漂っているのかもしれなかった。

 イルワクの服は、蓮見にはよく似合っていた。もともと童顔で、華奢な体つきの蓮見は、軍の装備品すべてを身に着けると、機械仕掛けの人形のように見えてしまう。それを彼女は自分の身体の一部にしていたはずなのだが、今こうして対面すると、イルワクの、飾り気はないが素朴な衣類のほうが、ずっと似合っているように見えて、私は不快だった。

「行こう。……帰ろう」

 三度、言葉を蓮見に向ける。

 蓮見はうつむいたりせず、じっと私に視線を向けている。まるで助教が新隊員を訓練へ連れ出そうとしているようではないか。

 蓮見の装備は、すべて壁際にまとめられていた。見ると、手入れされた形跡があった。几帳面に並べられ、銃は壁に立てかけたりせず、床の上にしっかりと置いてあった。汚れもふき取られ、それこそ、助教にしつこく教え込まれた銃の手入れを忠実に行ったあとのように見えた。

「ここは、私たちの世界ではないんだよ。それはお前も分かっているはずだ」

 私は立ったままで言う。

「姉さん」

 蓮見が口を開いた。甘えたような声音はなかった。多少割り引いたとしても、いつもの蓮見の声に近い。

「その服、似合ってるぞ」

 少しだけ笑いをにじませてみた。反応をうかがう。

「姉さんも似合ってたよ」

 蓮見もほんのわずかに表情を緩めた。いやな感じではなかった。

「イルワクのかわいい服を脱ぐのがつらかったさ」

 それは嘘だ。蓮見も分かるはずだ。

「どうしても行くの」

 蓮見。懇願するような口調でもない。

「足は痛むか」

「もう痛くない」

「本当はもうずいぶん前によくなっていたんだろう」

「わかっていたの」

「わかっていたさ」

「どうして」

「ここは居心地がよすぎるのさ。きっとあと二週間もここにいたら、お前が今考えているように、二度と帝国に帰れなくなる……」

「だから行くの」

「違う。だから行くんじゃない。……蓮見、南波少尉が待っている」

「南波……少尉」

「原隊に復帰するんだ。任務は終わっていない。私たちは部隊に戻る途中なんだ」

 私は一歩歩み寄り、ヘルメットを脱ぐ。髪がうなじまで散る。

「CIDSも、機能は限定されるが、なんとか動く。電源が不安定だが、ビーコンも発信できている」

「本当に」

 私を見上げる蓮見の目。まだ弱い。すっかりこの村で退行させられてしまったのだ。戦う者の目にはまだ少し遠い。

 沈黙。

 私と蓮見の間の一メートル。何もない空間。沈黙。

 そして、銃声。

 びくりと蓮見が身体を瞬間に緊張させた。

 警戒の姿勢ではなかった。ただ単に驚いたのだ。

 この村では銃声は珍しくない。誰かが獲物を狙った音だ。一発鳴り響き、そのあとに次弾が連続して続くことは少ない。このときも、二分ほどしてから、第二発が響いた。おそらくは、止め矢だ。誰かが獲物を仕留めたのだ。

「蓮見、もう一度言う。ここは私たちの世界ではないよ。お前が求めている世界でもない。お前は猟師ではないんだ。もちろん、ただの村娘でもない。お前がここにいても、ただ朽ち果てるだけだ。二度と、お前が探している場所にはたどりつけない」

「私が探している場所って、」

「極限の世界を見たかったんだろう。お前はもうそれを見たのか」

「極限の、」

「そう言っていた。違うか」

「……」

「お前はここに残れば、腐る。お前はイルワクに必要とされた人間ではない。ここに残って何をする。何もできない。ただの客人のまま、お前は腐るんだ」

 わずかに蓮見は目を伏せた。数瞬。それくらいの時間。

「私は、お前を説得しに来たのではない。まして、お願いしに来たのでもない。ピクニックに誘いに来たのでもない。わかっているな」

 ベッドの上の蓮見は、再び顔を上げ、私をまっすぐに向いた。

「先任として命令しているんだ。私たちは原隊に復帰する。それだけだ。戻る気がないのなら、お前は脱走兵として処罰される。いまここで私が処刑してもいいんだ。敵前逃亡を図った部下を銃殺する権利を先任は持っている」

 むろん、帝国陸軍の歴史で、敵前逃亡を図った兵士を上官が即刻銃殺した例は一度もなかったが、務めて軍人らしい声音を作った。有無を言わせぬ上官からの命令と強制。イルワクの人々には存在しない言葉。命令と強制が、軍人である私たちの行動を支配している。そうしてこれまで私たちは行動してきた。

「蓮見、私は行く。非常呼集だと思え。外で待つ。編成完結まで五分だ」

 それだけ言うと、私は踵を返し、蓮見の返答を待たず、そして彼女の表情をうかがうこともなく、部屋を出た。戦闘靴は木の廊下でことさら大きな音がする。サーシャは、おそらく別の居室にいるのだろう。顔を出そうとはしなかった。ここの人々は、去ろうとする人間を追わないだろう。そして、留まろうとする人間を拒まないだろう。蓮見はどちらだろうか。彼女がここに留まることを選んだとしたら、私は部隊になんと報告するだろう。戦闘中に行方不明になった。その一言で済まされるだろうか。おそらく、部隊は彼女を捜索しない。高価な費用をかけて教育し訓練された一人の准尉を失うのはもちろん痛手には違いない。だが、それだけだ。特殊技能を持っているのはパイロットも同じだが、空軍とは違い、パイロットを救出するための専門の救難隊は陸軍にはない。敵の部隊に囚われた友軍兵士を救出する作戦を実施することはもちろんあるが、戦場で行方不明になる兵士は数知れない。一人一人を追跡し捜索し救出する手立てを、今の陸軍は取らない。消耗品扱いまではしないが、高価な戦闘機を操縦するパイロットほどには重宝されていないのが私たちなのだ。

 私は簡素な家を出た。

 草の匂いがした。

 空が青かった。

 小さな畑では何かの作物が芽吹いていた。ふと見渡すと、家々の煙突からは薄く煙が流れていた。ここは戦闘地域ではなかった。フル装備の自分の姿が、ふと、恐ろしく場違いで滑稽なように思えた。

 五分。

 夜中に非常呼集をかけられ、暗がりの中を手探りで装備品をかき集め、それでも助教にどやされない程度に身づくろいをし、宿舎の廊下に並んだ記憶が私の中でよみがえる。五分以内に装備を整えて整列しなければ、懲罰的な運動が待っていた教育隊の記憶。男女の区別などなかった。小柄な隊員、筋肉質の隊員。男女の性差はその程度に考慮されていたにすぎなかった。私は彼ら、彼女らに引けを取らない行動を心掛けていた。もとより、祖父に連れられて山野を巡ったおかげで、同世代の人間と比べれば足腰は格段に強かった。氷点下の森の中でビバークした経験は、苛烈な訓練でずいぶん役に立った。それは、銃を撃つことよりもずっと。私は祖父に戦士としての素質まで磨かれていたのかもしれない。けれど、祖父は私が戦士になることを本当に認めていたのだろうか。それを確かめたことはなかった。

 私の右手は、4726自動小銃の銃把に添えられている。人差し指は伸ばし、用心金の外に添えている。親指はセレクターレバーのそばにあり、いつでも安全装置を解除できる状態だ。肩から脇にまわした負紐は三点式で、素早く銃の重心を変えることで、速やかに射撃体勢を取ることができる。考えるよりも早く。身体が自動機械のように動くのは、まるで反射作用のようだ。だから考える必要がない。動けと命令する必要もなく、私は敵を倒すために据銃できる。

 五分。

 ドアが開く。

 蓮見。

 待っていた。

 そこにはぎこちなさも頼りなさもない、戦士としての装備をまとった蓮見がいた。

「入地准尉……」

「蓮見准尉」

 眦を決した表情。それがわずかに動いた。

 しかたないな、そんな風に。

 蓮見がよく見せた表情だ。

「編成、完結」

 私が言う。とりあえず、言ってみる。

「やめてくれ。教育隊を思い出すから」

 蓮見が笑いもせずに応えた。

「いいのか、残らないのか」

「残ってもいいの?」

「ダメだ」

「じゃあ、行くよ」

「お別れは済ませてきたか」

「サーシャと?」

「ほかにもいるのか」

「子供たち、」

「お前は子供に好かれるんだな」

「人懐っこいのさ。ここの子」

「イルワクの服、似合っていたよ」

「私もそう思う」

「柚辺尾の店でいくらでも買える」

「レプリカはいらないよ」

「本物さ。彼らの貴重な外貨獲得源だから」

「そうなの?」

「こう見えて、ここの連中は、案外したたかなんだよ。お前も外の血として獲得されるところだった。……本当に行っていいんだな」

「いいよ、」

「足の具合は、」

「完調じゃない」

「走っていくわけじゃない。休みながら行くさ。行こう」

 歩き出す。

 蓮見が続く。

 村を貫く『街道』を行く。

 簡素な家々を横目に。

 銃声。

 誰かが猟に出ている。

 シカイの家が見えた。別れの挨拶が必要だろうか。

 いらない。話すことはもうない。

 と、シカイの家の前に、あの少女が立っているのが見えた。彼女がこちらを向く。私はほんのわずかに立ち止まる。少女がそっと手を挙げた。私も、左手をそっと挙げた。

 別れ。

 挨拶は、このくらいでいいだろう。

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