第12話

   十二、



 世界が白く塗り込められていた。

 歩きながら、次第に前後左右の感覚が怪しくなってくる。戦闘機乗りたちが雲の中や闇夜に飛行するときにもっとも警戒するという空間識失調(バーティゴ)におちいるときは、こういう感覚かもしれないと思った。

 私は蓮見をともないながら、歩いていた。

 初めはどす黒い……霧というよりは煙があたりにたちこめていた。それが霧などではなく、洋上で炎上している友軍艦隊の黒煙だということは容易に想像がついた。いや、想像するまでもなかった。ガスタービン燃料が燃える臭いは、冬の初めに嗅ぐストーブのそれとよく似ていた。そして、あらゆる火工品が燃える臭いも強烈にした。私も蓮見も極力その煙を吸わないように、夜明け前、まだあたりは暗い茂みの中に伏せ、休憩もかねてじっとしていた。

「姉さん」

 蓮見の声は弱々しい。国境を越えた拠点までたどり着けるだろうか。正直それは大いなる危惧となって私の中の不安を煽っていた。蓮見を置いていくわけにはいかない。彼女は私と二人一組で形作られる戦力ユニットの一部であり、私たちの行軍は作戦行動であり、けっしてトレッキングなどではなかったからだ。蓮見の体力は著しく消耗されてつつあったが、それでもなんとか自力で歩けるレベルにあり、重量四キロ超の4726自動小銃を構え、撃つこともできる。夜が明けてもCIDSの機能は復活しなかった。私たちは自分自身の身体だけで戦場を行かなければならない。私と蓮見、合計四個の眼球もそれぞれの鼻や耳や皮膚感覚もなくてはならないセンサーであり、センサーから入力される情報を処理する二基の精緻な情報処理マシン……脳は、この戦場から脱出するうえで不可欠のものだった。この場合、二人ひと組で行動することの重要性が見えてくる。一名で判断するよりも、二名で判断することが重要であり、一名で思考するよりも、二名で思考する多様性が必要なのだ。

「艦隊はどうしたろうか……」

 蓮見がつぶやく。

「全滅したわけじゃないさ、きっと」

 あたりにもうもうたる黒煙が立ち込めていることが証左だ。水上艦がすべて沈められたのなら、洋上に漏れ出したガスタービン燃料が燃え尽きると、火は消える。あの対艦ミサイルの波状攻撃からすでに二時間は経過している。軍用艦船は船殻が幾重にも備えられたタンカーほどにタフではないが、それでも二時間程度で被弾した全艦沈没というのは考えにくかった。艦隊勤務者にとって、被弾した際、自艦を海の藻屑にしないための訓練、ダメージコントロールは日常的に行われる最重要なものだという。自分の身体が無傷でも、乗り組んでいる艦が傷を負えば、クルーは艦と運命を共にするしかないからだ。

「航空支援は来ないのかな……」

 敵味方含めて、もうしばらく私たちは航空機の飛行音を聞いていなかった。

「あるいは空母がやられたのかもな」

 洋上に展開していた北方艦隊の陣形はわからない。だが、谷井田少尉が所属する海軍第七二標準化群は強襲揚陸艦か空母の支援がなければ行動しない。あのとき、海軍の艦上戦闘機の爆音も聞いたし姿も見た。撃ち落とされる姿も見たが。そもそもあの派手な艦砲射撃を行った戦艦は、艦上機による直掩がなければ行動できない。戦艦、ミサイル巡洋艦、駆逐艦、空母、そして潜水艦。これでワンセットの艦隊になる。夜が明けても戦闘機はおろかヘリコプターの類の音すら全く耳に届いてこない状況は、最悪と呼んで差し支えないものかもしれなかった。

「どれくらい歩いたかな」

 肩を貸さずとも、蓮見はゆっくりとではあったが歩いていた。

「歩いてきた距離を言おうか。それとも、残りの距離を言おうか」

「姉さん、……夏休みになったら、残りの日数を数えるタイプでしょ」

「何を言っている」

「私は、何日たったかなぁって数えていたよ」

「せいぜい十五キロだ」

「残り?」

「馬鹿、歩いた距離だ。南波たちと離れてからだ」

 別れてから、とは言わなかった。南波と私たちは目下別行動中。そう考えるほうが、この場においては圧倒的に合理的だった。可能性を否定することはできない。彼らの生存を疑うようなことをすれば、私たちユニットの生還が危ぶまれる。私たちチームは能力が平準化されており、そして、行動内容は標準化されている。個人が突出したチームなどあり得ない。私も蓮見も南波も桐生も、その訓練された特性は異なっていても、たとえば私たちの能力をレーダーチャートで分析した場合、それぞれの平均値に大きな差異は発生しない。著しく劣った部分も、突出して優秀な部分もない。チャートの面積を求めれば、ほとんど同じになる。そういうチーム編成になっているからだ。それは、二+二の四人チームが、一ユニット二名になっても、それがいかなる組み合わせでも支障が出ないようになっている。性別を別にすればだが。こればかりはどうしようもない。戦闘能力に性差はほとんど関係ないとされているが、遺伝子的な生命力の強弱は仕方がないだろう。

「いちばん近い拠点までは、あとどれくらいで行けると思う?」

 蓮見の息は荒い。だが、墜落直後の熱を帯びたような吐息はおさまっているようだ。

「直線では歩けそうにない。のんびり行くさ」

「途中になにかあったかな、」

「さあ。うろ覚えだが、……国境を越えるまでは何もなかったな」

 北緯五十度よりも北側。椛武戸を大きく南北に分けるなら、五十度線から南側にかなり広い平野があり、その北には低湿地と、西部に千メートル前後の山岳。そして北緯五十度線が国境線であり、私たちがいまうろうろしているのは、北方会議同盟連邦領土の、低湿地の北側に位置した海岸線のはずだ。

「方角は、こっちでいいんだね」

「海岸線はほぼ南北に走っているから、それを頼るしかない」

「鉄道も何もなかったっけ」

「あったとして、列車に乗せてもらえると思うか?」

「いや」

 国境をまたいで鉄路は存在しているが、帝国側で柄島東線(えしまとうせん)と呼ばれる国際鉄道路線は、北方戦役の激化とともに数年前から運行を停止している。以前は大型のC66型蒸気機関車に牽引された国際列車が、港町高泊(たかどまり)から南椛武戸の最大都市富原(とみはら)市を経由して国境を越え、シェルコヴニコフ海の北端の不凍港ベリョースク市まで運行されていたが、私が椛武戸に来てから、その列車が走っている姿を見たことがなかった。

「歩いていれば、いずれは国境を越える。……頑張ってるやつに頑張れって言わない主義なんたが、……とにかく頑張れ」

「わかってる」

 夜が明けつつあった。渦巻いていた煙はいつしか消え、青い世界が私たちを包み込んだ。あたりからは木々が消え、視界が利く範囲には草しかなかった。青さは次第に白さを増していき、おそらく夜が明けた。午前、四時。

 風が吹く音が聞こえた。

 蓮見の呼吸と、私の呼吸が聞こえた。

 動物の気配も感じなかった。

 冷気があたりを支配していた。

 寒い。

 装備が重い。

 チェストハーネスの予備弾倉が、歩くたびにその重さを主張する。

 負い紐(スリング)に荷重を分散していても、4726自動小銃は腕の筋力を消耗させていく。しかし、この無骨な道具が、私たちを護る武器なのだ。手放すわけにはいかない。風連奪還戦で勅使尾(てしお)川にライフルを落とした南波が生還できたのは、私の4716と、彼の拳銃と、そしておそらく数値化できない彼のガッツがあったからだ。

「蓮見、」

 一メートルほど離れた蓮見に呼びかける。

「なに、」

「お前、南波をどう思う」

「なに?」

「南波少尉。彼をどう思うかと訊いたんだ」

「どういう意味?」

「言葉どおりの意味だ。考えなくていい。思ったことを話してくれ」

「笑い袋」

「なに?」

「思ったままのイメージだよ。笑い袋」

「なんだそれ」

「笑い袋、知らない?」

「知ってるって。笑い声だけが聞こえるおもちゃだろう」

「それ」

「南波がどうして笑い袋なんだ」

「いつも笑ってる」

「そうか?」

「そういう気がする」

 私が知っている南波は、笑っているイメージではない。

 鋭い目で周囲に気を張り詰めている姿。あるいは、駐屯地の宿舎の談話室にて、弛緩しつくした表情で炭酸飲料を飲んでいる姿。あるいは、休暇中に見た映像作品の話を、ストーリーなど無視してたださわりの部分をやたらと仔細に話す姿。もちろん笑顔は知っているが、蓮見が言うように四六時中笑ってイメージはなかった。

「南波少尉は、一般部隊からの選抜だって聞いた」

 蓮見が話す。

「もともと契約組から入隊して、満期除隊して大学に行って、それでまた一般部隊に入ったって」

「誰から聞いたんだ」

「相良(さがら)中尉から」

「相良中尉?」

「あの人も、中部管区の歩兵連隊出身でしょ。どっかで南波少尉と一緒だったって言っていた」

 相良中尉は第五五派遣隊の本部管理中隊にいる。北方戦役で大けがをして、以来は高泊の駐屯地から出てこない。柔和な表情の、私よりも一回り近く年長の女。

「入地准尉、」

「なんだ、あらたまって」

「南波少尉とは、いつから知り合い?」

 歩みは止まらない。白い世界。霧の粒子が目の前に散る。

「南波とは、『第三高架橋作戦』からだよ。……四年前だ」

 椛武戸内陸を貫く区間高速道路の奪還戦。空挺降下ではなく、機甲部隊とともに敵勢力に侵入し、私たちは敵部隊の通信施設を破壊した。チームは当時五五派遣隊に存在したAからFまでのすべてが参加し、そして消耗した。作戦後は大幅な再編成を余儀なくされた。

「姉さん、あの作戦に参加していたの」

「配置されたチームの先任が南波だったんだ。今と変わらない。話し出せば止まらないし、しゃべらなくなるといつまでもしゃべらない。機械みたいなやつだ」

「機械?」

「オン・オフがはっきりしていないか。あいつは」

「スイッチが入ったみたいに笑ったりする」

「そうか?」

「私は、『センターライト降下』でチームDに入ったから。それより前の南波少尉は知らない」

 沿岸地区のメタンハイドレート搬送施設の確保を目的とした降下作戦だ。私たちはレーダー的に隠密化(ステルス)した爆撃機改造の輸送機に乗りこみ、高硬度降下低高度開傘(HALO)で殴り込みをかけた。巨人の循環器……血管のようなパイプラインを縫うように敵部隊を点射で攻撃した。そうだ、あの作戦から蓮見は私たちのチームに入ったのだ。

「変わっていないさ。あのまんまだ……笑い袋か」

「鉄の塊みたいな」

「鉄の塊?」

「ものすごく固そうだけど、いよいよ曲がるときは曲がるでしょ。いい形に」

「鉄の塊が曲がるか」

「曲がらない?」

「塊は曲がらない」

「じゃあ、」

 草の背丈は私たちの膝ほど。道もない。警戒していないと方角を見失いそうだ。潮の匂いがする。

「鉄の板だ」

「すぐに曲がる。小銃弾で貫通するぞ」

「やっぱり笑い袋だよ……どんなときでも、少尉は笑ってる」

「視点が変わるとそうなんだな」

「姉さんからはそう見えない?」

「あいつは理屈っぽい」

「姉さんこそ」

「私はそう見えるのか」

「南波少尉も言っていた。しゃべらない部族の話とか、どういうこと?」

「時間つぶしさ。一枚の絵を見て、絵を言葉にできるか? なかなかできないよな。そういう話だ」

「よくわからない」

「そのとおりだ。よくわからない話なんだ。救援もなく、周りはどこにいるかもわからない敵だらけ。近接航空支援は、降ってくる爆弾を自分からよけなければならない。そういう場所では、よくわからない話をしてしまうのさ」

「この状況もそんな感じかな?」

「たぶん、」

 草は夜気を帯びて、上昇した気温に全身水滴をまとっていた。耐水性の戦闘靴は水をはじき、草を踏みつけていく。

「たぶん今もだ」

「いま、私は姉さんの言っていることがわかる」

「大した話をしていないからだ」

「そうかな」

「南波少尉の話しかしていない」

「無事だよね」

「あいつがか」

「そう」

「鉄の塊は、そうそう簡単には壊れないよ。水に落とせば沈んでしまうが」

「それでも浮いてきそうな気がする」

「そうだな」

 歩くペースは変わらない。

「私もそう思う」

 時間は経過していくが、あたりの明るさはほとんど変わらなかった。

「姉さん、海岸線の方角はわかる?」

「お前はどう思う」

「九時方向」

「同感だ。根拠は」

「匂い。音。それだけ」

「人間の感覚なんて、ずいぶん単純にできているんだな。それだけで判断できると思うか」

「それだけでしか判断できないよ。今は。見えないし」

「太陽も見えない。ここが冥府の入り口だと言われても、信じるかもな」

「冥府?」

「別の世界のこと」

「天国?」

「別の世界さ。天国も地獄もない。別の世界」

「だったら、私にとっては、この戦場(フィールド)が別世界だよ」

「お前はそういうのが好きでハケンに入ったんだろう」

「出水音(いずみね)には帰りたくなかったから」

「戦役が終わったらどうするんだ」

「私は契約じゃない。正社員だよ。姉さんと同じ。この戦役が終わったら、別の戦役に行くまでだよ」

 契約。正社員。やはり蓮見はその類の隠語が好きだ。いや、隠語にすら当たらない。兵卒は契約隊員だ。一期二年で契約を更改する。下士官以上は正社員だ。定年まで勤め上げる。もっとも、離職率は高い。離職? 殉職。戦死。あるいは行方不明。

「思ったより乾いてるんだな」

「私が?」

「違うか」

「さあ」

「元気、出たじゃないか」

「出しているんだよ」

「それでいい」

 波の音がかすかに聞こえている。おそらく断崖があるのだ。このあたりの地形はそうなっている。波が砕ける音。草が風に応える音とは違う、水の音。波が砕け散り、それが風に乗り、空気に混じり、潮の匂いになる。風はさほど強くない。まだガスタービン燃料の臭いが混じる。艦隊はどうなったのか。情報を遮断された私たちは、五感をフル稼働させて周囲を警戒するが、見えない場所、聞こえない遠地の状況など、わかるはずもなかった。身体はあらゆる電波を浴びてはいるが、受信能力がない。受信してもそれをデコードする機能もない。CIDSは沈黙したままで、電源が入らないままだった。物理的な回路故障ならば、あるいは分解整備すれば機能を回復するかもしれなかった。が、いまは歩くのが最優先だった。一刻も早く、しかし体力を温存したまま、南へ逃れるのだ。

 霧が渦巻いていた。

 あたりは白い。

 草は初夏に萌えているはずだったが、色を失っていた。モノトーンの世界だ。

 道は相変わらずなかった。

 私たちはしばらく言葉を交わさずに歩いた。

 二人の歩く音と、呼吸の音だけが聞こえた。

 昨夜の戦闘が、祭りのように思えた。そう考える自分を不謹慎に思ったが、結局のところ、蓮見も私も、好んで戦場に身を置いている。祭りのようなものだった。私たちは職業軍人だ。仕事として戦場で戦うことを選んだ人種だ。いやいや作戦行動をしているわけではない。好きでやっているのだ。任務だから、ではない。好んで部隊に身体を預けているのだ。丹野美春が知ったら、異常だと眉をひそめるだろうか。南沢教授は、私と口を利いてくれるだろうか。

 祖父は。

 祖父はなんと言うだろうか。

 父や、母や、二人の姉はどうしているだろうか。

 ふと柚辺尾の街の、何気ない通りや川や街路樹が浮かんだ。そしてすぐに消えた。意識が激しく疲労していると思った。作戦行動中に家族のことを考えたことはなかった。柚辺尾の街を思い出したことなどなかった。

 危ないと思った。

 意識が作戦から分離している。

 私は4726自動小銃のグリップを握りなおした。伸ばしたままの人差し指が硬直していた。何度か手のひらを握ったり開いたりを繰り返し、意思の通わなくなりつつあった自分の指を取り戻す。そんな動作を繰り返していたとき、蓮見が私を呼んでいることに気付いた。

「姉さん、」

 うかつだった。先を行く蓮見が私を呼ぶ声に、一瞬反応が遅れたからだ。

「どうした」

 蓮見は立ち止まっている。

「警戒、」

 蓮見が言葉と同時に茂みに伏せた。私は考えるよりも早くその言葉に従った。

「蓮見、どうした」

「あれ」

 蓮見は伏せ撃ちの姿勢で据銃している。彼女の火線(ファイアライン)の先へ、私も銃口を向ける。光学照準器を覗く。

「蓮見、そのまま動くな」

 低く。レティクルの向こうには、そこだけはっきりと色の違う何かがあった。

 樹木でもなく、岩石でもなく、動物でもない。

 鋭角的なシルエット。

 人工物。

 あたりに道はない。集落であるはずがなかった。消去法でその形が意味するものを考える。

 音は聞こえなかった。

「戦車……」

 砲塔、砲身、履帯、サイドスカート。

 見慣れた形だ。

 有翼撤甲(APFSDS)弾の普及で、装甲車両の形状は、避弾経始をまるで無視した角ばったものになっている。まるで図工の時間に作った紙細工のように。あたかも収斂進化の結果であるといわんばかりに、その形状は敵味方関係なく似たものになっており、目視での攻撃は往々にして同士討ちを惹起した。機械的な敵味方識別装置(IFF)をなにもかもを失っている私たちは、味方から撃たれる可能性と、味方を撃つ可能性、両方をしっかりと保持している状態だ。

「どっちだ」

 私は蓮見に問うてみる。味方の戦車か、あるいは敵か。

「この距離では、」

 私と蓮見の視力も似たようなものだ。だいたい極端な視力差は現代社会でさほど見られなくなっている。それを医療の進歩と呼ぶか、画一化と呼ぶか、私にはわからない。社会が求める最低限の身体能力は、いまは国家的医療制度と技術が保障してくれる。それが結果的に社会保障費の圧縮のつながることに政府も国民も気づいたからだ。どんな病も治る時代から、どんな病にもかからない時代に、私たちの世界はシフトしつつあるのだ。けがだけはどうしようもないが。

「蓮見、エンジン音が聞こえないな」

「でも接近したくない」

「斥候はいるか、」

「そんなのいなかった」

「同感だ」

「迂回して行こう、姉さん」

 私たちはできる限り姿勢を下げ、移動を……脅威からの迂回を開始した。が、もし向こうが戦闘能力を維持しているのであれば、センサーが私たち二人を見逃しているだろうか。確実に捕捉されているだろう。それにしてもエンジン音が全く聞こえないのはどういうわけか。風は強くない。どれほど排気音を消音化したとしても、戦車のエンジンは強力であり、そしてエンジン音を消音化する必要性は、戦車の性能にとって優先順位は低い。補助動力装置(APU)が作動しているのだろうか。装甲車両、とりわけ主力戦車のエンジンは大排気量であるが故、燃費が良くない。エンジンをかけっぱなしでは、貴重な燃料をひたすら消費してしまうため、航空機のように補助動力装置を備えている機種が増えているのだ。だが、APUの動作音も聞こえない。すると、昨夜の電磁衝撃波(EMP)で擱座しているのか。ならば味方部隊の可能性が高い。もし擱座しているのだとしても、友軍が展開しているのであれば、私たちの逃避行も終了になる。

「姉さん、警戒、二時、目標多数!」

 匍匐するように前進していた私たちはその場にとどまる。

 光学照準器で索敵。いまや文明の利器と呼べるのは、EMPから何の影響もこうむらないこの光学レンズと鏡体の構成品のみとなってしまった。

「一、……五、六……」

 蓮見が口の中でつぶやく。黒っぽいシルエットは、ある程度の間隔を置いて数両点在している。だがいずれもエンジン音が聞こえず、人影も見えず、匂いもしなかった。

 いや、臭いならあった。

 軽油が燃えた臭い。

 ディーゼルエンジン特有の臭いだ。だが、新鮮なそれではない。漂っているだけだ。

「蓮見、おかしい。……待て」

「わかってる。昨日のあれを思ったら、動きたくない」

 眼前のこれが、壮大な罠ではないと、私自身断言できなかった。あの保養所を襲撃する直前、私たちはそれが罠だと疑いこそすれ、確信はしなかった。

「蓮見、……走れない……な」

「姉さん?」

「見てくる」

「そんな、危険すぎるって」

「お前が来てもリスクが増えるだけだ。ついてこなくていい」

 蓮見の足は回復していない。むしろこの行軍で悪化している。私たちの移動速度は明らかに通常の半分程度まで落ちていた。

「バックアップ、頼んだぞ」

「わかった」

「何かあったら、叫ぶからな。耳を澄ましていろよ」

「聞こえないはずないよ」

「頼んだ」

 蓮見が親指を立てる。

 私は、あらためて4726自動小銃のグリップを握りなおす。一度弾倉を外し、そして装填する。残弾確認。

 茂みを行く。。

 私は、不意に、祖父、ユーリと歩いた山野の光景を取り戻す。

 まるで猟だ。

 霧に巻かれて、視線の先のシルエットが、ヒグマのそれに見えた。

 けれど、生き物の匂いはしなかった。

 軽油が燃えた臭いが漂っているだけだった。

 私は、「武器」と呼べるものはいま二種類しか所持していない。ヘッツァー4726自動小銃と、メルクア・ポラリスMG-7拳銃。4726自動小銃は、柚辺尾で祖父と山野でシカを追いまわしていた時分、使っていたライフルと同じ口径。当時使用していた弾薬は三〇-〇六弾で、軍の制式弾薬はそれと比べるとやや弾頭が軽いが、それでも五.五六ミリ口径の4716自動小銃よりストッピングパワーに優れ、有効射程も長い。ざっと三倍近く威力が大きいのだ。五.五六ミリ弾はけがをさせるための銃弾だが、七.六二ミリライフル弾は、殺すための銃弾だ。メルクア・ポラリスMG-7拳銃は、一般的な九ミリ口径。弾倉には十五発籠められ、反動もさほど大きくなく、命中精度も貫通力も高い。

 が、それは人間相手に考えた場合だ。戦車と対峙するとした場合、自動小銃と拳銃だけでは、無力と呼んで差し支えない。私たちは手榴弾も携行していないのだ。なんとか知恵と勇気を振り絞って戦うにしても、重機関銃と同じ、一二.七ミリ……五〇口径以上の対物(アンチマテリアル)ライフル、できれば対戦車ロケットか無反動砲が必須だ。それでも生身の歩兵が戦車と戦うこと自体が自殺行為であるのに変わりはない。攻撃ヘリコプターの対戦車ミサイルか、支援戦闘機などによる空からの攻撃以外は「自殺行為」の一言で片付けられる。そして眼前には、角ばったシルエット。戦車砲もはっきりと見えるだけの距離に近づいていた。だが、砲身は力なく地面を向いてうなだれている。

 油圧が抜けている……?

 相変わらずエンジン音もなく、あたりは静かなままだった。まるで書き割りの絵だ。

 私は銃を構えていた。

 戦車クルーが降車して待ち伏せていないとも限らないからだ。私は這うようにして慎重に接近する。光学照準器を覗く右目で車両を補足し、左目にも意識を振り分け、周囲をチェックする。

 潜伏している敵兵士の姿は、どうやらないようだ。

 ただ、ディーゼルエンジン特有の、軽油が燃えた臭いがした。

 廃墟。

 まず私の頭に浮かんだ言葉はそれだった。目の前の戦車の群れは、すべてその役目を強制的に終わらせられていたのだ。

「蓮見!」

 立ち上がり、私は彼女を呼ぶ。

 それでも私は据銃したまま、周囲を警戒し続ける。

 霧が渦巻き、燃料の残滓がくすぶる臭いが立ち込める。不快な臭いだった。獣を斃したとき、あたりに漂う血の匂いや、獣そのものが発する生き物の匂いとは決定的に違う。生理的な嫌悪感をもよおす臭い。……かすかに動物が焼けた臭いまでする。その動物がなんであるかは、想像する必要もない。その姿かたちを脳裏に焦点するのはたやすい。

「姉さん……」

 しばらくして蓮見がやってくる。足を引きずるようにして。それを私に悟られまいとしながら、けなげに。

「蓮見、……がらくただ」

「航空攻撃?」

 蓮見も銃を構えながら接近する。小柄な蓮見の身体に大柄な4726自動小銃はアンバランスに見える。少女に武器は似合わない。そう思ったのは作戦行動中初めてのことだった。

「九七式だ。第七二戦車連隊……」

 砲塔に所属部隊を示すマーキング。友軍だ。

「アウトレンジされたってこと?」

「EMPで目つぶしされて、一方的にって感じだな」

「そんな……戦車は対EMP防御をしてるはずだよね」

「私たちのCIDSがどうなった? そういうことだよ。特定の機器を焼けるような強い指向性でも持っていたのかも」

「私たちのCIDSや戦車をやっつけて、自分たちの装備は影響なしなんて、そんなことできる?」

「できるさ。病理がわかればワクチンを作れる。あいつらは、しゃべらなくてもしゃべることができる軍隊だぞ。……もう驚かないさ」

 草が露で濡れている。

 燃料や火薬がくすぶる悪臭がなければ、初夏の朝そのものだ。それにしても霧が濃い。自位を見失いそうだ。霧が濃すぎて太陽の位置も分からない。

「何両見える」

 私は蓮見に問う。

「さあ……、視程が悪くて……五、六……」

「もっとだな。中隊規模だ。エンジン音は全く聞こえない……車内は見ないほうがいいだろうな。残念だ」

 砲塔がまともに車体の上に載っている車両のほうが少ない。対戦車ミサイルで狙い撃ちにされた戦車は、ほぼ例外なく砲塔を噴き上げ、活動を停止する。現代の戦車は気密性が恐ろしく高い。核(N)兵器や生物化学(BC)兵器に対する防御性能も持ち合わせているからだ。空調は戦闘用コンピュータの冷却用だけでなく、乗員保護用としても高性能なタイプが搭載されている。逆にいえば缶詰のようなものだ。高エネルギーの弾体を命中させれば、難なく爆発してくれる。致命弾を受ければ乗員は全滅だ。車外に乗員が這い出た跡が見られないのはそうした理由だろう。脱出しやすいはずのドライバーも脱出した形跡がない。

「EMPで擱座したところに、敵弾命中、そんなところだろうな……」

 蓮見は黙っていた。

 戦線がどうなったのか。

 洋上の艦隊はどうなったのか。

 地上部隊がこのありさまだ。

 戦線は相当に後退しているのだろう。

「蓮見」

「なに」

「行こう。歩くしかない」

「うん」

「行けるか。行けるよな」

「置いて行って、というのは、ダメなんだろうね」

「ダメだな」

 私は彼女に向き直る。

「これ以上センサーの数を減らしたくない」

「うん」

「話し相手も必要だ」

「話し相手?」

「戦場では、誰も一人になると精神的バランスを欠いてしまうからな」

「姉さんでも?」

「私は一人で行動したことなんてない」

「意外だ……故郷の山でも?」

「それは、猟の話をしているのか?」

「うん」

「私は、……一人で山に入ったことはない」

「猟師(ハンター)は一匹狼だと思っていた」

「そういう猟師もいる。けれど私は違った。それに蓮見、そもそもオオカミは一匹で狩りはしないぞ」

「そうなの? ……准尉のお祖父さんは一人で猟をしていたんでしょ」

「……私の祖父は、生粋の猟師じゃなかった。私と同じ、陸軍の軍人だった。狙撃兵(スナイパー)だよ。狙撃兵には観測手(スポッター)がかならずくっついてまわるだろう。私は狙撃兵に猟を教わったってことさ。だからいつも観測手と一緒に山に入ったさ」

「じゃあ、いまは私が観測手をしなきゃダメだね」

 私は戦車から離れた。歩き始める。

「違うな」

 蓮見がついてくる。私は蓮見に向きなおって言った。

「蓮見、私は狙撃手じゃない」

「じゃあ?」

 蓮見の視線を受けて、私は踵を返す。

「ただの戦士だよ」

 平原には濃い霧が立ち込めている。

 冥府の入り口のような。

 私は異世界を信じない。

 私は天国も信じない。

 だから地獄も信じない。

 人の魂も信じない。

 人はいずれ死ぬ。機能を停止する。それだけだ。人が死ぬと、脳が機能を停止し、思考回路も感情も自我もすべてが失われる。自分を自分だと認識していた存在は消える。消え去り、どこへも行かない。

 私はあたりを見渡す。

 戦車。

 戦車、戦車、戦車。

 鉄の棺。

 もし対戦車ミサイルで狙い撃ちにされたのなら、遺体も残らないだろう。粉々だ。彼らの魂はどこへも行かない。戦士として、ここで散った。

 草が足に触る。さわさわと。露が散るが、私のスーツにはしみこんでこない。まとわりつくものもない。ただ、頬に感じるのは、初夏の空気。ディーゼルエンジンの臭い。霧の粒子。そして蓮見の声だ。

「姉さん」

「行こう。ここはもう味方の勢力下ではない」

 南へ向かわなければならない。

 私たちは背の高い茂みの中を再び歩き始めた。


 霧は晴れなかった。

 時計を見る。

 撃破された味方の戦車部隊の残骸から、二時間歩き続けたことになる。

 草原(くさはら)も切れなかった。ヘリコプターや戦闘車両で移動するのと、徒歩で移動するのでは、世界の大きさが全く違う。だから、私たちの帝国は、国土の広さの割に、あまりにも多種多様な地域的な文化の差異や言葉の違いがあるのだろう。これは歩いてみなければぜったいに実感できないことだった。

 周囲の明るさは増していたが、あいかわらず霧は濃く、太陽の位置はわからなかった。

 背の高い樹木もない。

 ゆるやかにうねるような起伏。その上を、高緯度地域独特の植生の草原が続く。

 霧の中で、草々は淡く萌えていた。

「蓮見」

「なに」

 蓮見が返事をする。呼吸を整えようと意識しながら歩いているのが手に取るようにわかる。大丈夫か、とはもう訊かない。

「出水音(いずみね)には何年いたんだ。生まれてからずっとか」

「なんでそんなことを」

「聞きたいからだ」

「十八年だよ」

「高等科を卒業するまでか」

「陸軍に入隊するまで」

「戻りたいか」

「出水音に?」

「そうだ」

「別に、戻りたくはない」

「どうして」

「つまらないから」

「なぜつまらない」

「……何もないから」

「なにがないんだ」

「なにも」

「町があるだろう」

「あの町は古いんだ。古すぎるんだよ」

「古い町が嫌なのか」

 草原、草原、草原。そして霧。私たちの歩調は著しく遅い。急げば霧に巻かれて方角を見失う。

「古すぎるんだよ。どこへ行っても知っている場所ばかり。山に囲まれて、息がつまりそうだった」

「山?」

「三千メートル級の山々。わかるでしょ。出水音は盆地だから」

「知識でしか知らない」

「その知識で当たっていると思うよ」

「北方戦線には志願したのか。だいたい、倍率三十倍の第五五派遣隊を志願した理由はなんだ。……本当に、極限状態に身を置きたいなんて、馬鹿げた動機だったのか」

「そうだよ。最初から私は特殊作戦群に志願するつもりだったんだ。いちばん戦闘が多い場所に行きたかった」

「たったそれだけの理由で、あの地獄みたいな選抜訓練をパスできるか」

「できたからここにいるんだよ。一般部隊で毎日穴掘って埋めてなんて、私には我慢できなかった」

「帰りたくなることはないのか」

「出水音に?」

「思わない。寝ても起きてもだらだら毎日同じ風景さ。飽き飽きしてたんだよ、私」

「日常は、場所が変わったって日常さ。あくまでも自分がどう思うか、どう感じるか。自分と対比して、それが現実だったらそれが日常だ。どこへ行っても同じだ」

「いまのこれが日常(・・)?」

「私には、これが日常だ。お前もだ」

「非日常だよ。出水音にいたら、死ぬまで体験できない」

「戦域が拡大すれば、お前の故郷の空に敵の爆撃機が飛んでいくかもしれない」

「爆撃機が飛んできたって、見上げて逃げるだけだ。爆弾が降ってきたら死ぬ。そんなの台風と変わらない。受け身な日常はもっと嫌だ」

「ずいぶんだな」

 私は彼女の口調に驚いた。郷里に対する意識の差かもしれない。いや、いま私たちがいるこの場所のせいか。なんといっても、けっきょく椛武戸の地は、私の生まれ育った北洋州の風土とほぼ同じだからだ。別の地を歩いている気がしない。このまま地続きで柚辺尾に至るのではないかと錯覚してしまう。実際にはさらに海峡を一つ隔てているというのにだ。

「私は、……日常が嫌だったんだ」

「毎日決まった時間に起きて、課業をして、か」

「十八年、嫌で嫌で仕方がなかった。……あの盆地の出口をずっと探していた」

「出口が陸軍だったってことか。そして出てきたわけか」

「いちばん手っ取り早く出てくる方法が、陸軍だったんだ。給料も貰える。社会保障も充実してる。進学して、一般企業に就職するよりも、保障される権利が桁違いだったよ」

「なぜ海軍や空軍じゃないんだ」

「その前、なんで軍に入ったのかは訊かないんだね」

「日常が嫌だった。故郷を抜けだしたかった。それが理由だろう。十分だ」

「もっと訊いてほしかった」

「話したいのか」

「いや、」

 蓮見は苦笑した。

「私は海を知らないもの。空もよくわからない。それに、」

 蓮見は肩に食い込んでいたらしい4726自動小銃の負い紐を正した。ガチャガチャと音がする。チェストハーネスに詰め込まれた予備弾倉だ。

「空はどこまででもつながっているから。出水音の空も椛武戸の空も同じだよ」

「詩的だな」

「詩的?」

「お前の口から、『空はどこまででもつながっている』なんて言葉を聞くとは思わなかった」

「意外?」

「いや、訂正するよ。お前らしい。お前にはそうしたところがあるから」

「どういう意味?」

「南波が言っていた。蓮見はいまでも夢見る少女だって」

「なに?」

「違うか」

「夢なんて見ていない」

「眠ったら夢を見るだろう」

「あんまり記憶がない」

「お前、<PG>だったか」

「違うよ。私は天才(ジニアス)なんかじゃない」

「ジニアス?」

「<PG>の別名。聞いたことない?」

「さらに別名があったとはね。世代の違いかな」

「姉さん。私とあんたでは、そんなに歳、違わない」

「お前は二二歳だろう。私より六歳年下だ。もう別世代だよ」

「そんなの世代に入らない」

「優しいんだな」

「なにが」

「気遣いか」

「私はそんなタイプじゃない」

「確かにな」

 私たちは足元を確かめながら歩いていた。

 ところどころに空薬莢が転がっている。錆びた空薬莢。時折、大口径の薬莢を見かけた。おそらくは、航空機関砲の空薬莢だ。このあたりは百年の昔から、季節のように戦いが巡ってくる場所なのだ。今回の北方戦役が初めてではない。祖父の代から、その前から、この地は帝国と北方会議同盟(ルーシ)連邦との間で小競り合いが続いている。秩序だった平和が訪れた時期は、近代に入ってからほんのわずかだ。そう、この地に訪れる夏のようなもの。一瞬ですぎる。そのあとは、悲しくも美しい秋がやってきて、気づけば青い冬。息も凍える冬。

「お前は夢を見るんだな?」

「見るさ」

「どんな夢を見るんだ」

「……町の夢」

「町? 出水音か」

「違うよ。どこか分かんない町。どこかの町を歩く夢」

「どこなんだ」

「頭の中では、姉さんの言うとおり出水音だったり、碧水(へきすい)だったりするけれど、でも、目が覚めたらどこだったのかわからない」

「碧水?」

「私の自治域の隣の」

「ああ。……高原の街か。帝の御用邸があるところだな」

「『幹鉄』の駅があるから、出水音よりも都野崎に近いんだ」

 そうだ、都野崎からは幹鉄……高速幹線鉄道の路線があった。夏はそれでずいぶん賑わうのだ。

「碧水へはよく行ったのか」

「学校の研修旅行とか、家族で」

「どんな街だ。碧水みたいな観光地、私は行ったことがない」

「けっこう大きい町だよ。温泉があるんだ」

「ああ」

「そういう町を、って言っても、夢の中では碧水だって思ってるけど、夢から覚めたら知らない町なんだ。そういう町を、一人で歩いている夢」

「歩くだけか」

「自分の部屋があったりする。住んだこともないのに」

「住みたかったのか、碧水に」

「そんなこと、思ったこともない。それに、夢から覚めたら、本当の碧水や出水音とは全然違うんだ。街の風景も何もかも」

「でも、夢の中では、自分の街だって思っているわけだ」

「そう」

「そういう夢をよく見るのか」

「見ていたと思う」

「覚えていないのか」

「はっきりとは。……でも、夢だっていうのはわかる。だって、現実の街とは全然違うから」

「夢と現実の街とをはっきりと区別できるんだな、蓮見は」

「姉さんは、違うの?」

 私は一瞬立ち止まる。

 夢について考えたわけではない。方位の確認だ。うっすらと太陽の位置がわかりかけていた。EMPに焼かれていない数少ない機器である腕時計を見る。時刻、午前十時。太陽が見えれば、方位を確定できる。

「蓮見、一時雑談は中止だ。方位、こっちでいいな」

「真南でいいんだね」

「真南だ。海岸線に出たら出たで、稜線の上を行く」

「危険は?」

「こうして歩いていることがすでに危険だよ。国境はまだ距離があるだろうな」

「国境を越えても、友軍に出会えるだろうか」

「蓮見、そういうのはな。疑ったら、負けだ」

 私は太陽と時計で方位を確定させた。いままでの歩みは間違ってはいない。このまま進む。南だ。

「話を戻すか」

 歩き始めて、私が言う。

「まだ話すのか」

「南波に聞いたろう。話すのは嫌いじゃないんだ」

「南波少尉が一方的に話しているのかと思っていた」

「そういうこともあるさ」

「南波少尉とは、どんな話を?」

「あいつとの話は、とりとめがなさ過ぎて覚えていない」

「話さない部族の話は?」

「聞きたいのか。お前、あんまり興味がなさそうだったぞ。それに、あの話をすると長くなる」

「冷たい」

「夢の話と大して変わらない。……ちょっと意味合いが違うが、私はお前が見た夢を正確に理解できないだろう。たとえば、お前が夢の中で歩いた出水音の町と、ほんとうの出水音の町はどう違う? 説明しようと思えばできるだろうさ。ここが違う、あの街並みが違う、見慣れたお城の形が違う、川にかかった橋の長さが違う」

「うん」

「けれど、夢の中ではそれを自分の町だと認識していたわけだよな」 

「そう」

「その感覚の違いってどこからくるんだ?」

「感覚の違い?」

「なぜ夢から覚めて、夢で見た町が、実際にある町じゃないって認識できたんだ?」

「それは、実際の町と違うから」

「でも夢の中では疑わなかった」

「うん」

「その感覚を説明できるか」

 歩く。ゆっくりと、しかし確実に。南へ。霧の濃度が下がってきているようだ。周囲が明るくなり始めていた。太陽の位置がはっきりとわかる。

「感覚」

「そう、感覚だ。……蓮見、立ち止まるな。つらいだろうが、頑張れ」

「わかってる」

「私は都野崎の夢をよく見る」

「学生時代の?」

「夢の中で学生をやっていることもあるし、現在の私が都野崎の街を歩いていることもある。けれど、それは現実の都野崎の街と変わらない。すくなくとも私は変わらないように感じる。……友人もいる。ゼミの教授もいる。私が住んでいたアパートもそのままだ。夢から覚めて、ときどきどちらが現実なのかあやしく感じるのさ」

「それって、危険じゃない」

「時間がたてば、夢のほうを『確実に夢だった』と断言できるようになるんだ。景色は現実のものと同じでも、今の私の感覚と、夢の中の都野崎の風景がずれて感じられるから」

「ずれて?」

「いまの私が、入隊前に過ごしていたあの時間に戻ったとしたら、違和感があるだろう。都野崎の街に、五五派遣隊のフル装備で帰るんだ。いや、こんな格好をする必要もない。いまの私の経験値をそのまま、昔の自分に持ち込むんだ。戦場の記憶だとか、それこそCIDSの起動方法とかな。そういう記憶を持ったまま、学生時代の都野崎に戻るんだ。違和感がないほうがおかしいと思わないか」

「よくわからない」

「いまの知識や経験を持ったまま、たとえば高等科時代に戻ったら? そう考えるんだ。違和感があるとは思わないか。夢から覚めてしばらくすると、現実が私を固定化してくれるんだ。どんなに現実の都野崎の街や、私が住んでいた柚辺尾の街の風景が夢の中に出てきても、それは現在の私が否定するんだ。お前の話を聞いていて、もしかすると、お前が夢の街を歩いた後、ベッドの中で感じる違和感と近いのかもしれないと思った。もちろん違うかもしれないが」

「そうかもね」

「簡単に同意するなよ」

「でも近いと思うよ。夢から覚めて、私は、夢の中の出水音が現実じゃなかったって、すぐにわかる。つながっていないんだ。今の私と、夢の中の風景が」

「けれどそれはすごく感覚的なものだ。論理的に説明できるか? 私はどうしても主観が入れ混じった言葉でしか説明できない」

「うん」

「……南波と話した、文字しか持たない、音声化された言語を持っていない部族の話は、そんな感じの話だ。」

「全然つながらないよ」

「同じことだ。……南波にも話したが、お前は描いてある絵を言葉にできるか?」

「描いてある絵?」

「キャンバスにひまわりの絵が描いてあったとする。説明するなら、『この絵はひまわりです』の一言で終わる」

「タッチが違うとか、そういうのは」

「それは後付けさ。何が描いてあるのかは説明できても、ニュアンスまでを言葉で説明することはできない。ただ一言、『ひまわりが描いてある』。それ以上の何がある? 言葉で説明するならだ」

「それと夢の話が関係あるの?」

「夢で見た光景を、私に、というか第三者に正確に伝えられるか? お前が夢の中で感じたこと……感情も含めてだ。そして夢から覚めて感じる微妙な違和感もセットでだ。私は無理だ」

「うん……難しいかもしれない」

「なぜだ」

「感覚的なものだから」

「描いてあるひまわりの絵を説明できないのは、描いた人間のニュアンスまでを言語化できないからだと私は思う。明るい、暗い、大きい、小さい、色合い、そうした言葉でなら説明できる。それらは絶対的な基準値があるからだ。けれどニュアンスまでは伝えられない。『暗い感じの絵』だとか、『わけはわからないけど嫌な感じがする絵』だとか、そういうニュアンスだな。だからいちばん手っ取り早いのは、その絵そのものを見ることだ。お前や私が自分が見た夢を説明しようと思ったら、説明したい相手に見た夢そのものを見せればいい。自分の感覚もセットで」

「そんなことできない」

「音声化された言語を持たない部族の『言葉』は、そういう感じだろう。絵そのものが意味を持つ言葉なんだ。文字列ではなく。もしかすると、現実の出水音を私が知っていて、お前の出水音時代も知っていて、そのうえでお前が見た夢を、たとえば絵に描いて見せられたら、違和感も感じるかもしれない」

「うん……」

「……南波とはそういう話をしているのさ。これでいいか」

「よくわからないよ、姉さんの話は」

「よくわからない? わからないからいいのさ。真剣に考えないからな。索敵の邪魔にもならない。それとも、蓮見優羽(ゆは)の人生相談室でも始めてくれるか」

「やめてよ」

「いいさ。いずれ、聞いてやる。なぜお前がそんなかわいらしい見た目をしていながら、こんな世界に飛び込んできたのかも」

「それは姉さんだって変らない。出水音で姉さんに出会ったとしたら、誰も姉さんを陸軍准尉だと思わないよ。……図書館司書かなんかやってそうだ」

「なんだそりゃ。私とお前はぜんぜん違うさ」

「違うだろうか」

「お前と私の共通点は、いる場所が同じで、やってる仕事が同じなだけだ。抱えているものは全く違う。私と蓮見だけじゃない。南波も違う。桐生も違う。……みんな違うさ。同じなのは、いる場所とやってる仕事だけだ」

「やってる仕事も違う。階級は同じだけど、私には姉さんのように銃は撃てない」

「……根本は同じさ。戦うのが好きなんだ。私もお前も、南波少尉も」

「それは否定しないよ」

「じゃあ同じだな、みんな」

「さっきは、私と姉さんは全然違うって言ったじゃないか。……姉さんの話はよくわからない」

「だから、」

 霧が晴れてきていた。

「よくわからないのがいいのさ」

 空が青みを増してきていた。

 晴れている。

 いや、晴れる。

 霧が、散っていく。

「蓮見、霧が晴れる。……警戒」

 いままで私たちの進路を阻んでいた霧。しかし、私たちの姿を隠していたのも霧だ。霧が晴れれば、視程は一気に数十倍になる。丘陵の稜線に敵の地上部隊が展開していたら、それで終わりだ。

 風が吹く。

 霧が一気に流れていく。私は伏せた。初夏の、萌える草原(くさはら)に。

 地面はやわらかかった。土。膿んでいない土だ。

 視界のところどころに、白い花弁が揺れていた。

 白い花弁が。

 霧と同化していままで気づかなかった、それはワタスゲの花だった。

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