第16話

   十六、



 その男と出会ったのは、イルワクの猟師村に滞在して七日が過ぎたころだ。私は平穏かつ起伏のない村の日々に耐えがたい安らぎを感じていた。安らいでいたのは事実だったが、危機感は募る一方だった。村に来て五日目に蓮見と会ったとき、危機感は確信となって私の背中を這いまわっていた。

主に危機感は夜、退屈を持て余し、ターニャの作った食事を食べ、ベッドに転がってからゆったりと這い上がってくる。長居は無用だと思ったが、実際、蓮見の足は強行軍をするには心もとない状況だった。まだ数日は必要だ。私たちが装備品として携帯するファーストエイドキットでは、簡単な止血や鎮痛はできても、傷そのものを回復させる機能はなかった。危機感だけが私を焦らせていた。そんなとき、私は彼に出会ったのだ。

 昼下がりだった。私は村内の細い道をただ歩いていた。ターニャの家にいても何もすることがない。かといって、招かれざる客である私には仕事もなく、ライフルを担いで森へ出かけていくセムピの後をついていくわけにもいかなかった。猟へ行かないかと誘われたことは確かにあったが、私は猟師ではなく、兵士であり戦士だった。猟師は自分の銃で狩りをする。私には自分の銃があったが、それはシカを撃つためのものではない。敵と戦うための銃であり、自分と部隊を守るための銃だ。無駄な弾薬など一発も携帯していなかったし、むしろ残弾数が心細かった。EMPダメージを受けたCIDSは、携帯ツール程度の工具では分解しても気休めにもならず、結局部隊本部はおろか、近傍に展開しているはずの友軍とも通信はできなかった。私は鬱屈していた。村娘と同じ格好をさせられ、しかし歩き方は村娘のそれではなく、軍人のそれだった。自分でもわかっていた。

「よう」

 男のほうから私に声をかけてきた。おおらかな気質のイルワクとはいえ、帝国陸軍の兵士であることは、もはや村中の人間全員が知っていた。だから、村人から気安く声をかけられることはほとんどなかった。例外は子供たちだけだ。そして、シカイの家にいた少女。彼女とは何度か道でであったが、まっすぐに澄んだ瞳を私に向け、言葉少なく、私について質問を投げかけてきたのだ。他愛もないこと。外の世界のこと。けれど、男は違った。野卑た、と形容しても差し支えない笑みを一瞬浮かべた彼は、やはりイルワク独特の衣装をまとい、顔の下半分は無精ひげに覆われていた。

「陸軍のどこの部隊だ」

 きれいな帝国の言葉だ。しかも、地方訛りがほとんどない。

「部隊とはぐれたのか。それとも逃げ出したのか」

 男は肩からやはりライフルを提げていた。この村で男のほとんどが銃を持ち、男たちの職業のほとんどは猟師だ。農夫もいたし、道具を修繕することを生業とする者もいたが、むしろ少数派で、この村の男たちはみな銃を持った狩人だった。

「さっさとこの村を出たほうがいいぞ」

 男は私の前に立ちふさがるようにして立つ。

「なぜ、」

「お前の相棒、あとひと月もここにいたら、二度と原隊に復帰なんかできなくなる。部隊に戻るどころか、帝国にも帰れなくなる。この村にはそういう力があるんだ。お前もそう思うから、そんな顔をしてうろついているんだろう。違うか」

 そうだった。

「相棒の足がまだ癒えない」

 私は彼に言う。粗野な風貌をしていたが、セムピやイメルとは雰囲気が違って見えた。そう……彼は、イルワクと……人種が違う。

「相棒を担いででもここを出るべきだな。できるだけ早く。いや、あんたがここに定住したいというなら俺は止めないが」

 男は歩きだした。だが、私に視線を向けてくる。ついて来い、目が言っている。

「あんたは、」

 私が問う。

「ショウキ」

「名前?」

「名前だ。あんたは、入地准尉といったな」

「よく知っている」

「村は狭いからな。あんたらが来た次の日には、俺の息子だってあんたらの名前を知っている」

「……あんた、イルワクじゃないのか」

「なんでそう思う」

「言葉」

「俺の言葉か」

「あんたは、イルワクの言葉を母語にしていない」

「そうだな。俺はイルワクの言葉も同盟の言葉もおぼつかない。俺は晩(ばん)翠(すい)の出だ」

「晩翠?」

 都野崎からさほど遠くない地方都市だ。

「あんた、どこの部隊だ」

 男は歩く。村を出る道だ。細くしっかりとした道が、茂みの向こうへまっすぐと続く。両脇は背の高い針葉樹林だ。

「あんたには関係ないよ」

「冷たいな」

「なんであんたはこの村にいるんだ」

 男の足取りはしっかりとしている。上体が揺れない。歩幅が一定だ。背筋が伸びている。気づけば私は彼と歩調を合わせている。それに違和感を覚えない。

「准尉、あんたと似たようなもんだ」

「私と?」

「俺は原隊に復帰し損ねたのさ。だから、俺は部隊にも国にも帰れない。帰ったら軍事法廷行きだ」

「あんた、……逃亡兵か」

「結果的に逃げたかもしれんが、あんたと同じだ。……俺の部隊は、全滅したのさ。森の中でな」

 やはり、と思った。歩き方、物腰、姿勢。猟師のものではない。よく訓練され教育された兵士のものだ。

「霧の中でわけもわからず歩き回った挙句、ここの連中に拾われたのさ」

「霧の中で、」

「ワタスゲの原の話、聞いたことがあるか」

 私たちは一定のペースで村から離れていく。兵士の足は速い。私は意識しない歩幅で歩いていたが、彼から遅れるわけでも、私が先行するわけでもない。身体にインプットされた一定のリズム。陸軍兵士の固有振動。

「知っているよな。北方戦域で戦う部隊の人間ならだれでも」

「あの世の入り口、そんな言われ方をしている」

「俺の部隊でも、よくその話が出たよ。迷い込んだら最後、二度と帰ってこられない場所のことだ」

「私は空軍のパイロットに聞いた。最初は」

「そうだな。俺も聞いたことがある。北の空で撃墜されて、気づいたら霧が渦巻くワタスゲの原。本当にそんな場所があるのかって、まあみんなで話をしていた。最前線に近づけば近づくほど、ワタスゲの原の話はいろんな部隊の奴から聞いた。でも、本当に見たという奴には会ったことがなかった。あんた、会ったことがあるのか」

「都野崎の軍病院で会ったよ。元空軍の戦闘機パイロットだ」

「どうやって生還したのかね」

「詳しくは聞かなかった。私は、ただ、そのパイロットが見聞きしたことに興味があったんだ。夢だったんじゃないか、あるいは、死地をかいくぐった者だけが見る、ある種の幻覚じゃないかって」

「俺もそう思っていたさ。『ニア・デス』って知ってるか」

「臨死体験」

「誰でも、死の淵では似たようなものを見る。天から降ってくる光、もうこの世にいない懐かしい奴らとの再会、恍惚」

「けれどそれは、私たちの頭が勝手に見せる幻想だ。夢だよ」

「そうだ。俺たちの脳みそには、そういう機能が備わっているってことだ。肉体も精神も限界に到達すると。麻薬だな。脳みそに自家製の強力な麻薬が流れ出て、気持ちよくなれるってわけだ。死ぬのが怖くなくなる」

「私もそう思っていた。北方戦域の『天国の入り口』の話」

 私たちの周りをしつこく蚊が飛び回る。が、私はセムピにもらった虫除けを露出した肌に塗っていた。森林戦ではこうした害虫対策も必要になる。戦闘装備の中に近いものはあったが、セムピのくれたイルワクの虫除けは、かすかに石油の臭いがしたがよく効いた。ショウキと名乗った男の身体からも、同じ臭いがした。

「天国なんてありゃしない。俺はずっと思っていた。天国なんてものを信じていたら、俺は軍隊になんて入らなかった。僧侶か聖職者になっていたな。俺の親戚には本物の僧侶がいたが、そいつは天国とは程遠い生活をしていたけど」

「私も天国なんて信じちゃいないよ」

「じゃあ、なぜわざわざ入院中のパイロットにまで話を聞いたんだ」

「私はその頃学生だった」

「あんた、医官か」

「准尉の医官がいるか」

「いないな。いいとこ衛生兵(メディック)だ」

「……私は『天国の入り口』を探したくて……、軍隊に入ったんだ」

 言うと、男は立ち止まり、私を振り向いき、目を大きく開いた。

「なんだって、」

「……私は『天国の入り口』を探しに来たんだ」

「わざわざそのためだけか」

「それだけではなかったけれど、……それに近い」

「あんたの所属はどこだ。俺と違って、あんたはまだ逃亡兵ではないんだろう」

「陸軍第五五派遣隊」

「なんだって?」

「陸軍第五五派遣隊だよ。チームD」

「おいおい、一般部隊じゃないとはな。それは俺もわからなかった。ハケンのエリートさんか」

「変人呼ばわりだろう、どうせ」

「俺は最後は第八〇師団の戦車大隊さ。あんたらハケンの噂はよく聞いた。噂だけな。あんたのお仲間には一度も会ったことはなかった」

「あんた、部隊を離れてどれくらい経つんだ」

「七年」

「七年? 」

「だから言ったろう。帰るきっかけを失っちまったのさ」

 男は再び歩き出す。冷たい空気に時折むっとする草いきれが混じる。季節は初夏だ。それを実感する匂いだ。今日は気温が高い。肌寒さは早朝に感じただけだった。

「あんたが仲間とはぐれた日は、ずいぶんと派手だったな。一週間くらい前だったか」

 足元は固く締った土。幾人もの足跡で踏み固められた道。この道はどこへ通じているのか。あるいはイルワクの世界をぐるぐる廻るだけなのか。

「戦況はどうなっているんだ」

 ショウキが歩きながら言う。

「あんたが現役だったころと変わっちゃいないと思うよ。一進一退さ。仕組まれているような気がしてくるくらいに」

「実際仕組まれているのさ。上の連中は、お互いにルールブックを眺めながら、次はどうする、次はこうだって、わかりきっているんだよ」

「そんな、」

「そう思わないか。戦域は椛武戸や同盟国の沿岸域に限定されてる。海峡の向こう……北洋州本島まで戦線が拡大したことはない。同盟軍の爆撃機が高泊や柚辺尾を爆撃したことがあるか? 前の大洋戦争じゃ都野崎の高射砲塔も火を噴いたそうだが、艦載機がうろうろしただけだ。爆撃機が飛んできたわけじゃない。都野崎が焼け野原になったか? ならないさ。俺はこの戦争が信じられなくなった」

「私は……北方戦役そのものに興味はない」

「……興味がないだって?」

「戦線がどうなろうが、私にはどうだっていい。私はワタスゲの原を見てみたかったんだ」

「さすが、ハケンの准尉ともなれば、奇特なもんだぜ」

 男は外套から煙草を取り出した。パッケージにロケットと犬がデザインされた煙草だった。北方会議同盟(ルーシ)連邦のブランドだ。それに派手な音を立ててオイルライターで火をつけた。

「たまには帝国の煙草が恋しくなるんだが、ここでは手に入らない。あんた、吸うか」

「私は吸わない」

「赤外線センサーも温度センサーも何にもないぜ、ここには」

「これは嗜好の問題だよ」

「そうだな」

「こっちの連中向けに葉っぱがブレンドされてるから、俺の口にはあんまし合わないんだよ」

 それでも男は歩きながらうまそうに煙を吐き出した。戦闘中はおろか、作戦行動中、喫煙は厳禁だ。なにより赤外線センサーに引っかかるし、非喫煙者ならば自明の、この強烈な臭い。たき火の匂いのほうがよほど鼻腔にやさしい。刺激的な煙草の煙の臭いは、敏感な人間なら半径百メートル以上先から感じ取れる。機械的に嗅覚を増幅させ、策敵に役立てるデバイスだってある。人間の脳では犬並みの嗅覚を持ったとしてもその匂いの成分を処理できないが、コンピューターはそれをやる。匂いで殺気を感じ取るのだ。

「で、なんの話だったか」

 歩きながら煙草を吸い、ショウキはそれでも歩幅を変えない。

「……さあ」

「『天国の入り口』の話だよな」

 私は彼と話しながら、南波のことを思い出していた。南波とも作戦中、とりとめもない話をした。記憶にも残らない話。話したということだけが記憶に残る話。

「ワタスゲの原。霧の世界。……あんた、通ってきたんだろう」

「どうしてそれを」

 蓮見と迷い込んだ草原。涸れることなく湧き出す霧。そして間隙の青空。

「俺も通ってきたからさ。わかったろう。ワタスゲの原は、実在する場所で、そこは『天国の入り口』なんかじゃなかったってことだ。野垂れ死ぬ奴が多いから、死に近い場所だって言われてるんだ。簡単なことだ。戦場では些細な噂が壮大な伝説になっちまうんだよ。俺はそれを身をもって体験した。あんたもだろう」

「ああ。……そうだな」

「関係ないが、あんた、若い女の子のくせにして、言葉遣いが凛々しすぎないか」

「気にしたこともない」

「もっと直截に言ってやる。あんた、言葉づかいが乱暴だ。かわいい顔して似合わないよ。それとも軍隊に入るとみんなこうなっちまうのかな」

「私は昔からこうだ」

「昔。昔か。あんた、長(シカイ)が言っていたように、猟師だったのか」

「違う。職業猟師じゃない。祖父が猟師だった。家には猟銃や罠があった。祖父に連れられて山に行った。それだけだよ」

「十分じゃないか。あんた、どこの生まれなんだ」

「柚辺尾」

「なんだ、北洋州か。ここと同じ自治域だ」

「ここは同盟国領だろう」

「どっちだって大した変りはないさ。もともとこのあたりはイルワクの土地だ。俺たちの帝国がかつて実効支配したこともない。どこにも属さない土地だったのさ。でも、いまどき、どこにも属さない土地なんてのは、世界が許さない。そういうことだろう? 同盟国は高度な自治権をイルワクに与えてる。同盟国の法の支配もここまでは及んでいない。だから、イルワクは徴発されないし徴兵もされない。街に下りたイルワクは、文明に触れて感激しちまって、そのまま同盟国同志になっちまう奴もいるらしいがな。たいそう優秀な兵士になるそうだ」

「わかる気がするよ」

「あんたも似たようなものなんだろう。小さい時分から銃に触れてりゃ、射撃の腕は俺以上だ」

「そんなことはない」

「俺は戦車兵だったんだ。砲手だよ。戦車砲は操れたが、ライフルの射撃は上達しなかった。そういや、あんた准尉か。ハケンは兵隊(・・)がいないってのは本当なんだな。敬礼しておこうか。准尉殿」

「やめてくれ。それに、私たち准尉階級は実質的な兵隊だ。私には指揮する部下もいないよ」

「あんたはいい目をしてるよ。俺なら部下になってもいい。けど、この村に拾われたのが運の尽きさ。歓迎されただろう。おばちゃんの家で」

「ターニャか」

「俺んときは別の奴だった。……田舎の親戚の家に来たみたいで、俺は一週間でもうすっかり原隊へ復帰する気持ちなんてなくなった。あんたもなんとなくわかるだろう。俺が思うに、一服盛られたのさ。あんたも薄々そう思ってるだろう。最初にこの村へ来たときの夜はおかしかった。

俺は戦車が好きだった。乗っているあいだ、自分の戦車が自分のものみたいに感じていた。わくわくしないか、陸上最強の兵器に乗れるんだぜ。いつだって俺は戦車に乗るのが楽しかった、いや、楽しいっていうのとは違うな。俺の仕事場だって感じてた。だから、自分の部隊が全滅しても、また軍に戻って再編成された戦車部隊で、今度は戦車長になりたいと思っていたんだ。この村に来る直前まで、本気で思ってた。それが、このざまよ」

「戻ればいいじゃないか、元の部隊に。……私と戻ろう。あんたは、作戦中に行方不明になっただけだ。そう主張すればいい。私が証人になる」

 言うと、ショウキは一瞬、ほんの一瞬だけ、表情を翳らせた。だが、すぐに前を向き直った。

「七年だぜ。七年。七年もこの村で暮らして、いまさら部隊に戻れるかよ。俺はもう、イルワクだ。帝も軍も関係ない。……ここには家族もいるんだ。俺は戻れない」

 自分に言い聞かすような口調。ポケットから煙草を取り出し、火をつけるが、その仕草が痛々しく見える。

「七年だ……」

「あんた、いくつなんだ」

「そういう准尉殿はおいくつですか。俺とたいして変わらんようにも見えるが」

「私は二八だ」

「おっと奇遇だな。俺は二九だ」

「私と戻ろう。……家族も連れて行けばいい」

「どうやって村を出るんだ。俺はただでさえよそ者なんだ。あからさまに監視されてるわけじゃないが、完全に仲間に入れてもらったわけじゃない。おかしな動きをしていたら、何をされるかわからないさ」

「……そうだ、私と蓮見を、村の外まで見送ると言えばいい。そうして、私と国境を越えれば」

「バカな。俺はまだ村では下っ端なんだ。軍ではようやく伍長だっだが、ここでは下の下さ。俺が帝国の戦士を村の外まで送り届けるだって? そういうのは、セムピの役目さ」

「……帰ろう、故郷(クニ)に」

「俺はイルワクだ。帰る故郷(クニ)は、あの村さ。……あんたもな、俺の言葉がわかるだろう。あのあんたの相棒を連れて、さっさと村を出るんだ。俺はそれを言いたかったんだ。ワタスゲの原から出られないのは、こういう理由だ。イルワクの村はあちこちにある。あんたも北洋州の出ならわかるだろう。椛武戸に住むイルワクは一万人だ。奴らは、器がばかでかいんだ。来る者は拒まずさ。ただし、仲間になるってことを条件にされる」

「そう、言われるのか」

「言われはしない。けれど、仲間になる気がない奴は、やんわりと追放される。イルワクの村は、同盟国の街からはえらく離れた辺鄙な場所にしかない。それにイルワクは移動手段を持たない。野垂れ死ぬだけさ。村から出てもな。あとは、元いた国で名乗っていた苗字を捨てさせられる」

「……あんた、何て名前だ」

「八田(やた)堀(ぼり)。八田堀捷(しょう)紀(き)だ」

 名乗った後、ショウキの表情が一層翳った。

「ひとつ教えてくれ。……イルワクには、あんたみたいな人間がほかにもいるのか」

「それは、俺の村に、ってことか。それとも、全体の話か」

「その口調だと、村にも、あんた以外にいるんだな」

「俺より後にはいない。帝国からはな。同盟からは二人ほどいたと思う。……猟で死んだよ。冬の猟は、生粋のイルワクでも死人が出るほどなんだ。よそ者には厳しい」

「そうか……」

 話はいったんそこで途切れた。

 それから一時間以上も私たちは歩いた。私たちの足ならば、村を出発してもう十キロ以上は歩いている計算だった。

 途中で、鉄道の線路を渡った。レールは錆だらけで、草むらに沈もうとしている。ショウキの話では、北方戦役の拡大で、もう何年も列車の姿は見ていないとのことだった。一四三五ミリ幅の線路は帝国の一般的な鉄路と同じ規格だ。情勢が落ち着けば、いずれここを、帝国と同盟を結ぶ国際列車が走るのだろう。だが、それまでの道のりは果てしなく険しいだろうし、傷んだ軌道を修復するのにまたどれくらいの時間と費用が掛かるか、私には想像もつかなかった。

 鉄道をすぎて半時間もしたころ、ショウキは道から外れ、灌木が生い茂る中を、しかし迷いもなく進んだ。

「あんたにプレゼントさ」

 やがて見えてきたのは、草でびっしりとおおわれた一両の戦車だった。

「俺の車さ」

 ショウキは戦車に近づき、愛しそうに車体に触れた。どこも被弾していないように見える。言うとおり彼の乗っていた車両だとするならば、当時配備されたばかりの最新鋭、九七式戦車だ。一二〇ミリ滑腔砲は油圧が抜けているためか、低く首を垂れるようにしている。だが、車体には錆ひとつない。陸軍の主力戦車は特殊装甲で全身を覆っている。過酷な環境でも車体そのものに細かなメンテナンスを要求しない仕様だ。

「生き残りは俺だけ。ほかの二人がどうなったかは訊くなよ。戦車は、歩兵からの肉薄戦に一番弱いんだ」

 敵の歩兵部隊に包囲され、やられたということだ。

「あんたに一番必要なものだろう」

 ショウキは砲塔によじ登り、中にもぐりこんだかと思うと、戦車クルー用のヘッドセットを私に掲げた。

「ハケンのあんたらが使っているのとは仕様もタイプも年式も違うだろうが、基本構造は同じだ。対EMPシールドに入っていた予備品だ。電源があれば使えるはずだが、あんたはこの中身だけあってもいいだろう」

 CIDS(シーディス)だった。

 私は彼からCIDSを受け取る。

 CIDS……戦闘情報ディスプレイシステム……は、兵科・部隊によって、仕様がかなり異なる。任務に特化した仕様になっているからだ。だから、戦車部隊のCIDSと、私たち第五五派遣隊が装備するCIDS……LLRR-525-KLSとはその仕様は違う。だが、端末としての基本構造は同じだ。問題は七年という時間を経ていることだが、ソフトウェアのバージョンやハードウェアの更新時期そのものの差を考慮しても、基本構造は変わらない。軍隊の装備品とはそういうものだ。ころころと仕様や構造を変更していたのでは、補給が複雑になりすぎ、かえって機能を低下させてしまうのだ。

「ありがとう、」

「あんたのCIDSは対EMPシールドが十分じゃなかったんだろう。こいつは違う。最前線の戦車部隊だからな。そうした備えもしているもんだ。動かないがな」

 電源は切れている。だが、ショウキの言うとおり、中身が無事なら、私のCIDSに主要部品を移植し、部分的な機能だけでも回復させることができるかもしれない。

 南波……。

 私は受け取ったCDISをしっかりとフェルトを織り込んだ外套の中に仕舞い込んだ。

「あとは、こいつかな」

 さらにショウキが取り出したのは、七.六二ミリライフル弾だった。ベルトリンクでつながっている。

「俺たちは4716だったから、予備はあんたの銃には使えないだろうが、同軸機銃は三〇口径だからな。使えるだろう」

 もちろんだ。

「同軸機銃で撃ちまくったところで、戦車砲の旋回速度より、人間がちょこまか動き回るスピードのほうが速いんだ。弾帯ひとつで五〇発……これくらいなら持っていけるよな」

 ありがたかった。

 私たちの4726自動小銃と同じ三〇口径……七.六二ミリ弾。私と蓮見の予備弾薬はすでにかなり少ない。もともと長期戦を考えた今回の装備ではなかったから、十分な弾薬は携帯していないのだこれだけあれば十分だ。

「言っておくぞ。……あんたは、すぐに村を出るんだ。あんたのあのかわいい相棒も、あの村にいたら、足がよくなる前にすっかり身体がイルワクになじんじまう。そうなったら、今度は心が村から出たがらなくなる。わかるよな」

「わかってる」

「そういうことだ。あんたは部隊に帰れ(・・・・・・・・・)」

 私はうなずく。

 シカイに言われた「故郷に帰れ」という言葉より、よっぽと私の心に届いた。


 私は村への道を一人で戻った。もらった七.六二ミリ弾は五十発ともなればかなりの重量だった。ベルトリンクにつながっているそれを、雑嚢も何も持っていない私は、時代遅れの分隊支援火器担当隊員のように、首から提げ、そして弾薬が目立たぬように外套の襟を立てるようにして歩いた。弾が場違いな首飾りのようにジャラジャラと揺れる。

 人目を避けるように村へ戻り、私はターニャの家の「自室」へ入ると、後ろ手でドアを閉め、大きく嘆息した。

 日は高い。この季節、午後八時を過ぎても日は沈まない。私はターニャが食事を整え始めた気配を感じながら、ベッドから降り、壁際の装備に手を伸ばした。まずは、ダンプポーチ。これまでの戦闘で使用済みになった空の弾倉が入れてある。首から下げたベルトリンクの五十発を床に置く。ゴロゴロと音がする。七.六二ミリ弾は弾頭から薬莢までを含めると一発といえども重量感がある。私は一発一発をベルトリンクから外し、リムを下にして床に並べた。

 気がかりだったのは、ショウキが私にくれた弾薬が生きているかということ。あの戦車は七年もの間、あの場所に擱座していた。弾薬にも鮮度がある。受け取ったはいいが、この弾薬が発砲できるのかどうかが心配だった。だが、それは杞憂かもしれないと思った。戦車は気密性が恐ろしく高いからだ。戦車砲のマズルブラストや、最前線で敵が使うかもしれない兵器から乗組員(クルー)を守るため。条約で禁止されているとはいえ、核兵器、生物化学兵器の類が使用されないとも限らない。軍隊はあらゆる可能性に備えなければならないのだ。そのため、戦車には高度な空調システムと気密性が備えられる。だから、ショウキに見せられた戦車の内部は、放棄されて七年の時を経ているとは思えないほどにきれいだった。

 私はショウキの気持ちと、九七式戦車の気密性を信じることにした。そう、これは弾薬の缶詰に入っていたのだ。きっと大丈夫。ショウキがくれたのだから。

 空になった弾倉を左手に持ち、弾頭を上に向けた七.六二ミリ弾を、一発ずつ、弾の状態を確かめるようにして弾倉へ籠めていく。錆も浮いていない。パチンパチンと小気味よい音がする。私は弾薬を弾倉や銃に籠めるこの音と手ごたえが好きだ。やはり祖父の手ほどきで銃を覚えたあのころを思い出す。

 すべての弾倉に弾薬を籠め、手のひらで弾倉側面を軽くたたき、中の弾薬の居住まいを多少そろえる。これで弾詰まりが起きないとは言えないわけだが、弾倉交換をする際など、兵士たちがみな行ういわばまじないのようなもの。

 なぜ私は戦うのか。

 なぜ私が銃を持ち、戦場で戦っているのか。

 シカイに問われた言葉が耳に蘇る。

 私は、帝国の戦略などどうでもよかった。部隊の動かし方は知識としては知っている。軍学校で兵棋演習も図上演習もやった。特殊作戦部隊に要求される任務は多種多様で、そのためにはあらゆる兵種、兵器の運用を知らなければならないからだ。

 だがそれが私の人生に必要か。

 必要だ、と自答する。

 生きるためだ。すべて、道具なのだ。

 けれど私が戦うのは帝国のためではなかった。結果的に帝国のためになっているだけだ。私も蓮見と同じなのだ。彼女はこのミッションに入るとき、言っていた。自分を極限状態に置きたくて、その状況を味わいたくて軍に入ったのだと。

 私は天国の入り口を見てみたかったのだ。

いや、それも違うと思った。私はまず柚辺尾から、北洋州から出たかった。そのために都野崎の大学に入学した。北洋州とは全く違った日常を手に入れることができた。だが、それだけだった。私は満たされることはなかった。だらだらとした日常は怠惰で心地よかったが、私はもっと別な世界を知りたかった。だから、あの元戦闘機乗りが話してくれた現(うつつ)と夢との「緩衝地帯」が本当にあるのなら、その場所を見てみたいと思った。そしてその場所は戦場にあるのだ。戦場に行くには軍隊に入るのが確実だった。そのうえ、さらに確実に北方戦域に投入されるのは一般部隊よりも特殊作戦部隊で、だから私は特殊作戦部隊を志願した。

 丹野美春は私が陸軍に入ることに最後まで反対した。担当だった南沢教授もそうだ。まったくの畑違いの世界に飛び込むことを理解してもらえなかった。

 だが、私は大学を卒業し、おとなしくどこかの企業に入り、指折り数えて休日を待ち、自費で天国の入り口を探す気にはなれなかったのだ。私の人生の設計図を考えたとき、積極的消去法で選ばれたのが陸軍の特殊作戦部隊だった。

 私企業の構成員になったところで、天国の入り口には近づけない。

 役人になっても同じだ。

 祖父のあとをついで猟師になったとしたらどうだろう。やはり現と夢の緩衝地帯を探すことは叶わなかったに違いない。森の中で自然と対峙し、命を落とすことがあったとしてもだ。

 天国に最も近い場所は戦場だ。命のやり取りが日常なのが戦場だ。そうした場所に、現と夢の緩衝地帯は存在する。

 戦場に近づくには、自ら戦闘に飛び込めばいい。

 戦闘を行うのは軍隊だ。兵士になれば必然的に戦場へ行けるのだ。

 南国の戦闘地域ではダメだった。

 砂漠の戦闘地域でもダメだ。

 そもそもそうした場所で繰り広げられている紛争に、帝国軍は関与していない。他国の戦争に加担しない閉鎖的外交を帝国はもう一世紀続けている。

 船の上でも、水の中でもいけない。

 戦闘機パイロットになることも考えた。私が最初に天国の入り口の話を聞いたのは、あの元空軍パイロットだった。丹野美春も、私が戦闘機乗りになるのだと説明すれば、その動機も理解してもらえたかもしれない。詩的な言葉を好む彼女になら、雲のずっと上には天国の入り口があるのだ、自分はそれを探しに行くために、誰よりも早く高く空を飛ぶことができる戦闘機に乗るのだと説明すれば。

 だが、戦闘機乗りは戦場を歩くわけではない。戦場の空を飛ぶだけだ。戦場を歩くとしたら、撃墜されたときだけ。私がインタビューしたパイロットのように。そしてそのとき、翼をもがれた戦闘機乗りは平常心を失い、自分の目で見、身体で体験した状況を自分で疑うようになる。そしてそれが伝聞されて、パイロットの間から他の兵科の隊員に伝わっていき、最後は伝説に落ち着くわけだ。

 私は伝説の語り部になるつもりはなく、ただ現場を歩きたかった。

 その世界を見るためには、敵の兵士を何百人斃(たお)してもいい。味方を何十人喪(うしな)っても構わない。私さえ無事ならば、私自身が現場の地を歩くことができれば、彼我の戦闘状況などどうでもよかった。

 極論だったが、私はそう考えているのだ。

 自分を生かすために、部隊を助ける。味方を何十人喪ってもいいと思ってはいるが、それでは戦場で生き残れない。私を生かすためには、周りも生かさなければならないのだ。そうして、いつか「緩衝地帯」を見つけるつもりだった。

 ここがそうなのだろうか、と思う。

 私は4726自動小銃を分解しながらふと手を止める。

 元空軍パイロットが迷い込んだワタスゲの原なら、私は歩いた。

 霧に巻かれ、前後左右の感覚すら奪われそうになりながら、あの冥府の入り口のようなワタスゲの原を歩いた。

 そしてここへ来た。

 ここが天国への入り口だというなら、シカイやセムピたちが天国の番人だとでもいうのか。違う。彼らはこの地に住む先住民族(イルワク)だ。帝国とは全く違う信仰を持ち、文化を持ち、伝統を持った異民族だ。天国のイメージもなにもかも、帝国で生まれ育った私とは違う認識があるだろう。

 私は村をさまよっていたあるとき、部族の墓地に迷い込んだ。集落を見下ろす、小高い丘に墓地はあった。死者となった彼らは天へ引き上げられるのではなく、死者の国から集落を見守るのだ。天からではなく、集落を見渡せる場所からだ。イルワクと私たちの生死観の違いがそこにある気がする。死んで去るか、死んでなお共に暮らすか。

 4726自動小銃の分解結合を終え、棹桿(コッキングレバー)を引く。精密な部品同士が噛み合う心地よい音がする。撃鉄がコックされ、引金が発射位置まで下がる。私は目を閉じて銃を取り、構える。ストックを肩付けし、目を開く。光学照準器(スコープ)の照準(サイト)が、右目の正面にピタリと位置していることを確認する。射撃の基本である「ボア・サイティング」だ。祖父からみっちり教え込まれたことだ。そして右手親指と人差し指の付け根で銃把を支えるように構え、用心金(トリガーガード)の外で伸ばしていた右手人差し指を引金に乗せる。このとき、引金は必ず人差し指第一関節より先の腹の部分で引く。関節部や第二関節の腹では引かない。引き金の遊びも調整してある。実家にしまってあるボルトアクションライフルほど細かい調整はできなかったが、引金を引いて時間差なく撃鉄が落ちるようにしてある。その調整には何日もかける。新隊員の教育中、銃にゴテゴテとアクセサリーのように取り付ける装備品の使い心地ばかりに気を取られる同期が多い中、私は銃を分解し、引金の作動部分を磨いたり調節したりに時間をかけたいと思った。それはなかなか叶わなかったが、助教からは別の意味で目を付けられたはずだ。余計なことはするなと言われながらも、銃の経験があるのかと二言目に訊かれた。第五五派遣隊では、装備品の調整や調達が一般部隊よりもかなり自由が利くため、自分の銃は自分好みに仕上げることができた。

 引金を引いてみる。

 少ない遊びでイメージ通りに撃鉄が落ちる。肩に反動が来ないのが寂しいくらいだ。

 一連の動きを終えて、私は大げさなほどに大きく息を吸い、吐いた。自分の心と身体を、取り戻せているだろうか。

 ターニャが私を呼んでいる。

 食事だ。

 ターニャには感謝していた。仮に、ショウキが言うように、一服盛られていたとしても。ターニャの視線や言葉に心を惑わす力が入っていたとしても。

 この村に初めて足を踏み入れたあの夜。

 私は消耗しきっていた。

 イルワクの力なのだろう。来た者を受け入れ、そして仲間にするための。そこに悪意はないに違いない。部族としての本能なのだ。何世代、何十世代と培われてきた能力だ。猟師に適性があるように、戦士に適性があるように、丹野美春が学者としての適性はあっても、決して戦士にはなれないように、ターニャは衰弱した人の心を素早く察知し、そして懐柔する手段に長けているだけなのだ。そういう能力が職業化されていても、もう今の私は不思議にも感じなかった。

 丹野美春に会いたいと思った。

 私の体験をすべて、文書のレポートに仕上げる前に、あの高射砲塔の下で、都野崎の紀元記念公園を歩きながら、桜の花を、暖かい春の風を全身に受けながら、話したいと思った。都野崎を離れ、陸軍に入隊し、今日までのことを。

 そのためには、この村を出るしかない。

 ターニャが私を呼んでいる。

 私は銃をもとに位置に戻す。

 そして、短く息を吐く。

 外はまだ十分に明るい。


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