第8話

   8、


 柚(ゆ)辺(べ)尾(お)市は北部自治域の北洋州本島ではほぼ中央部に位置し、北洋州本島随一の大河、国内でも第二位の延長と第一位の流域面積を誇る対雁(ツイシカリ)川が作った広大な沖積平野に広がる大都市だ。開拓期に計画的に造成された街路はほぼすべてが直角に交わり、ニセアカシアの並木道がまっすぐに続く。街のシンボルは定時定時に鐘を鳴らす時計台だ。街には路面電車が走り、国際冬季競技大会を機に整備されたという古びた地下鉄が三路線。北洋州の州都であり、都野崎以北では最大の人口と経済規模を誇る大都市。私はその柚辺尾の郊外の衛星都市のひとつで生まれ育った。

 街は海岸線を持ってはいないが、対雁川の河口が近く、水と湖沼と森が間近で、だから私は祖父に連れられて、週末は人家もまばらになる草原や森へ出歩いた。……祖父は開拓期からこの地に移り住んだ開拓民で、私が物心をついたころにはすでに名うての猟師だった。大洋戦争に従軍し、敵兵を幾人も血祭りに上げたらしいのは、彼の弟やほかの係累から聞き及んでいたし、実家の居間の片隅のサイドボードには、陸軍が武勲をあげた兵士に贈る勲章がしまいこまれていた。祖父本人は総力戦だった大洋戦争のことはほとんど話さなかった。ただ、必要なときに引き金を引けるのが兵士だと、そのようなことを言っていた。春先に咲き誇る桜の花を何よりも好み、むしろ満開の桜より、吹雪のような花弁を散らすその姿を好んでいたように思う。

 祖父は孫として男の子を望んでいたのだと思う。けれど私は三人姉妹の末妹で、長姉は一回り年が離れており、姉というより二人目の母だった。婿を取り、早々と家業を継ぐと、私とは疎遠になった。次姉は四つ離れていた。彼女は外で遊ぶよりも祖母とお手玉を覚え、裁縫を得意として、高等課程を出ると、同じく柚辺尾の街の有名私立大学に進学し、教職に就いた。

 彼女たちの中にあって、私だけが異端だった。私は外で遊ぶのが何よりも好きだった。本を読んだり、絵を描いたりすることももちろん好きだったが、私は祖父に連れられ、山野を巡るのが楽しかったのだ。祖父も私の性向を見抜いていたのだと思う。初等科に入学し、高学年になると、自らの猟に私を同行させるようになった。

 祖父はライフルの名手であり、銃の扱いに長け、それ以上に自然に対する畏怖を知っていた。一人で山に入るようなことはほとんどなかった。彼はいつも、同年輩の男を連れていた。祖父はその男をユーリと呼んでいた。青い眼、枯れ草のような髪、祖父より頭半分ほど高い背。そして彼の話す言葉を私は理解できなかった。けれど言葉が通じなくても、ユーリの私に向ける眼差しは優しく、私の手を握る彼の体温は暖かかった。彼は北洋州のさらに北……彼らが今「祖国戦争」と呼ぶ北方戦役で私たちが銃口を向ける、彼の国の出身だった。

「昔は、一緒に山に入り、飯を食ったもんだ」

 大洋戦争でも彼らと銃口を交えたはずだが、祖父はユーリにも優しかった。

 祖父は木訥で、友人は少なかったように思う。社交的で明るく、開けっぴろげな優しさがわかりやすい祖母とは対照的で、自宅での祖父は、暖房用の薪を、武士のように黙々と割続け、食事のときも、私たち三姉妹の賑やかなおしゃべりに文句も言わずにそれを聞いていた。祖父もまた、私たちの家では、服飾販売を広く手がける実業家の父……祖父の息子だ……や、華やかで女学生の印象すら未だ漂う母、そして私たちの間にあり、確実に異端だった。疎まれていたわけでもなかったが、長姉も次姉も積極的に祖父に関わろうとはしなかった。

「お祖父様が持ってきてくれるお肉は好きよ」

 次姉はそういって笑っていた。食卓に並んだ肉料理を頬張りながら。長姉も次姉も、その肉が料理される前、血を抜かれ、解体される前……山野を駆け回っていた頃の姿を知らない。おそらく知ろうともしなかっただろう。私はだが、料理が食卓にならぶ一週間ほど前、祖父の引き金に斃れた獲物が、どんな目をして私たちを見上げていたか、それを知っていた。生きるものの命を奪い、それを私たちが戴く、その過程を私は祖父に教えられた。

 なるべく一撃で倒すこと。

 手負いの獣が手強いこと。

 あくまでも銃を持って初めて、私たちが獣たちと対等に渡り合えるのだということ。

 それですらわずかな均衡の崩壊は、容易に私たちの命を奪うのだということ。

 銃弾を撃ち込み、鉈のように大振りのナイフでとどめを刺す祖父の横顔は、いつでも謙虚だった。十二歳の私にも分かった。テーラーで買い求めた上物の背広を着て高級な外国製の自動車に乗り、それでも客を「お客様」と呼んで商売をする父を私は好きだったが、父は謙虚ではなかった。傲慢でも不遜でもなかったが、目で見てわかるほどに自信を身体にまとっていた。祖父が仕留めた獣の肉を食べる父の横顔はただの笑顔で、自然への畏怖はどこにもなかった。

 私があの実家に次第に違和感を覚えるようになったのは、だから祖父の影響が非常に大きい。父も母も長姉も、私が柚辺尾の州立大学に進学するものだと信じていた。成績は悪くなかったからだ。北洋州……さらに北部自治域全体で北洋州州立大学は地域的エリートが量産される学校だった。だから高等課程をあと半年で終えるという秋、私がはるか南、都野崎の帝国大学を受験すると言い出したときは、まったく不思議な顔をしたものだった。

 私は柚辺尾の街を離れたかったのだ。拒絶とは違う。距離を置きたかった。

 吐く息が即座に凍りつき、ダイアモンドダストとして散っていくこの地の冬からも、短い盛夏を惜しむように催される夏至祭からも、緑柱石のような色で満々と流れていく対雁の川からも、何もかもから離れたかったのだ。

 祖父からも。

 私が初めて祖父から銃を渡されたのは、十五歳の時だった。猟場ではない。そこへ向かう途中の射撃場だった。

 その日、祖父は厳重に鍵をかけてあるガンロッカーから、一挺のライフルを取り出し、合計二挺を肩から提げて、車に乗った。

「触りたくなかったら、それでいい」

 射撃場はユーリと祖父、そして私の三人しかいなかった。対雁川を渡る長い長い橋を越え、空軍のレーダーサイトを間近に見上げる山間部の場所。祖父から渡されたライフルは、海外ではベストセラーだというボルトアクション式の七.六二ミリ口径。祖父がいつも携えているのは、国産のライフルだ。村中四七式。無骨な印象だった。

「お前はいつも俺についてきてくれた。お前は銃を知るべきだ。俺はそう思う」

 祖父の銀髪が春風に……あれは新緑の季節だった……なびいていた。静かな目だった。命を奪う者の目。それは本当に静かな色をたたえているものなのだ。

 私は、何もいわず、祖父からライフルを受け取った。

 思えば、このときが私の現在を決定づけたのだ。

 柚辺尾の街を出ること。

 北部自治域を離れること。

 言葉について学ぼうと思ったこと。

 そして、軍隊に入ろうと思ったこと。

 私は運命論を否定する。けれど、転機は必ず存在する。将棋のように。はるか以前の一手が大局を決するように、あのときの転轍機を越えた瞬間、進む道はあるべき方向へ分岐する。そうした運命なら、私はあると思う。

 祖父が私にライフルを手渡したとき、ボルトはホールドオープンになっていた。まず、薬室に弾薬が入っていないかどうか、それを確かめろ。銃には必ず弾が入っているものだと理解しろ。便利な道具だが、使い方次第でどうにでもなる。銃口は破壊したいものだけに向けろ。

 両手で抱えたライフルは重かった。重量だけなら、三〇口径仕様でCIDSに四倍率光学照準器、フラッシュライトにレーザーポインタを装備したヘッツァー4726の方とたいして変わらない。そして銃本体が重いことは、必ずしもデメリット一辺倒にはならない。第一に強烈な反動を受け止めてくれる。しかし、祖父が私に託した銃の重さは、おそらく精神的なものだ。私はその時点で、銃が生ける命を奪う道具だとはっきり自覚していたからだ。祖父は猟師であり、かつての狙撃兵であり、連装式の散弾銃で標的射撃をスポーツとして楽しむ父やその仲間たちとはまったく違った。祖父は錬成を除いて標的射撃などまったくやらなかった。そして消費する弾薬も、標的射撃を楽しむ父よりもはるかに少なかった。私はそんな祖父の姿勢を、なぜか刀の柄に手を当てていながら決して抜かず、じっと時機をうかがう武士……侍の姿に重ね合わせていた。相手に刀を抜かせないための修練。ただし、自らが刀を抜いたときは、眼前の敵を一撃で倒す、古来からの武士の姿。帝国陸軍将校の多くに今も息づく武士の姿だ。

 祖父に直接訊いたことはないが、祖母は言っていた。私たちの家系は、かつての武家政権時に疎外され、幕藩から離脱せざるを得なかった武士の血筋なのだと。本当なのかは分からない。北洋州に入植した民は、そもそもそうした家系がほとんどだ。たいがいがそれぞれの地元にはいられなくなった落ちぶれ武士の類。それに私の家が武家だったのは二〇〇年以上も前のことだ。私は今の自分に興味があるだけで、過去の家系に興味がなかったからだ。けれども、銃を手にした祖父の姿や、ナイフで鹿にとどめを刺すときの眼差しに、その面影を感じていた。

 私には長姉のような商才も、次姉のような人望を集める術もなかったが、やはり、というべきか、射撃に対する抵抗感はまったくなかった。ただ、上達したかと言われれば、私は今でも射撃は苦手だ。私が姉妹の中では異端だったように、祖父も猟師の血を引いているわけではなく異端だった。私の中には狙撃兵の血もなく、猟師の技量もなかったと思う。それでも祖父は私に銃を教えてくれた。三〇〇メートル先の標的は小指の爪よりも小さかったが、射撃を続けるうちに当てることはできるようになった。引き金を引く。反動と銃声が暴力的に射手を襲い、遅れて標的に弾丸が命中する金属音。標的は命中が音でわかるように鉄でできていた。

「射撃の腕の上手い下手は、どうでもいいのさ。お前は、殺すってことを分かってる」

 祖父とユーリと三人で実際に山に入り、獲物を探して歩き始めた頃、祖父が私に言った。

「でも、ぜんぜん上手くならないよ」

「的には当たるじゃないか。錬成すればいい。針の先を狙う必要はない。お前は、自分が銃を撃てば、それがきちんと獲物に当たるのだとわかるようになればいい。それが自信だ。当たるかどうかもわからないままの技術程度で銃を持つ方がよっぽど危険だからな」

 そう言う祖父と森を歩いた。森の中は静かで独特の匂いがする。射撃場での標的なら、三〇〇メートル先に確かに存在する。見れば分かる。けれども、森の中の「標的」は、どこにあるのかが分からない。なにが標的なのかを見極める技術が要求された。

「そっちの技術の方が難しい」

 祖父は中腰になり、笹藪に半身を沈め、じっと森の中に目を凝らす。風上から歩くな。そんなことを言いながら。

 祖父は銃に光学照準器(スコープ)を取り付けずに森へ入ることが多かった。最初は私の銃にもついていなかった。簡素なアイアンサイトだけ。しかしそれで祖父は三〇〇メートル先の鹿を仕留めた。頭を狙わないのは、即死させず、心臓を動かし続け、全身の血を抜くためだった。そしてナイフでとどめを刺す。

「お前、やるか」

 祖父はギラギラと生々しく光る解体用のナイフを私に渡した。祖父自身が砥石をかけて、生き物の肌のような艶めかしさを持つナイフだった。私は十六歳になっていた。

 私は射撃を始めてまだ一度も獲物に弾を当てたことがなかった。森の中で発砲もできなかった。私には獲物がどこにいるのか分からなかったからだ。第一撃を放ち、獲物を仕留めるのはいつも祖父の役目だった。

「私が、」

「できるか」

 つぶらな目。

 鹿は息も絶え絶え、私たちを見上げていた。今失われようとしている命が目の前にあった。

 祈る必要はない。

 神様を孤独にしてはいけない。

 口に出さなくても、心が伝わるように。

 もしかすると、祖父はこの地の先住民(イルワク)たちとも交流があったのかもしれない。あるいは祖父に猟を教えたのは彼らではなかったか。祖父は帝が祈るような物語に彩られた神を知らなかった。知っているのは木々や川や動物たちに宿る、たくさんの「かみさま」だけだった。

 私はナイフを持ち、祖父に示された急所に刃を突き立てた。

 悲しくはなかった。

 怒りでもなく、もちろん恍惚であるはずもなく、私の心は不思議とフラットだった。

 躊躇いもなく、私は鹿の急所にナイフを突いた。

 あっけなく。

 あまりにもあっけなく、鹿は目を閉じた。

 息も絶えた。

 体温は残っていたが、森の中で、私がひとつの命を奪った。

 その後、鹿を森から運び出し、祖父とユーリが鹿を解体した。真冬は湯気が上がるのだという。あたりは血の臭いでいっぱいになる。森の中で解体すると、いらぬ動物たちを呼び寄せてしまう。命を奪ったことをあけっぴろげに知らしめる必要はない。祖父とユーリはひっそりと鹿を解体した。私も手伝った。両手が血で染まった。

 私が猟に同行することを、はたして父や母や長姉が賛成していたかというと、そんなはずはなかった。遠回しに、私ではなく祖父を責めていたと思う。私が自分の銃で獲物を仕留めるようになった頃、そんな雰囲気を感じた。

 私は祖父を擁護した。私が望んで森に行くのだと。母が悲しそうな顔をしていた。父が首を振っていた。長姉が眉を顰めていた。

「いい、俺が始めたことだ」

 祖父は低く言うだけで、言い訳もなにもしなかった。私は十七歳になっていた。

 私は祖父が好きだった。父よりも好きだった。父は嫌いではなかったし、その商才を尊敬もしていた。言葉の使い方が上手く、言葉を使って商売をしていた。祖父は言葉を操るのが上手くない。多くの言葉を駆使して自分を表現しようともしない。まるで引き金で主張しているようだ。でも数少ない祖父の言葉一つ一つを、私は取り逃さないようにしっかりと掴まえた。

 そんな祖父だったが、たった一度、私は祖父と意見が対立したことがあった。

 それが祖父の優しさだったのかどうか、今でも私には答えが見つからない。

 十八歳になった頃だ。私は高等課程の三年生で、すでに進学先を都野崎の帝国大学に絞り込んでいた。名実共に、この地を離れる決心をしたあとだ。都野崎へライフルは持っていけないから、私は猟からも離れる決意をしていた。

 秋の日だった。祖父とユーリ、私で森に入った。

 見事な紅葉だった。

 済んだ青空と、不純物が何もない空気はずっと遠くまで見渡せた。山の頂は真っ白に雪化粧。ユーリの瞳が空の蒼さを写しているように見えた。丘陵と森と。本当にきれいだと思った。

 私はM七〇〇ボルトアクションライフル、祖父は村中式。ユーリはいつもライフルは持たないが、マグナム弾を装填した長銃身のリボルバーを腰から提げていた。クマ対策だ。冬に備えたクマはいま、目の色を変えて食べ物を集めているに違いない。ふだんからユーリはリボルバーを持っていたが、秋になると右手は常に銃に触れていた。

 その日も鹿を追っていた。

 祖父が弾薬の消費も少なく、猟の成功率が高いのは、遠距離射撃をしないからだと気付いた。わずか三年では私には身につくはずもない技術だ。敵をアウトレンジするのは容易いが、仕留めるのは難しく、リスクも高い。目標に接近して撃てば、弾の威力も高いまま、そして命中精度も上がる。祖父は風下から上手に獲物に接近し、そして仕留めるのだ。

 ユーリは勢子役を引き受けていた。私が先頭で、祖父が続く。森の中には木イチゴの類がたくさん実っていて、時々つまんで食べたりした。おいしかった。

「いた、」

 おそらく祖父は私が見つけるのを待っていたのだと思うが、しびれを切らして私の肩を軽く叩き、そして示した。あまり身体の大きくない鹿が、向こう五十メートルほどの斜面にいた。こちらには気づいていない様子だった。

「やるか」

「うん」

 まだ遠い。祖父はそう感じただろうが、私はいまが好機だと思っていた。

 左膝を立て、そこに左肘を載せ、銃を保持する。銃床を右肩胛骨のあたりに当て、右手の人差し指はまだ用心金の外だ。照星と照門を合わせる。呼吸を落とす。口をそっと開けた。息を吐きながらの方が、不思議と命中率が高かったからだ。

 鹿はまったくこちらに気づいていない。

 右手。

 引き金に人差し指を当てる。

 引き金とはいっても、指で引くわけではないのだ。撃鉄を落とすための動作。そう思って、指を動かす。狙う私は、両目を開いたまま。片目を閉じてはいけないと教わった。

 発砲。

 七.六二ミリは反動が大きい。わずかな時間で速射するのは、ボルトアクションの性質からも無理だ。だから一撃必中が要求される。

 反響。銃声は思った以上に拡散するのだ。

 硝煙。当たった。

 斜面に鹿が倒れていた。私は吐き続けていた息を最後まで吐き出し、そして吸う。秋の日の冷たい空気が肺に染み渡る。立ち上がり、歩もうとしたとき。

「あ」

 動かなくなった目標。その傍らに、駆け寄る何かの姿があった。

 子どもだ。子鹿。息絶えようとしている……おそらく母親に駆け寄り、懸命に顔を寄せている。初めてだった。親を撃った。五〇メートルもない先の斜面で、子は親に呼びかけていた。仕草で分かった。言葉がなくても。言語がなくても。

 私は目を背けず、その様子を見た。

 そして。私は身体を落とした。

 片膝を立てる。左肘を乗せる。ボルトを引き、排莢。次弾装填。構える。私は子鹿に狙いを付けた。人差し指を、引き金に……。

「よせ、やめろ」

 祖父の声だった。初めて聞く声音だった。

「なぜ」

 私は構えたまま言う。

「殺す必要はない」

「どうして」

「お前こそ、なぜ撃つ必要がある。一頭で十分だ。……子どもは逃がせ」

「かわいそうだ。……皆殺しにする」

 私はそう言ってしまった。

「馬鹿なことを……」

「お祖父ちゃん」

「やめろ。無用な殺生はするな」

「あの子、生きていても仕方ない。親を殺されて、悲しそうじゃないか」

「ならば殺していいのか」

「その方が、あの子のためだ」

 私の視界で、まだ子鹿は母親の横にいた。

 はたして鹿の知性が、親子の情を解するのかどうか、それは分からない。ただの本能的動作なのかもしれない。が、子鹿は顔を母親に寄せ、何度も足踏みをし、周りを歩いた。

「今なら、」

「やめろ」

 祖父は言うが早いか銃を構え、親子から離れた斜面へ向けて発砲した。

 反響。銃声に驚いた子鹿は、一瞬私たちに顔を向けると、跳ねるようにして母親の元を離れた。

 銃声。祖父が第二弾を発砲した。子鹿わずかな躊躇いはそれで霧散した。子鹿は一目散に母の元から駆けだした。

「お祖父ちゃん」

 私は構えをといた。

「それは、間違いだ」

 漂う硝煙の匂い。祖父が私を見下ろしていた。叱られると思った。

「それは、優しさではない」

「でも」

「それは、違うよ」

 低い声だったが、刺々しくはなく、私を非難する口調でもなかった。

「殺す必要はない」

 ユーリも私を見ていた。私は、じっと祖父を見上げた。答えが分からなかった。今でもそうだ。あのときの私が間違っていて、祖父が正しかったのか。それとも逆か。

 私があの子鹿だったなら。そう思った。私があの子鹿だったなら、いっそ射殺された方が幸せだったに違いない。

 それから、しかし祖父は私を避けるそぶりもなく、あらためて諭すようなこともなく、冬になる前に三人でまた二度ほど山に入った。別の親子が私たちの目の前に現れることもなく、あのときの子鹿に出会うこともなかった。

 私は間違っているのだろうか。

 ボルトアクションの古びたライフルから、衛星との通信機能まで奢られた自動小銃に持ち替えてもなお、私の疑問は晴れないのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る