第14話
十四、
銃をここまで重いと感じたことはいままでなかったように思う。
私たちは細く続く道を、セムピと名乗ったリーダー格の男を先頭に歩いた。霧はまだ私たちを包んでいた。時に濃く、時に渦巻き、しかし晴れない。しだいに現実感すら薄く頼りなく感じられてくる。空腹だった。思考能力の維持は最優先させなければならない。身体を動かすのは思考だ。思考と肉体は広義では不可分であると理解していながらも、肉体側の疲労が増していた。それは思考回路にも影響をおよぼし始めていた。
私たちは特殊作戦に従事する部隊として、陸軍の一般部隊とは比較にならない過酷、苛烈ともいえる訓練を受けている。選考過程では、もはや志願者を振るい落とすことこそが目的としか考えられないようなテストも受けた。思い出すだけで、泥や草木の臭いが鼻腔の奥に濃密によみがえるほどだ。目の前に一生かかっても使いきれない大金を積まれても二度とごめんだ。
一般部隊に所属していては絶対に受けることもできない、半ば常軌を逸した訓練を私たちの部隊は行っているのだと南波から教えられた。南波は一般部隊から第五五派遣隊を志願してきた選抜者だ。しかし、彼の口から、いったいどこの方面軍のどの師団のどの部隊に所属していたのかは一切聞いたことがなかった。口ぶりやふるまいからはどうやら歩兵部隊の出身らしいことが分かったが、詳細は分からない。そして、それを私が訊いたこともなかった。南波は不必要に私の情報を欲することもなかった。だから、作戦行動中に話した互いの『身の上話』の信ぴょう性も甚だ怪しいと私は思っていた。
セムピとイメルは古めかしいがどす黒いまでに使い込まれた木製ストックのライフルを肩から提げ、黙々と歩いていた。蓮見と私は、習性化してしまったのか、4726自動小銃を彼らのように肩から提げる気にならなかった。弾倉を抜き、薬室から弾薬を抜いているにもかかわらずだ。落ち着かないのだ。そう感じることがすでに精神が弱体化している証左だろう。
道は起伏に富んでいたが、たとえば登山道ほどに急峻な道のりでもなかった。なだらかに登ってはなだらかに下る。それの繰り返しだ。背の低い灌木と草原と見まがう草木が果てしないほどに続く丘陵を、ところどころに針葉樹林が顔を見せながら、道は続いていた。霧も雲もあたり一帯をモノトーンに沈み込ませていた。太陽の位置もよくわからなかった。時計を見る気分にならなかった。そもそも目的地までの距離がわからない。自位置を完全にロストしてどれくらいたっているだろうか。
蓮見の吐息が白く見えた。気温は確実に下がっている。私たちに先行する二人の猟師は一言も発しない。行軍しながらくだらない話で気を紛らわせる私と南波のようなことはしないのだろう。あるいは、音声による積極的コミュニケーションを必要としないのかもしれない。それは同盟軍の<THINK>という無粋なものではなく、音声化した言葉を必要としない関係なのだろう。姿勢が語る。しぐさが語る。そして、視線がものをいう。そうしたコミュニケーション能力ならば、私や蓮見にも備わっている。いや、備えられていると表現したほうが正しいだろう。それも苛烈な訓練中に培われていく。相棒(バディ)の表情一つ、動作ひとつでその時々の意思と意志と、そして感情を理解する。訓練を重ねていくと、人間も動物なのだとあるときふと気付かされる。言葉は個々の意思が具体的に情報化されたものだ。解釈に相対的度合いを含みこそすれ、大意は絶対的なものだ。そしてときに言葉は誤解を生む。言葉そのものに力があるからだ。拘束力と言い換えてもいい。言葉にはそうした力がある。文字でも、数字でも、異国の言語でも。紙に書かれた文字が強制力を持つ以上に、音声化された言語はさらに人間の思考を具体化させる。
翻って仕草はどうか。そう、雰囲気というやつだ。
普遍的なものではないし、絶対的なものでもない。しかし、価値観や経験や意思、行動規範を共にする団体にあって、しぐさがもつ信号の意味はある程度限定されてくるし、発信者の意図は言葉よりもより感覚的な情報として、受信者に伝わる。訓練と経験を重ねた者同士であれば、そこに誤解が錯誤が介在する可能性も低下する。今は沈黙しただの死重と化しているCIDSの表示機能には、しぐさを記号化したかのような表示がある。いつか南波に話した南洋の部族……音声言語をほとんど持たないハルマヘラ族の言葉のように、ディスプレイに表示される記号に、「情報の意思」が表現されるのだ。それは、相棒のしぐさひとつで戦況、感情、意思、疲労度その他を一瞬で脳が理解するのに近いのだろう。
蓮見の後ろ姿は揺れていた。もはや肉体的限界を超え、足の傷の痛みすら彼女は客観的に感じているに違いない。痛みは感じる。しかしそれを感情から分離する。痛みをコントロールする。痛いという感覚を、『感じないふり』でごまかす。痛みそのものを遮断する特定の麻酔効果よりも安全な方法だ。これは私たちは第五五派遣隊の医官たちによる施術で後天的に授かった機能だった。苦痛は感じるが、意識がその痛みを、あたかも他者のものであるかのように分離するというわけだ。それも医学的施術と訓練によって獲得される。
蓮見の大腿部の傷の具合はどうだろうか。幸いにして出血はかなり前に止まっているようだが、海軍の飛行機の畸形的輸送機に振り落とされ、着水の準備もない体勢で水面にたたきつけられ、傷を負い、体温を奪われてしまった蓮見の身体は、もはや限界をとっくに超えているのだ。それでも歩く。歩くしかないからだ。
一時間、二時間。
極北は夏至に向かって日没時間が遅くなっている。
空はまだ乳白色を保ち続けており、時間の経過を感じられるのは、私たちの吐息が白くなること……気温の低下だけだった。いつしか海の匂いも遠ざかっていた。
セムピもイメルも歩調をまるで変えずに歩き続けている。私たちを振り向くこともしなかった。彼らの背中に何らかのセンサーが取り付けられているかのようなふるまい。私たちがしっかりと追尾していることだけを感じながら進んでいるのだろう。
彼らの体臭が私まで届いてくる。それは、私にとって、やはり故郷を……柚辺尾の山野を思い出させるものだった。
山中で野営しながら獲物を追うことがあった。ユーリは片時も強力なマグナム弾を装填した回転式拳銃(リボルバー)を身体から離そうとしなかった。祖父はライフルをすぐに携えられる場所に置き、火を起こして食事の準備をした。十代の私は、うずくまるように、燃える焚火からやや離れた場所に座り、様々な匂いを嗅いでいた。
獲物を追ううえで、嗅覚が重要であることを祖父は言葉としぐさの両方で私に伝えてくれた。森の中で、草原で、祖父は動物がするように、顎を突き出すようにして鼻を開き、そして匂いを嗅いでいた。そのしぐさだけで十分だった。
山野には様々な匂いが渦巻いている。
草木。
水。
風。
天候。
雨の匂いなら、四季のはっきりした帝国で育った者ならだれでもわかるだろう。雨粒がまだ地面を濡らす前の、少し湿ったような風の中に、雨の匂いを嗅ぐ。北洋州では、そうした要素が本土よりも多種多様なのだ。
結局のところ、山野では人間も動物の一種なのだ。人工的な街に住むとその事実を忘れがちになる。そして、動物が本来持っている匂い……臭いを消しにかかる。
私はペパーミントの香りが好きだ。
ラベンダーの香りも好きだ。
都野崎の郊外、古風な集落の生け垣として咲いていたクチナシの香りも好きだ。
南波はガソリンの匂いが好きだといった。それ以上に戦場で嗅ぐ硝煙の匂いに興奮するのだといって笑っていた。
私たちは、都市で生活するうちに、生き物としての人間が持つ匂いを、他の匂いで消してしまうことを覚えた。あるいは人間がか弱い存在だった進化の過程で、自らの臭いを消すのは、生存するうえで大切なことだったのかもしれない。進化の過程で失った鋭敏な嗅覚を補うために、誰でも感知できるレベルの人工的な匂いをまとうことを覚えたのかもしれない。しかし、生き物としての……動物としての臭いを忌避するようになったのは間違いない。
祖父には体臭があった。
身体に染みついた弾薬の、硝煙の臭いだったり、年配の男性が持つ、どこか安心感を抱かせる匂いだったりした。
が、もっともほかの男たちと違っていたのは、祖父からは紛うことなき獣の臭いが漂っていたことだった。獲物の臭いではない。人間が本来持っていたであろう、動物としての臭いだ。そしてそれは私は不快に感じなかった。
山野でそれは獲物を追ううえで有効に働いた。嗅覚が衰えた私たち向けに調合された人工的な匂いは、山野の獣たちにとってマーカー以外の何物でもなかった。目立つのだ。夜戦で曳光弾をばら撒くがごとくだ。
泊りがけで獲物を追うとき、私たちはテントで寝泊まりし、水浴びもしなかった。次第に臭いは強くなる。けれどあの頃の私はそれを不快に感じなかったのだ。
猟師の臭い。いや、「匂い」だ。
殺気、と置き換えてもよかったかもしれないが、けれどややニュアンスが違うように思う。同化、それなら近いかもしれない。
祖父からは猟師の匂いがした。いや、獣と戦う動物(・・・・・・)の匂いだ。
そして祖父は多くを声に出した言葉で語ることはしなかった。
鋭い叱責を受けたのは、あの日、私が子連れのシカを撃とうとしたときだけだ。
すべて、祖父はしぐさで語った。視線で、吐息で、そして、銃で。
いま、私は可能な限りの機能性を追求した装備をまとい、精度、耐久性、機能性を評価されつくした自動小銃を持ち、故郷を思い起こさせる風景の中、古から猟で暮らしてきた本物の猟師の後ろを歩いている。
彼らから漂ってくるのは、祖父と同じ匂いだった。
風の中で、声を聴いた気がした。私は歩を進めることにほぼすべての意識を集中させていたのだと思う。なぜこんなに疲労感があるのか。海軍の化け物輸送機から脱出してたかだか一昼夜だ。この程度で意識が朦朧としてくるのはなぜなのだ。ときに自問しながら、私はパーティの最後尾を歩いていた。
声は、蓮見のものだった。
瞬間的に私は意識を拡大させた。歩を進めることだけに集中していた意識を、他へ向けなおした。
蓮見がいなかった。
気づいたのだろう、先頭のセムピ、二番手のイメル、二人とも振り向いていた。
蓮見は細く続く道から外れ、茂みに倒れこんでいた。
「蓮見、」
駆け寄った。
荒い息をしていた。また熱発があったのか、彼女の額にはびっしりと汗が浮いていた。抱き起す前に、蓮見の身体に私は触れた。まず足だ。負傷している左足ではなく、私は彼女の右足に触れた。
蓮見の右足は、大腿部から脛にかけて、こちらが負傷しているかのように筋肉がひどくむくんでいた。負傷した左足に大きな負担をかけられないため、無事な右足が必要以上に負担を強いられた。結果、体力も大きく消耗することになる。
蓮見はもう歩けない。少なくとも、左足を根本的に治療するか、数日の休養を経なければ、作戦行動はおろか、通常の歩行すらままならない状況だ。
見て、それがわかっているのだろう。パーティの先頭を歩いていたセムピが、じっと表情のない目で蓮見を見下ろしていた。イメルはいまいましそうな表情を隠そうともしない。彼に意見を求めたなら、答えはわかりきっている。だから私は先手を打つことにした。
「私が連れて行く。文句ないだろう」
片膝をついた姿勢から、両膝を茂みに下ろし、私は蓮見の背中に腕を入れ、抱き起した。蓮見は薄く目を開いているが、焦点が定まらない。どこを見ているのかわからない。視線もほとんど動いていなかった。ただ、呼吸が荒い。銃から手を離さないのは、戦士としての最後の意地か。
「あんた、正気か」
セムピが言う。低い声だった。
「置いていけない。この子は私の相棒だ」
まっすぐ私はセムピを見据えた。
「無理だ。あんたには。いまでもやっとの顔をしている。それはあんた自身がいちばんわかっているはずだ。その子を抱えて歩くなんて、無理だ」
わかっていた。
蓮見を負い、装備も二人分、それでこの道を国境まで歩きとおすことは不可能だと。
しかし、彼女をここに置き去りにすることもできなければ、私と蓮見がこの場所でビバークする選択肢もないように思えた。ここは原野だ。私たちの個人装備には、応急救護キットは入っていても、体力を根本から改善させてくれるようなツールも薬品も入っていない。戦闘機の射出座席に同梱されている程度の非常食しかない。長期的な作戦を考慮していなかったからだ。移動するしかない。多少の時間をここで休養したとしても、いずれは動かなければならない。できるだけ早く。原隊に復帰するためにも。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。長い時間ではなかったはずだ。にらみ合いに等しいほどの視線が、私とセムピの間で交わされた。けれど、彼の視線に私は不思議なことにあからさまな敵意を感じることはなかった。いらだちを隠そうともしないイメルの表情にも、感じるほどの敵意はないように思えた。
「……」
セムピが私から視線を外し、かたわらのイメルに何か言った。私たちの言葉でもなく、北方会議同盟(ルーシ)連邦の言葉でもない、彼らの言葉で。
「……!」
イメルが鋭く言い返した。彼らの言葉で。
私は彼らイルワク族の言葉がわからない。椛武戸から大陸沿岸域にかけて広く居住する民。私の故郷の北洋州に先史時代から住む先住民族と共通の祖先と、近い文化と、ほぼ同じ文法体系を持つ言語を操る彼ら。帝国の文化や言葉とは明らかに違うそれを持った彼ら。北緯五十度の国境線から北側に分布しているが、彼らは北方会議同盟国の国民ではない。人種も文化も何もかもが違う。彼らが私たちに言ったとおり、帝国の人間でも同盟連邦の人間でもなかった。
「……」
セムピとイメルは数度言葉を交わしていた。セムピは低く、抑揚も抑え、冷静に、あたかも上官が部下に命令を伝えるように。イメルはセムピのそうした言葉一つ一つに反発し、言い返していた。私は言葉を挟まずに、その様子をじっと見た。
そして、セムピが私に向き直った。
「俺は、あんたたちの味方をするわけではない。こいつが言ったとおり、あんたたちがやってる戦争にははたはた迷惑している。獲物を探して来てみたはいいが、案の定だ。あんたらがごちゃごちゃやったせいで、なにもいなくなった。
俺たちはさっさとあんたらを追い帰したいんだ。自分の国へ帰れ。だから仕方なく、あんたらがあんたらの国にさっさと帰れる手助けをするだけだ。いいな」
「わかっている」
「この娘は、イメルが連れて行く。こいつは俺よりもずっと力があるからな。猟に出かけて獲物を背負って帰るのはこいつの役目だ」
イメルはこれ見よがしに大きなため息をついて見せ、そして蓮見のかたわらへしゃがみこんだ。
「解体しないだけありがたいと思え」
私を見ようともせず、イメルが言った。すねたような口ぶりだったが、やはり敵意らしい敵意は感じない。
「シカに比べたら軽いもんだ。こんな小娘。……銃を離せ。背負えない。その重たい背嚢もいらん」
私は蓮見のバックパックのバックルを外した。予備弾倉のポーチと、彼女の4726自動小銃も受け取った。
イメルは蓮見の背中に腕を回し、そのまま担ぎ上げるようにして自分の背に載せた。
「お嬢ちゃん。俺の首に腕を回せ。言ってることはわかるな」
蓮見は薄目を開いたまま、イメルの言にしたがい、腕を彼の首に回した。装備を外した蓮見は華奢だった。
「この娘の荷物は、あんたが持っていくのか。どうせならここに捨てていけ」
セムピが言うが、私は返事をせず、蓮見のバッグパックと銃を肩にかけた。予備弾倉は私の弾倉入れに入れた。
「行くぞ。こいつは足が強いからな。こんな小娘一人分背負ったところで、歩く速さにいくらも関係ない。いいな」
セムピは蓮見を背負うために解いたイメルの荷物を担ぎ、歩き始めた。蓮見を背負ったイメルが続いた。私は重みを盛大に増した装備をいやでも意識しながら、しかし、歩くのだ、とそれを上回る意識付けを行い、彼らに続いた。
装備を捨てるわけにはいかない。国境まではまだ距離があるのだから。
二人の猟師は、私に脅しめいたことを言ってきたが、しかし歩くことにかけては決して無理はしなかった。それから一時間程度歩くと、小休止を取った。
彼らは言うとおりに足が強かった。セムピはイメルの銃と弾薬と雑嚢を、イメルは蓮見を背負い、それでも私たちの作戦行動時の歩行速度に匹敵するスピードで歩いた。私の背で、蓮見の装備と銃が重かった。彼らから脱落しそうになった。が、ついていった。私は蓮見の背を追ったのだ。
かわりばえのしない風景もまた、精神的にはつらい。何十分、何時間歩いても、風景はほとんど変わらず、霧も晴れなかった。自分がどこにいるのかもわからず、頼りになるのは、二人のたくましい猟師の足取りだけ。霧の中で見え隠れする樹林は黒々としていて、私は小さな木立に敵の自走砲が潜んでいるのではないかと、時折抑えきれないほどの恐怖をなんとかなだめて歩いた。それでも実際、はるか稜線あたりに、擱座し捨てられた戦闘車両や、まるで十字架のように水平尾翼と垂直尾翼を空へ向けて逆立ちした航空機の残骸が見え隠れし、いまだ私たちが前線にいるのだと実感した。
動物たちの姿はほとんど見えなかったが、一度だけ、濃い霧のずっと向こうに、ずんぐりとしたシルエットが見えた。最初に気づいたのは、先頭を行くセムピだった。
「山の神様(キムンカムイ)だな」
さすがにセムピは警戒し、ライフルのボルトを引いて、薬室に弾を籠めた。だが、据銃はしなかった。セムピの言葉は私でも分かった。クマだ。
しばらくその場でセムピはシルエットを向いてじっと様子をうかがっていた。距離は三〇〇メートル以上あったろう。ずんぐりとしたシルエットは、北洋州から椛武戸の森林や山地に生息し、銃を持った人間以外に天敵を持たない食物連鎖の頂点に君臨する大型のクマだった。
クマはじっと私たちを向いていた。
動く様子もなかった。あちらも私たちを警戒しているのだ。
クマはよほどのことがなければ、自ら人間に近寄ってくることはない。生き物としての性能(・・)は人間とは段違いで、道具を持たない人間がクマを察知するはるか以前に、クマは人間に気づく。開けた場所で人間が先に彼らを発見することはまずないといっていい。気を付けなければならないのは、森の中での不期遭遇だった。素手で勝てる相手ではなく、また、こちらが逃げようとしたところで、走って逃げ切れる相手でもない。祖父とともに山を歩いていたユーリがマグナム弾を装填したリボルバーを持っていたのはそうした場合に使用するためだ。もっとも、ユーリは祖父と私と三人で山を巡って一度たりともリボルバーを抜いたことはなかったが。
「なにもしない。見ているだけだ。……クマがめずらしいか。行くぞ」
セムピが言う。
クマはまだ稜線から私たちをうかがっている。と、さらに小さなシルエットが二つ、大きなシルエットに駆け寄った。
「親子連れだ。警戒しているんだ。こちらから立ち去ればなにもしてこない。下手な動くをするなよ。子連れの母グマはやっかいだからな」
「わかってる」
セムピはまた歩き出した。霧が巻き、親子連れのクマの姿をかき消した。あたりは薄暗くなり始めていた。
「暗くなってきたな」
イメルが言った。蓮見を背負い歩いているが、息遣いがまったく変わらない。たいした体力だと私は正直に感心した。当の蓮見は背で揺られて半分眠っているようだ。それでいい。眠れば体力も多少は戻る。
「行くぞ、お嬢ちゃん」
セムピは私をそう呼んだが、侮蔑的な響きは感じられなかった。それは敵意のなさと同じに、彼が持つ独特の雰囲気なのだった。
あたりは薄暗くなったと感じると、急激に光を失いはじめていた。太陽が沈んだのだ。風はほとんどなかったが、気温はそうとうに低くなってきていた。かわりばえのしなかった風景が多少変化したのはこのころで、続いていた原野は、低い木々がまばらに生える林になり、そして針葉樹と広葉樹の混じる森になった。そう、今回の作戦を始めたときに歩いた森のような。
「もうすぐだ。もうすぐ、俺の村だ」
何かが燃える匂いが鼻に届いた。木が燃える匂いだ。焚火の類ではなく、これはストーブの排煙に違いない。そう思ううち、道は茂みを回り込むようにカーブし、その先に小さな裸電球の街灯が点っているのが見えた。
「ここだ」
村の入り口がそのカーブだったのだろう。セムピは立ち止まり、私を振り向き、言った。
村は紺色に染まった木々と、青く沈み始めた空の下にあった。気づけば霧はやや薄くなっていた。木製の電柱が立っており、そこに白熱球式の街灯が点っている。ぼんやりと弱い光だ。指向性のやたらと強いダイオードの街灯に慣れた私の目には、暖かく優しく見える。
「セムピ!」
鋭く誰かが呼ぶ声が耳を打つ。大きめのフェルトの上着を着た子供が小道から転び出るように駆け寄ってきた。年のころ、五歳前後だろう。髪は肩まで伸びており、男の子なのか女の子なのか、容姿からも声からも判別できない。そして私にとっては、ずいぶん久しぶりに出会う子供だった。いや、八九式支援戦闘機に破壊しつくされた縫高町にも子供はいたに違いない。瓦礫の山と化した家屋に、学童用のカバンや人形が散らばっていたのをふと思い出し、私はいやな気持ちになった。
「キロール(・・・・)、ただいま」
セムピは私がぎょっとするほどにやさしい声で答えた。背の雑嚢の居所を正すように背負いなおすと、ライフルを提げていない右手で、駆け寄ってきた子供の頭を撫でた。無骨で道具のような手のひらだった。
「セムピ、お帰り」
セムピを見上げる子供の目がきょろりと動き、彼らに続いて村に足を踏み入れようとしている私を向いた。
「セムピ?」
「お客さんだ、キロール」
キロールとは子どもの名前なのだろう。呼ばれた子供は、子犬が闖入者に向けるような視線を、まったく遠慮なく私に向ける。
「……兵隊さん」
キロールが訝るように言う。
「……帝国の、……戦士だよ、キロール」
セムピが答える。
戦士。
セムピはそう言った。兵士でも兵隊でもなく、戦士、と。
「兄貴、」
蓮見を背負って微動だにしないイメルがセムピに低い声音で言う。言外に、私たちを本当に村へ入れていいのか、確認している口調だ。
「いいんだ、イメル。……イリチ准尉、」
うなずく。
「トモ、でもいいか。俺たちは苗字を持たない。あんたのことを呼ぶなら、名前のほうがいいだろう」
「兄貴、」
「イメル、いいんだ。俺があずかる」
「預かるって、」
「トモ、」
セムピが私に言う。
「このまま南へあと三時間も歩けば国境だ。あんたらの言うな。行くなら止めない。好きにするがいいさ。だが、俺の見たところ、あんたは国境にはたどりつけないだろう。行き倒れがいいところだ。ずいぶん頑張ったようだが、俺のささやかな好意だ。村で休むなら休んでいっていい」
蓮見が薄目を開いていた。キロールと呼ばれた子供の目と比べて、なんと力のないことか。セムピの言ったとおりだった。私以上に、蓮見はもはやこの村から歩いて出ることもできないだろう。国境など、問題外だ。
「この娘さんはあんたどころじゃないな。足もひどく腫れてる。悪いことは言わん。休んでいけ。いま休まなければ、二度と歩けない足になるかもしれん。この村に医者はいない。だが食事と休む場所は貸してやる。癒えるまでだ。ただし、癒えたらすぐに出て行ってくれ。間違っても、俺たちはあんたらを歓迎するつもりはない。さっさと消えてほしいから、休めと言っているんだ」
「……ありがとう」
「礼を言われる筋合いもないさ。……キロール、……」
セムピはキロールを向き、低く早口で何事かを伝えた。それは彼らの言葉だった。私には意味が分からない。
彼らイルワクはシェルコヴニコフ海沿岸域に広範囲に分布している。文明化された部族もあれば、古からの暮らしをそのまま守っている部族もある。北洋州出身ならば「イルワク」が彼らの言葉で「兄弟」を意味していることも学校で習う。そして彼らが共通の文字を持たないことも。言葉は口頭で伝承される。ただ、近代になって、外界である私たちの帝国や同盟国との交易を行う上での不自由を解消するため、文化圏が近いほうの国の言葉を取り入れた部族が多い。母語はイルワクの言葉でも、バイリンガル、トリリンガルは少なくないという。生きるための道具として、言葉を使っているのだろう。里者と交易をして収入を得る部族もまた多いからだ。
「トモ、」
セムピが再び私を向く。
「とりあえず長(おさ)のところへ案内する。お前たちは名乗る必要はないし、余計なことは一切言わなくていい。俺が説明する。多少なりとも俺を信用するなら、黙っていろ。いいか」
「わかった」
立ち止まっていた私たちは、またセムピを先頭に村へと進んだ。
彼らの家々は高泊の郊外に見られる開拓者たちの住居によく似た、丸太を組み合わせた家だ。一軒一軒は小ぢんまりとしており、いずれも平屋建てだった。私が柚辺尾の初等科学校の副教材で見た、藁や束ねた枝で棟上げした家(チセ)はいまでは一般的ではないのだろう。現代の帝国の民家が、中世のように瓦と紙と木で作られていないのと同じだ。
ぞれぞれの軒先に、狭い畑があった。それ以外に目立った大きな建造物は何もなく、集落はおよそ二十戸あるかないか、その程度に見える。私は、同盟軍のパイロット保養施設の光景をよみがえらせる。いま思い出すと、あの村はあまりに出来すぎていた。眼前の猟師村と比べるまでもなく、人の営みの匂いがまったくしなかった。あの村に突入する前に感じた訝しさはそれだったのだ。
私たちが出会い、そしてここで歩いてきた道は、村の中心部を貫いている。これは彼らイルワクにとっての街道なのだろう。一本たくましく続く道。村を貫き、道は起伏をなぞって、そのまま霧と闇の中へ消えていた。このまま国境まで続いているのか。おそらくそうなのだろう。
「トモ、こっちだ」
セムピ、イメル、蓮見、私の順で、道沿いのとある家に向かう。やや窓の飾りが華やかで、扉も立派なものが取り付けられているが、家そのものがほかより極端に大きいわけではなかった。これが「長」の住居なのだろう。
「ここで待っていろ。俺が行く」
セムピは背から雑嚢を降ろし、ライフルも家の玄関横に立てかけた。イメルは蓮見を背負ったまま、立っている。イメルの呼吸は規則正しく、汗もかいていない。恐ろしい体力だと思った。そしてイメルの背で、蓮見は目覚めていた。
「……姉さん、ここは」
か細い声。風が枝で鳴るような。
「猟師の……イルワクの村だ。……大丈夫だ」
「イルワクの……」
「敵(ルーシ)の捕虜になったわけではない。……大丈夫だ」
言ってはみたが、私にその確証があるわけではない。たとえば敵がこの村を勢力下に置いており、一小隊、いや一分隊でもとどまっていたとしたら。が、半日近くの道程を共にしてきたセムピの振る舞いに、偽りはないように思えた。なにより、道中、私たちに鋭い言葉を撃ちこんでも、物理的に危害を加える気配はなかった。友好的な態度を一切取ってこなかったイメルでさえもそうだった。黙って異国の軍人を、それも少女と見まがう容貌の蓮見を背負ってここまで歩いてきてくれたのだ。彼らに感謝こそすれ、敵対する意思は、もはや私の中にはかけらほどもなかった。
扉の中に消えたセムピは、ものの五分もせずに戻ってきた。そして、彼の背後には、豊かな髭を蓄えた、がっしりした長躯の男が立っていた。
「シカイ(・・・)だ、この村の長だ」
壁に立てかけていたライフルを再び肩にかけ、セムピが言う。
「帝国の戦士か。……よく来たな。『武運長久を』とはいかなかった様子だ」
帝国軍であいさつ代わりに使われる言葉を、シカイと呼ばれた壮年の男は、揶揄する風でもなく口にした。
「トモ、です」
私は4726自動小銃二挺を肩から提げたままなのに気づき、あわててそれを降ろした。
「帝国の戦士。それはお前の生きるための道具だろう。地面になど置くな。そのままでいい」
シカイの目は獣のような力がたぎっていた。まっすぐ視線を合わすと射抜かれる。そして、私は彼の目に類する視線を、幾度となく見てきたことを思い出す。祖父の仲間たち。柚辺尾の近郊にわずかに残った職業猟師(ハンター)たちの目だ。
祖父は陸軍の狙撃兵(スナイパー)だった。出自はもともと猟師ではなかった。冷徹な視線は、狙撃兵の視線。猟師の視線はまさに、部族長シカイがたぎらせているこの眼力だった。
「女の戦士か。たいしたものだな」
シカイは戸口から私たちに歩み寄ってくる。
「こんな子供まで戦争に加わっているとはな。女子供を戦場に投入するのは感心しないな。帝国の先行きも思いやられるようだ」
イメルに負われた蓮見を見、シカイは鷹揚に首を振ってみせた。
「シカイ、この娘はあなたが思うほどに幼くはないようだよ。このトモと十も違わないそうだ」
セムピが言う。
「女子供が銃を持って戦うのか。お前の帝国では」
シカイはセムピの言葉を受け流し、私に問う。
「戦うのは軍人だけだ。女子供は家にいる」
「だがお前は女だ。なぜここにいる」
「戦うためだ。志願してきた」
余計なことは言うなとセムピに言われていたが、私はシカイの言葉に刺激されるようにして話していた。そういう力があるのだ。彼の言葉には。
「お前の齢は」
「……二八」
「若いな。だが、兵隊ならば年寄りだ。お前の軍隊での階級とやらはなんだ」
「准尉」
「部下はいるのか」
「いない」
「いないのか。なぜだ。『准尉』には部下がいるのではないのか。お前は兵隊ではないのだろう」
「私は……戦士だ。部下はいない。私の部隊は、全員が戦士だ」
できるだけ腹から声を出す。そうしないと、彼の前にひれ伏してしまいそうだ。いや、肉食獣に狙いを定められた草食獣のような。いや、それも違う。猟師に追われる獲物。それしか考えられない。
「見慣れぬ風体だからな。そうか、お前は戦士か。自分で言うとはな。たいしたものだ」
シカイは言うと、すさまじく凄味のある笑みを漏らした。不敵。大胆。豪胆。
「この娘はお前の部下ではないのだな?」
イメルの背で細く呼吸する蓮見を一瞥し、私に言う。
「この娘の名前は」
「……ユハ」
「ユハ。この娘の階級はなんだ」
「准尉」
「おまえと同じか。けれど、お前が年長の分、お前が指揮官なのだろう。違うか」
確かに先任は私だ。
「そうだ」
「お前たちのリーダーはどこだ」
「はぐれた」
「全員が同じ階級か」
「違う。リーダーは少尉だ」
南波。奴がここにいたら。いや、そもそも南波が私たち共にいたなら、この村へ来ることはなかったかもしれない。いささかの逡巡も許さない性格。南波。早く、彼と合流しなければ。
「少尉がリーダーか。お前は准尉。……どういう基準で階級は作られるんだ。武勲を上げるのか。それとも、勉強ができる人間が上に立つのか」
「どちらも必要だ」
「お前たちは不思議だな」
シカイはまた笑った。
「ひとまず、お前たちは私たちの村に入った。立っているのもやっとのお前と、立つこともできないこの娘と、それを村の外へ放り出すほど、私たちは掟破りではないからな。もっとも、掟もなにもかもそっちのけで、森も草原も海もなにもかもをめちゃくちゃにしているのはお前たちと北方会議同盟(ルーシ)連邦の側だが」
何も言えない。そのとおりだからだ。
「歓迎はしない」
シカイはセムピと同じことを言う。
「だが、癒えるまではここにいていい。それは許す。お前たちは仲間とはぐれた。そうだな」
私はうなずく。
「そのお前の銃やお前の背中や腰にたくさんつけている機械は、いまは使えないそうだな」
うなずく。
「よかろう」
大仰な言い方だが、不自然に聞こえない。
「期限は区切らん。癒えるまでここにいろ。セムピ、ターニャの家へ連れて行け。この娘は、サーシャの家だ」
「わかった」
「トモ」
シカイが私を向く。
「……それが戦士の目か」
答えに戸惑う。私の目?
「お前の目は、悪くない。私たちから見てもな。同じような色があるようだ」
シカイはそれだけ言って短く笑うと、踵を返し、扉の向こうへ消えた。
「トモ、」
セムピが呼んだ。
私はシカイが消えた扉をまだ見つめていた。
私の目。
戦士の目?
久しく自分の目など、私は見ていなかった。
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