第13話
十三、
世界が二分されている。
青と、白だ。
あたりは平坦でほとんど起伏がなかった。そこを、霧が風に乗って流れていく。私たちはそのただ中にいた。
ワタスゲだ。
初夏、北洋州から椛武戸にかけての低湿地などに群生する白い花。
それは夢の光景に近かった。私自身が見た夢ではなく、北方戦役で空から墜ちたパイロットたちが見た夢と同じ光景だ。
霧が晴れていく。
私は立ち上がっていた。狙撃の心配も、敵機甲部隊への警戒も、いっさいを忘れていた。
いつの間にか、私と蓮見は、広大な草原に足を踏み入れていた。あたりに樹木らしい樹木もなく、ワタスゲのほかに見えるのは、塗り込めたように青い空と、漂う雲。そして擱座した戦車。
戦車の残骸が、一面のワタスゲの原に点在していた。昨夜の戦闘で撃破された車両だけではなかった。むしろ、新しい車体はほとんど見えない。みな、錆をまとい、車体を隠さんばかりに生長しつつある草に囲まれている。風が吹くと、水面のようにワタスゲの波が広がった。高山で見るように、空に漂う雲は目にまぶしいほどに白く、空はパレットから溶いてそのまま塗ったかのように青かった。ワタスゲだけならば、北洋州出身の私にとってめずらしいものではなかったが、それにしても規模が大きかった。そして、生き物の死骸のようにうずくまる戦車の残骸の姿だけが異様で、まるで気の狂った反戦画家が描いた巨大な絵のように見える。ようするに現実感に乏しい風景に私たちは迷い込んでいたのだ。ああ、空軍のパイロットたちのあいだで話されている場所だ。私は思いいたる。ここが、パイロットたちが撃墜されて迷い込む冥府の入口なのだ。私も蓮見も、歩を止めていた。
「蓮見……」
口から出た私の声はかすれていた。
「姉さん、」
見ると蓮見の顔はひどく汚れていた。硝煙、泥、汗。私も同じようなものだろう。ワタスゲが陽を照り返して、戦闘の汚れをさらに際立たせていた。そして、私たちがまとう最新の戦闘装備が明らかに場違いだった。そうだ、夢の都野崎に軍の装備のまま迷い込んだときの違和感のようだ。
「ここは……これは……」
蓮見がつぶやいた。
「わからない」
「敵は……」
「いない」
私も蓮見も、4726自動小銃を据銃することすら忘れていた。風の音がする。風がワタスゲを揺らし、さざ波のような音を立てていた。
「パイロットの夢の話、したことがあったか、」
私は言う。
「パイロットの夢? さっきの続き?」
「いや、北方戦役で、行方不明になったパイロットたちの話だ」
「知らない」
「ここなんだ……」
「なにが、」
「撃ち落とされたパイロットたちが迷い込んだ、『あっちの世界』の入り口だ」
「あっちの世界、」
「あっちの世界、だ」
私は歩を進めた。第一歩。じゅうたんを踏んだかのようだ。クッションのように足元はやわらかい。歩くたびに綿毛が舞う。ワタスゲを踏まずに歩くことはできなかった。
「それって、天国……ってこと」
私の言葉を受けて、蓮見はそのままの言葉を口にした。
「違う、私たちはまだ生きている」
「まだ?」
「……これからもだ」
しかし私は眼前の光景がにわかに信じがたかった。先ほどまで私たちは、激しい戦闘のあとを歩いていた。まだ煙がくすぶる生々しい戦場だった。CIDSもなく、霧に巻かれ、自位を完全に失った。それでも進むしかなかった。
海の音が聞こえなくなったのはどのあたりからだったろうか。
燃料の臭いが薄れたのはどのあたりからだったろうか。
「行こう……、蓮見」
私は振り向き、蓮見を呼ぶ。
蓮見は私が聞いた「パイロットの夢」を知らない。
もちろん、私も「パイロットの夢」を直接見たわけではない。伝聞しただけだ。が、私が学生時代、都野崎で出会ったパイロットの語るワタスゲの原のイメージは、私の裡に確かな姿(イメージ)を作り上げていた。私がこの戦域を目指したこと……軍に入ったことの主たる目的の一つは、この風景を探すことだったのだ。夢の世界が現実に存在するのならば、それを見てみたい。
「夢ではないんだ」
私は言い聞かせるように、はっきりと声に出した。
「これが夢なら、果てしない悪夢だ」
風の音。
私の声。
「蓮見、」
私に促され、蓮見はゆっくりと歩きだす。負傷した腿がつらそうだ。私は数歩戻り、彼女の傍らで支えるように手を貸す。
「国境へ、行かなくちゃ」
太陽の位置を確かめた。
南はこちらだ。天測をする必要もない。いや、正確な緯度を割り出せれば、国境線までの距離も把握できたろう。が、もう距離など私はどうでもよかった。
「私が会ったあのパイロットは、帰還したんだよ」
「パイロット?」
「都野崎で取材した。学生の頃。空軍のパイロットさ。北方戦役で撃墜されたパイロットに私はインタビューしたんだ。お前が好きな極限状態を経験したパイロットが、夢とも現実ともつかない奇妙な場所に迷い込んだっていう、そういう話を聞いたんだ」
「それが、いま私たちがいる場所ってこと? 」
「ずばりここかどうかは知らない。たぶん違うだろう。こういう場所は、椛武戸にはいくらでもあるさ。……でも、あのパイロットが私に話してくれた風景は、こんなだったよ」
「撃墜された?」
「パラシュートで脱出したのさ。そしてあのパイロットは、帰ってきた。だから、」
だから、私は思う。彼は現実世界へ帰った。だからここは冥府の入り口などではない。友軍と敵の最前線が入り乱れる激戦地なのだ。結果的に未帰還者が多いだけの話。この上空で撃墜されるパイロットが多いだけだ。脱出(ベイルアウト)できても気候的に辺りは霧が発生することが多く、だから自位を見失い、迷った挙句に遭難するのだ。海に墜ちるよりはいい。初夏のシェルコヴニコフ海は冷たい。だが、陸上も夜は冷え込む。まともな装備なしに長時間を過ごすには厳しい土地だ。
「南へ行こう、蓮見。国境を超えるんだ。原隊へ復帰するんだ。南波が待ってる」
私は自分の声が震えそうになるのを懸命にこらえていた。私の中に渦巻いていたのは、実は恐怖だった。眼前に広がるのは、学生だった私にあの元空軍パイロットが語った冥府の入口そのまま風景だ。いわば、現世と彼岸の境目だ。死の淵を象徴する世界といってもいい。そこにいま私はいるのだ。その事実に恐怖していた。いくら口ではここが冥府の入口などではないとうそぶいたところで、自分の裡に巣くっている印象を即座にごまかすことは難しかった。
一面の白にまだらな影を落としているのは、雲だ。風が吹く。太陽が隠れる。嗅覚に強く意識を集中させると、かすかに海の匂いが感じられた。海岸線から大きく離れているわけではなさそうだ。このまま南へ行くのだ。蓮見を引くようにして私は進む。
初夏の北洋州。
私の鼻腔に、ふと、なんの脈略もなく、ライラックの香りがよぎる。私はあわてて周囲を見る。ライラックの木などなかった。当たり前だった。周囲に背の高い木など一本も生えていない。それにライラックの花の季節にはまだ早い。椛武戸は桜が散ったばかりのはずだ。ライラックの季節まではまだひと月以上もあるだろう。私の脳裏によぎった光景は、椛武戸の風景ではなかった。駐屯地のある高泊の街でもなく、敵の攻撃と友軍の近接航空支援で廃墟と化した縫高町でもない。
故郷の柚辺尾だ。
もともとは防火線として作られた道路幅百メートルを誇る公園通り。
公園通りの象徴である高さ百五十メートルの電波塔に、旧市街の石造りの建物……北洋州旧本庁舎。
それらの追憶の中でニセアカシアの花が散り、そこかしこで芳香を漂わせるのは紫色のライラックだ。
私は疲れている。そう思った。ワタスゲの原を見て、私は初夏の光景を連想していたのだ。それは戦士の思考ではなかった。柚辺尾の街のフラッシュバックには郷愁すら感じた。
蓮見にとっては、この北洋州は外国も同じのはずだと思う。彼女は歴史ある内地の出身だ。出水音は彼女の説明にもあったとおりの高原盆地に古くから拓けた城下町だ。本土には、椛武戸や北洋州本島のような高緯度地域独特の、一種清涼飲料水のような雰囲気はない。都野崎がそうだった。くすんだような色の建物がひしめき、雑然としていた。丹野美春が親しんだ京の街もそうだろう。黒光りする瓦屋根と白壁、建立されて千年の年月を数える寺院、仏閣、社。蓮見や丹野美春にとって、私が生まれ育った北洋州や、この椛武戸の地は論を待たずして外地であり、戦場は文字通り地続きではなかったのだ。だが私には違った。
眼前のワタスゲの原は私にとって確たるイメージをともなった夢の世界だったが、それは悪夢に近いものだった。私はここから離れる必要性を強く感じていた。
「蓮見、大丈夫か」
ここで休息は取りたくなかった。私は本能的にこの場所を忌避しつつあった。このままからめ捕られて、ワタスゲの原に埋没してしまうのではないかという直観的な恐怖感を抱いた。
「大丈夫」
「行くぞ、……太陽が隠れた」
強い口調で私は言ったが、蓮見に対してというより、自分自身を鼓舞するためといってよかった。
一陣の風が吹きつけると、眩いばかりだった太陽も、一枚板のようだった青空も、瞬間的に翳っていた。青空で真っ白く綿のように漂っていた雲は次第に集合し流れて、いまは空全体の九割がたを覆い始めていた。天候の変化が激しいのもこの地方独特だ。太陽が隠れると、とたんに気温が下がる。アンダースーツが機能していても寒さを感じた。と同時に、抱えるようにして支える蓮見の体温も感じられた。人の認識能力の不安定さを思い知る。太陽の暖かさを全身に感じた先ほどは、触れていた蓮見の手の体温など意識しなかったからだ。
そう、意識しなければいい。ここは戦場なのだ。天国……冥府の入口や、まして夢の世界などではない。そもそも私は覚醒し続けており、眠ってなどいなかった。
霧がまた漂いはじめていた。
ワタスゲの色が、乳白色の霧の中に溶けていく。
空を見上げると、雲の凹凸がぼんやりとにじんでいく。あたりを再び霧が支配しつつあった。私は4726自動小銃の光学照準器に、自位を任意で入力することによる簡易ナビゲーション機能があったことを思い出し、先ほどまでの晴天時にそれを設定すればよかったと悔いた。が、どうせその機能もEMPに焼かれているのだと思い、無駄な絶望を味わう必要もないと考えなおす。間もなくあたりは霧が濃密に巻いていた。機械的補助がなければ、人間の感覚が精密さに欠ける点もまったく奇妙に感じる。それとも私が単に機械に頼りすぎただけなのか。動物たちは霧に巻かれても自位をロストしたりするだろうか。人間が獲得した高度な思考能力が余計だということだろうか。もっと単純に考えればよいのか。
「姉さん」
蓮見の声。私よりかすれていない。
「どうした」
「道があるよ」
「なに、」
私が問い返すと、蓮見は左手をそっと挙げ、指した。
ワタスゲと、名前もわからない草が茂っている。蓮見が指す先に、それらの密度が不自然に薄い場所が見えた。いや、道ではなく細い水の流れではないか。思ったが、近づくとそれはしっかりとした意思を持った誰かが通るにふさわしくまっすぐに続いている。草は寝ているわけではなく、土が見えていた。しかも踏みしめられて固い。
「道だ」
私はつぶやく。誰にたいするでもなく、そっと。
道は霧の中からあらわれて、霧の中に続いている。
細く、まっすぐに。
森の中のけもの道によく似ていると思ったが、しかしこの道には迷いがなかった。何者かの意思が通っていると感じられる一本の道だった。
蓮見が私を向いた。
目がしっかりと私を見ていた。
私は二度、三度と小刻みにうなずいた。
行こう。
私たちは、道に足を踏み入れ、ほんのわずかに周囲を警戒し、そして、霧の向こうへ続く意思に、従うことにした。
一時間。
それほど長いとは思わない。作戦行動中なら特にそうだ。
二時間。
一瞬ですぎることもある。
三時間。
行動の組み立てを迫られる。
私たちは霧に巻かれながら歩いた。
三時間が経過していた。
けもの道は迷いもなく続いていた。分岐も、折り返しもない。ただ、道そのものが誰かの意思に従っているように、確実に続いていた。警戒心が心のどこかでアラームを鳴らしていた。本来なら、私たちは歩きやすい道を避ける。人は歩きやすい道を歩くもので、それは市民だろうと兵士だろうと変わらない。むしろ、兵士はその装備の重さ、行動単位から、より歩きやすい道を選ぶ傾向が強い。すなわち、一般部隊とは行動内容が異なる私たちにとって、歩きやすい道とは、敵との不期遭遇を招きやすい場所であり、選んで進むべき場所ではなかった。特殊作戦に従事する私たちが選ぶべきは道なき道なのだ。
しかし私はこの道を歩くことにためらいがなかった。私は疲れていた。それに蓮見の負傷度合は、まともに歩ける道以外の経路を許さなかった。私自身の疲労度も同様だった。
歩きはじめて三時間。けれど、歩いた距離はせいぜい十キロ程度だろう。体調も装備も完全ならば、その倍は確実に距離を稼ぐことができる。けれど今の私たちには、この速度と距離が限界だった。
私たちは無言だった。
かろうじて、前衛が私、後衛が蓮見、そんな役割分担をした。ときどき休んだ。風景は変わる気配も見せなかった。ワタスゲと、腰の高さほどの茂み。そして濃密な霧が私の感覚を大きく狂わせる。太陽の位置もよくわからず、明るさも変わらない。明るさが変わるとすれば、それは日没時だ。突然に暗くなる。果てしない疲労感が、4726自動小銃を即座に撃てる姿勢で保持することすら許さなくなってきていた。正直に、この銃がふだんの作戦で携えることの多い五.五六ミリ口径の4716自動小銃ならと考えた。本体だけでも一キロ近く違う。4726と4716は基本設計や稼働部の構造は同じだったが、弾薬の威力が根本的に異なるわけだから、銃のフレームは当然大口径の4726が重く、図体も大きくなる。銃身も長い。弾薬そのものの重量もある。
何度目になるだろう。私は歩みを止めた。蓮見の呼吸音が耳につく。いや、自分の息も相当に荒い。
霧が濃すぎる。
風は吹くが、霧を晴らすことはなく、ひたすらミルクを溶いたような濃密さであたりを巻いていた。
静まり返っていた。波の音も届いてこなかったから、ある程度この道は内陸に食い込んでいるのだろう。時折霧の中に現れる黒い影に身体がこわばったが、それは戦闘車両の残骸であり、近寄るまでもなく草が絡みつき錆を全身にまとっていることが見て取れた。
手持ちの糧食はまだ二日分を残している。クラッカーにゼリー状の緊急食。戦闘機の射出座席にサバイバルキットとして装備されているものと同じだ。コンパクトに収まるが、高カロリーで、味わうことをまったく考慮していない食べ物だ。
アンダースーツの内側が不快だった。汗。しみた水。
私は蓮見を促して道端に座った。
互いに無言だった。
意識が散漫になっていた。いけないとも思った。
だが、蓮見と視線を交わすのがおっくうに感じた。
とりあえず、4726自動小銃の負い紐(スリング)を肩から下ろし、傍らに置いた。グリップからも指を離した。思わずよろめいた。そのまま仰向けに、茂みへ倒れこんでしまった。
「姉さん、」
蓮見が気遣う声を上げた。
私は返事をせず、茂みに沈んだ。
背中のバックパックのでっぱりも、茂みが吸収した。思いがけず、私の全身をけだるい疲労が、心地よく包み込んだ。目を閉じた。もう二度と目を開きたくないと思った。
とうとう、兵士がもっとも恐れるべき甘美なる魔物にとり憑かれてしまったようだ。疲労という名の抗いがたい魔物だ。
蓮見がいなければ、このまま眠ってしまうだろう。
そして夢を見るに違いない。
都野崎か。
それとも戦場の夢か。
都野崎の風景と、弾丸飛び交う戦場の風景と、どちらが現実なのか、あいまいになってくる。いま私は作戦行動中であり、すなわち戦場に身を置いているのだが、この世界が都野崎で過ごした四年間と地続きでつながっているとは思えなくなった。都野崎は華やかでにぎやかで、支配者は森でも山でもなくそこに住む市民だった。誰もが自分の運命を自分で支配していると信じていた。戦場も支配者は人間だったが、その人間はすさまじい暴力を携えて一方的に運命を支配している。緊張感と恐怖と疲労だけがそこにあり、あるいは絶望が戦士たちを包み込む。言ってしまえば悪夢を柄に書いて額縁に入れるなら、とっておきの一枚は戦場にこそあるだろう。都野崎や京の街や、出水音にはそれらがない。
暴力を背景にした軍隊という究極の支配者が闊歩する椛武戸をのぞいて、人間と自然が絶妙なバランスで共存しているのが私の故郷の北洋州だった。歳時記を開く必要もなく、日々季節の移ろいを肌で痛感できるのが柚辺尾の気候だった。北洋州を出、帝国の本土に渡り、穏やか過ぎる都野崎の日々で一時感じた私の違和感は、その後の四年間のどこかでなくなった。私も都野崎の市民として、なに不自由なく過ごした。生きようと願わなくても、努力を怠っても生きていける無限のけだるさの中に身を浸してそれを享受した。高射砲塔の本来の用途を忘れた。知る必要もなかった。おそらくあの街の誰もがそうだった。大洋を越えて、いったいだれが都野崎を爆撃に来るのか。「高射砲塔」は固有名詞化していた。戦跡ですらなかった。史実、あの高射砲塔が敵の爆撃機の大編隊を迎え撃った経験などしていないのだから。
丹野美春を思った。
過去、武家政権が栄えていた時代、彼女の故郷を主戦場とした戦いがいくつもあった。私も歴史の教科書で学んだ。戦で京の街の半分が焼け野原になったこともあったという。しかし、飛び道具といえばせいぜいが射程一〇〇メートルに満たない弓矢の時代の戦争と、地平線の向こう側の敵さえも殲滅してしまう現代の戦争とは違う。「戦争」は固有名詞ではないのだ。そして、今も昔も戦のさなかで変わらないのは、生きることを強く認識しなければ、ただ死ぬだけであるということだった。
死はときに甘美な願望となって兵士を襲うのだ。
私はそう大学で学んだ。
夢。
現実から逃れる術としての夢。
どこに現実の世界との境界があるのか。
夢を語る(・・・・)のと、夢を見る(・・・・)ことの違い。
明文化できない夢の体験。
私はあの元空軍パイロットを思い出す。
この北方戦域の空で撃墜され、ワタスゲの原に迷い込んだ彼の話。
戦場のパイロットたちの間で語られる、別世界への入口の話。
私自身が迷い込んだ場所。
わかっていたことだ。
私がなぜ軍に入ったのか。
それを確認しに来ただけなのだろう。おそらくは。
「姉さん」
蓮見の声が聞こえる。
仰向けに転がった私は、作戦などどうでもよくなっていた。
敵の姿もない。
蓮見をのぞけば味方の姿もない。
縫高町の廃墟になった病院で、八九式支援戦闘機の近接航空支援を待ったあのとき。ともにいた南波の姿はいまはない。
南波少尉。
彼はどこにいるのか。無事だったのか。
「レツ……」
私は彼の名を思わずつぶやいていた。一度として本人に向けて呼びかけたことのない、彼の名前。烈(レツ)。
「姉さん?」
私はうっすらと目を開く。
「蓮見……」
「大丈夫?」
蓮見の顔が歪んで見えた。
そのとき、私の目に涙があふれていることに気づいた。
泣いている?
なぜ?
目を閉じる。
目じりから涙が流れる。
烈……。
蓮見の残像が、南波の顔にすり替わる。
(姉さん)
誰の声だ?
南波?
私は目を開く。
「入地准尉、」
蓮見がいた。
「南波、少尉は……」
霧が渦巻いている。
空は霧の天蓋に覆われている。乳白色。のっぺりとした風景。
モノトーン。
背中が柔らかい。ベッドに横たわっているようだ。
「入地准尉、姉さん」
蓮見が顔を寄せてくる。頬をたたかれた。
「蓮見、」
「大丈夫か……」
意識がようやく焦点を結びだす。
私は茂みに絡めとられていた半身を起こした。右手をついたが、ひじがあっけなく崩れた。再び私は茂みに倒れこむ。顔面からワタスゲに突っ込んだ。だが、起き上がることができない。このまま眠ってしまいたかった。
だが腕を引かれた。
「姉さん、起きて」
蓮見の声だ。遠くから聞こえるようで、すぐ近くから聞こえるようで、とにかく私は眠かった。
「ああ……」
「姉さん、銃を取って」
銃?
「警戒!」
その声に、私の内なるスイッチが入った。自分の力ではない何らかの動力ではね起こされるように、私は半身を立て直した。ほとんど無意識に4726自動小銃を手繰り寄せていた。
「蓮見、どうした」
蓮見はすでに銃を構えようとしていた。道の先へ照準。姿勢を変えようとして、蓮見が小さくうめいた。破れたアンダースーツの下の腿が見えた。肌は白い。が、血と泥で汚れていた。
「誰かいる」
蓮見は光学照準器を覗いて、小さく、しかし鋭く言った。
私も同じ姿勢を作り、銃を構えた。
光学照準器に目を凝らす。
霧。
道。
草。
霧。
……見えた。
「蓮見、確認した」
「姉さん、ようやく元に戻った」
蓮見の声は掠れている。私は自分自身を叱咤した。負傷しているのは蓮見だ。私はどこにも被弾していないし、けがもしていない。ただ疲労しているだけなのだ。
「二人、いる」
蓮見がつぶやく。つぶやきながら、蓮見はニーリングから伏せ撃ちに移行する。私は彼女をバックアップするように、半身を茂みに沈め、ニーリングを維持した。
霧。
その向こうに、人影。
二人。
歩いてくる。
距離は……四〇〇メートルほどか。レティクルに捉え、身体が揺れないように力を抜く。人差し指は用心金(トリガーガード)の外だ。親指はすでにセレクターを安全位置(セーフティ)から単発(セミオート)へ切り替えている。私の身体は夢から醒めたように冴えわたっていた。自動機械のようだ。戦闘マシン。事実そうなのだ。そうなるよう、訓練された。
「銃を持ってる」
蓮見。
「わかってる」
人影はふたつ、ゆっくりとした足取りでこちらへ向かっていた。
二人とも、銃身の長いライフルを携えているようだ。
「敵か」
「味方でなければね」
蓮見が大きく息を吐く。まただ、蓮見。射撃姿勢はそのままだが、撃つな。
照準器の中の人影は、周囲を警戒するそぶりもなく、まっすぐに道を進んでくる。時速四キロ。その程度だ。装備は……ライフルに、霧が濃くよくわからない。CIDSが生きていればと思う。
「姉さん、……兵士じゃない」
人影が大きくなるにつれ、彼ら、あるいは彼女らの風体が明らかになってくる。
まず、兵士にしては周囲を警戒していない。まるで自軍の駐屯地を……宿営地ではなく……歩くような。そして、自動小銃にしては銃身がやけに長い。あれでは、自動小銃というより、狙撃銃だ。しかし、狙撃兵独特の雰囲気はまったく感じられなかった。装備も奇妙だ。ヘルメットをかぶっていない。髪型がわかる。向かって右手の男は……もう性別がわかった……癖のあるやや長髪気味の頭で、左の男は、頭に何かを巻いている。それは、帽子の類ではなく、このあたりの民族によく見られるような、手織りの布のような……そうだ、彼らがまとっているのは、軍用のフィールドジャケットでもポンチョでもなんでもない。厚手のフェルトのような素材の上下だ。
「あれは……そうだ、兵士じゃない」
私は立ち上がった。銃を構えたままだ。
「おい!」
久しぶりに大きな声を出した気がした。それでも裏返らずに腹から発声できたことに安堵する。
人影は歩みを止めた。そしてお互いの顔を見合わせるようにすると、こちらに向き直る。
「動くな!」
蓮見も立ち上がった。わずかによろけた。視界の端で蓮見をほんのわずかに気遣い、しかし照準は前方に二人につけたまま、私は続けた。
「そのまま動くな」
私の声は霧の中に吸い込まれるようにあたりには響かない。だが彼らには届いている。
「……ふざけるなよ!」
野太い声が返ってきた。北方会議同盟連邦(ルーシ)の訛りが強い。帝国の言葉ではなく、同盟の言葉で呼びかけるべきだったか。だが私は語学に堪能ではない。
叫んだのは、向かって左の、頭に布を巻いた男。素早く右の男にレティクルを合わせるが、右側のくせ毛の男はわずかに笑ったように表情を変えると、負い紐に右手の親指をひっかけて、こちらへ再び歩き出した。
「止まれ!」
私は叫んだ。
「いい加減にするんだな」
左の男も大股で歩きだした。距離、三百メートルを割る。
「帝国の兵隊さんよ、ここじゃそんな態度は通用しない」
左の男が肩にかけていたライフルを持ち替えた。
「止めろ! 銃を捨てろ」
怒鳴ったのは蓮見だった。
「おいおい、二人ともお嬢ちゃんか」
くせ毛が笑った。表情ははっきりとわかる。顔の下半分は濃いひげに覆われていた。年齢が読めない。堀の深い顔立ちはしかし、はるか東の国の聖戦士(ムジャヒディン)を思わせる。
二人は蓮見の制止もかかわらず、大股で歩いてくる。蓮見が人差し指を引き金にかけた。
「お嬢ちゃん、よしな」
くせ毛が笑った。蓮見の動作が見えたようだ。まだ彼我の距離は百メートルを割っていない。たいした視力だと思った。
「お譲さんたち、銃は人に向けるものじゃない。とくに初対面の人間には。あんたらも人間だろう?」
左の男が言う。低いがよく通る声だ。「人間」という単語を強調していた。
「武器を、銃を置け」
私が言う。
「あんたらが銃を下ろしたらな」
二人とも笑っていた。
威圧感があった。
私はその姿に懐かしさを覚えていた。
彼らは猟師だ。
私は構えた銃をローレディまで下げた。
「姉さん、」
「蓮見、下ろせ」
「でも、」
「先任は私だ。従え」
言うと、蓮見はゆっくりと火線を前方の二人から外した。人差し指も用心金の外に戻す。
「いい子だな」
左の男が言う。歩みは止まらない。私たちは静止したままだったから、追い詰められているような気分になる。
「蓮見、弾倉を抜け」
私は言いながら、自分の銃から弾倉を外し、コッキングレバーを引いて、薬室から弾を抜いた。
「姉さん?」
「それでいい」
左の男が満足そうに目を細めた。彼が「先任」なのだろう。そんな落ち着きがあった。
「蓮見、これは命令だ」
私が鋭く言うと、蓮見は不承不承、4726自動小銃から弾倉を抜き、私にならってコッキングレバーを引き、薬室から弾を抜いた。
「イメル、弾、抜け」
左の男が低く言う。もうお互いの表情が手に取るようにわかる距離だ。イメル、と呼ばれたくせ毛の男が黙ってライフルのボルトを引き、弾を抜いた。ボルトはそのままホールドオープンにした。射撃をやるものならわかる。撃つ気なし。布を巻いた男も慣れた手つきで薬室から弾を抜いた。ライフルはシンプルな木製ストックの猟銃。黒光りする銃身から、私たちの4726と同口径と思われた。猟銃としては一般的な口径だった。弾頭の重さや火薬(パウダー)の量まではわからなかった。猟銃に載せている光学照準器(スコープ)も電子デバイスなど一切ついていないシンプルなもの。塗装がところどころ剥げてはいるが、銃ともどもよく手入れされているのがわかった。
「帝国の兵隊さんよ」
布を巻いた左の男がまっすぐ私を向いて話す。
「道に迷ったか」
「帰る途中なんだ」
「陸軍か」
「そうだ」
「女子供まで戦争をするのか」
「子供じゃない」
「そっちのお嬢ちゃんは、俺たちから見れば子どもだ」
顎でしゃくるように、くせ毛の男が笑った。
「それに私たちはただの兵隊じゃない」
「そうか。そういやあんたら兵隊には、無粋な階級ってもんがあるそうだな。お嬢ちゃん、お前の階級はなんだ」
「准尉だ」
蓮見が不服そうに言う。若さが出た。彼の言うとおりだ。彼女はまだチビッ子だ。
「そうか、准尉さんか。どれだけ偉いのか知らないが、立っているのもやっとそうだな」
くせ毛が言う。
「イメル、からかうのはその辺にしておけ」
「おまえらが派手にやったせいで、海は油だらけ、森はめちゃくちゃ、様子を見に来たらこのざまだ」
くせ毛が目をギラリとさせて、険のある声音で言った。
「道に迷ったんだな」
布を巻いた男が再度言う。
「……国境を目指してる」
認める代わりに、いまの目標を私は答える。
「はっ、」
布を巻いた男が鼻で笑った。
「まだ俺たちの足でも一日はかかるぞ。おたくらの国境とやらまでは」
「……そんなに」
「蓮見、」
「お譲ちゃん、ハスミっていうのか。名前か苗字か、どっちだ」
「苗字」
「名前はなんていうんだ。俺たちにはそっちのほうが大事だ」
「訊く前に名乗れよ」
「強がりだな。俺はイメルだ。こいつはセムピ」
くせ毛が笑みをひっこめ、ほんのわずかに首を前に揺らした。会釈だと気付いたのは一泊置いてからだった。
「優羽(ゆは)」
「いい響きだ。あんたは、」
セムピと名乗った布を巻いた男はライフルを肩にかけなおして訊く。
「トモ。入地、朋」
「トモ、か。あんたもいい響きだ」
セムピもまた立派なひげを生やしていた。荒っぽいしぐさと風体だが、不思議な清さがあった。背筋も伸びていた。こんな雰囲気の男を、私は知っている。進退きわまりつつある戦場にあっても、けっして屈しない、やたらと歯の白さばかりが目立つあの男。どんなに薄汚れていても、彼には清い何かがあった。それはおそらく、表裏のない笑顔だったのだと思う。
「お前らのクニに帰るのか」
セムピと呼ばれた男が訊いてきた。低いが通る声だった。
「部隊に戻るんだ」
「歩いていく気か」
「ほかに方法がない」
「もっともだな」
「あんたらは、どこから来たんだ」
私が訊く。当たり前のことすぎたかもしれない。
「自分たちの家からさ」
セムピが当たり前に答えた。
「近いのか」
「引き返せば、日が暮れる前に着く」
「なにしにここまで来た」
「愚問だな」
「なにがだ」
「あんたらがめちゃくちゃやってるから、様子を見に来たのさ。シカもクマもみんな逃げちまった。帰ってこなかったらあんたらのせいだな。俺たちは『失業』だ」
「姉さん、こいつら、敵(ルーシ)側の人間だ。構わないで行こう」
蓮見が言う。
「敵側ってなんだ」
イメルが言う。低くこもった声。不機嫌さをさらに増した表情で。
「あんたらは国境のこっち側に住んでるんだろう。だったら帝国の人間じゃないってことだ。北方会議同盟(ルーシ)連邦の人間……だったら敵じゃないか」
蓮見が言うと、イメルは、ふっと鼻から息を抜き、そして笑った。
「くだらねぇ。本当にくだらねぇ。……あんたらを相手にしてるとあきれてものも言えなくなるぜ。白いか黒いか、そういうことか。だったら俺たちは違う。灰色さ。そういうこった。わかるか」
「灰色?」
「灰色だ。国境線なんてもんは、あんたらとネギ坊主の連中が作ったんだ。違うか」
「ネギ坊主?」
蓮見がおうむ返しに言う。めずらしく、イメルのたとえがわからなかったようだ。
「同盟のことだ、蓮見。教会の屋根だ」
北方会議同盟(ルーシ)連邦の教会の屋根の意匠だ。タマネギを思わせる造形をしているのだ。だから帝国の人間もかの地の教会の建物を「ネギ坊主」と呼ぶ。
「かってに国境線を引いて、かってに戦争を始めて、挙句の果てに俺たちの獲物を散り散りにさせやがって。いい気なもんだぜ。いいか、俺たちは灰色だ。どっちに与する気もねぇ。それに、この道は俺たちが作ったんだ。通行料を取られないだけありがたいと思うんだな。国に帰りたきゃ、このまま進め。一日歩けば、あんたらの帝国だ。街が残っていればいいがな」
「どういうことだ」
蓮見が訊く。
「昨夜は派手だった。夜が昼間みたいでよ。迷惑したぜ」
「攻撃があったってことか」
私。
「攻撃だか防御だかはしらねぇ。飛行機がやかましく飛んではいなくなって、花火みてぇにドカドカ派手にやってたぜ。北でも南でも、海の上でもな。……かわいそうによ、アザラシはもう何年も帰ってこねえだろうな。兄貴、行こう。こんな奴ら、構ってるこたぁねぇ」
イメルが私たちから視線を外した。汚物から顔をそむけるような。
「うちの村へ来るか」
返事の代わりに、セムピが言った。表情を変えず。笑いもせず。
「兄貴、何言ってんだ」
「見てたらこのお嬢ちゃんたちが気の毒になってきたのよ。汚らしいなりだ。水でも浴びて帰ればいい。それくらいのもてなしはしてやるさ」
「兄貴、」
「来る者は拒まずだ。それが兄弟(イルワク)のやり方だ。そういや、ユハさん」
セムピが白い歯を見せて言う。
「この、トモさんを、『姉さん』て呼んでたな。あんたら姉妹か」
「違う……あだ名みたいなものだ」
「そうか。姉さんって呼ばれてるのか、あんたは」
私はうなずくこともせず、4726自動小銃のスリングを肩に通し、そのまま銃を提げた。
「来るか」
私は黙ってうなずいた。
「いい子だ」
言うと、セムピは芝居めいた調子で大きく笑った。
不服そうな表情の蓮見を私は促した。
蓮見も銃を肩から提げた。
私は休みたかった。蓮見も休ませたかった。そして私のアラームは、彼らを前にして静まり返っていた。敵意を感じなかったのだ。セムピもイメルも、弾を抜いたまま、再装填をしないで振り返り、来た道をまた黙って歩き出した。
私はそれに従った。
誰かについて歩く。
南波以外の誰かの後ろを歩くのは久しぶりだと、そのとき感じた。
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