第3話

   3、


 保呂那(ほろな)川の川幅は三百メートルほどで流れは緩やかだ。低湿地が広がるためで、海も近い。数万年前の温暖期には、辺り一帯は海底だったようだ。

 戦車部隊から別れて私たちはまだ国道を南下していた。徒歩での移動だから、車両でなら五分程度の距離を一時間以上かかる。西から広がりつつある雨雲はすでに頭上いっぱいで、いつ雨滴が落ち始めても不思議ではなかった。空気に水の匂いが混じっているのは、目の前の保呂那川や湿地だけのせいではないはずだ。空気に混じる水の匂いは、はっきりと雨の予兆だった。私と南波は、もう昨日から続いている雑談をする気力もかなり失せていて、しゃべる気力を、周囲の警戒に振り向けていた。CIDSやパーソナルマーカーの発信から、私たちの位置を本隊は間違いなく把握しているはずだが、いまだ何の連絡もない。自力で帰れ、そういう意味か。

 赤外線をほとんど放出しない特殊素材で織り込まれた戦闘服もすっかり薄汚れていた。もともと夜間戦闘や隠密作戦に適した色調の迷彩だから、真っ昼間の国道上を移動していると目立つ。ほかの陸軍兵士が装備する迷彩色ともパターンも違うため、森の中や茂みの中でもあまり迷彩効果がない。

 蓋をしたような分厚い雲の底から、ぽつりぽつりと雨が落ち始めていた。

 葉を広げはじめたフキや、森の木々の葉に雨滴がはね、簡易舗装の色がゆっくりと変わっていく。まずい、と思った。私たちの装備……特に戦闘服は防水機能がない。この気温で雨に打たれたとすると、瞬く間に体温を奪われる。体温を維持するのに必要なのはエネルギーだ。高カロリーの食料がなければ、私たちは行軍することもできなくなる。

 やむを得ず、雨宿りを南波に……南波少尉にリコメンドしようと思ったとき、風の音や雨音とは異質の、爆音と呼んでさしつかえのない暴力的な音があたりに響いた。雷鳴に似ていたが、長く尾を引いている。雷鳴でも爆発音でもない。南波はすでに身を伏せていた。もちろん私も同時に同じ姿勢を取る。

風の音や雨音とは異質の、爆音と呼んでさしつかえのない暴力的な音があたりに響いた。雷鳴に似ていたが、長く尾を引いている。雷鳴でも爆発音でもない。南波はすでに身を伏せていた。もちろん私も同時に同じ姿勢を取る。

「なんだ、」

 私は<野生の勘(CIDS)> を保持している南波に確認する。

「脅威としての警告は来ていない。友軍機じゃないか、」

 音の発信源が航空機であることは間違いがない。

「北からだ、」

 北から。北から飛来する航空機は、敵か味方か、脅威対象でなければ味方機だ。

「見えた、二七〇」

 私は絶対方位を叫ぶ。CIDSを用いなくても、実は南波より私の方が視力は上だった。

「俺も見えた」

 CIDSが捉えると、戦闘情報が付加されるので今度は南波が有利になってくる。

「黒煙を曳いてる」

 かなり距離はある。が、飛び方がおかしい。あの黒煙は、ジェットエンジンの排気ではなさそうだ。

「被弾してる」

 南波が言う。CIDSが光学補正をかけたか、サブ窓に衛星からの情報を表示させているか。

「一機、六四式だ」

 私にもわかる。空軍の六四式戦闘爆撃機。原型機は制空戦闘機として設計されたが、その拡張性の高さと機体規模の余裕の大きさと、制空戦闘能力の相対的低下から、戦闘爆撃機として再設計された機種だ。左主翼後方から黒々とした煙を吐き出している。エンジンは生きているようだが、双発エンジンのどちらかはおそらく死んでいる。

「左の水平尾翼がない、主翼にも穴が空いてる……下からやられたな。あれは墜ちるぞ」

 南波が伏せたまま言う。

「姉さん、ここはまずい」

 肉眼でも垂直尾翼に描かれた部隊マークや機種の機体ナンバーが読めそうな距離に来ていた。恐ろしく高度が低い。低空侵入を得意とする機体ではあるが、明らかに安定を失っている。息も絶え絶えという様子が見てとれた。

「あ、」

 国道の盛土に伏せ、見上げたところで六四式戦闘爆撃機は最後の力を振り絞るように機首を空に向けた。対地速度はほとんどゼロに近い。失速だ。黒煙の元から火が出ている。機体後部はほとんど炎に包まれていた。そのまま機首が上を向いたまま、尻から墜ちる。針葉樹林帯と、やや川幅が広がった保呂那川。おそらく機体は川に墜ちるだろう。それを予期した鳥達が一斉に羽ばたいていた。

「まずい、爆装してる。投棄しなかったのか、」

 機体の腹には、攻撃で使い切らなかったか、あるいは使い切ろうとした矢先に被弾したのか、自由落下式の爆弾……GBU-4……が何発かぶら下がっているのが見えた。私も南波も、頭を抱え、背を丸めて、盛土に伏せた。機体が後ろ向きにゆっくりと墜落をはじめたとき、キャノピーが吹き飛んだ。ここまでなんとかだましだまし機体を制御してきたパイロットが、とうとう万策尽き、機体を捨てる決心をしたのだ。続いてコクピットから座席が射出された。そこから先は私は見ていない。首を守るため両手で頭と首をしっかり押さえて、口を開き、耳もふさぎ、口を開いた。近い。衝撃波でえらいことになる。

 爆発。

 地面がはっきり揺れた。耳をふさいでいても、凄まじい音だった。耳というより、私の身体そのものに音圧として伝わってくる。全身を張られたような衝撃波。続いて、驟雨のような水しぶき。顔を上げることができない。何が降ってくるかわからない。機体の破片が命中しないことを祈った。

「姉さん!」

 素早く、南波が私に覆い被さってくるのがわかった。バラバラと何かが降ってきている。金属音。おそらく機体の破片。バシャバシャ音を立てるのは川の水、泥炭、あるいは魚。

 あまり長い時間ではなかったと思う。南波が伏せていた身体を起こし、私も目を開けた。とっさに全身を確認する。耳に蓋をされたような違和感と強い耳鳴りがあったが、音は聞こえる。視界も問題なかった。南波も同じように全身を点検していた。炸薬が燃えた独特の臭いと、航空燃料の臭い。そして、川底から巻き上げられた泥の臭いがする。

「姉さん、」

 南波がこちらを見る。俺の目は大丈夫か、俺の耳から血は出ていないか、俺の口から……、白目と黒目のくっきりしたいつもどおりの南波の目がそういっている。私も同じように南波に訊ねる。私の目は破裂していないか、両手両足はくっついたままか。

「近かったな、」

 半身を起こして、南波。それでもまだ距離は離れていた方だったかもしれない。二人とも破片の直撃も受けず、衝撃波で致命傷を負うこともなかった。川面は大きく波立ち、澄んでいた水は濁っていた。針葉樹林が一部なぎ倒されていた。

「パイロットだ」

 南波が顔を上げた。鉛色の空に、パラシュートが二つゆらゆら揺れている。六四式戦闘爆撃機は二人乗りだ。

「行こう、」

 南波が素早く立ち上がり、駆け出す。風は弱いが、二つのパラシュートはゆっくりと流されている。ひとつは国道からさほど離れていない草原に降りそうだが、ひとつはそのまま湿地を越えて川に落ちる。

「入地准尉、走れるか」

「大丈夫」

「安心した」

 一人が着地した。もう一人が時間差で着水した。

「生きてるな、」

 南波が国道脇に着地した一人に駆けていく。しっかりと両足から着地して、パラシュートに引きずられながらもコードを切り離そうとしている。もう一人は……、

「南波、」

 着水姿勢もなにも考慮されず、まっすぐに落ちた。そして、そのまま浮かんでこなかった。意識がないだけなのか、あるいは……。わからなかった。

「遠すぎる、ダメだ……」

 ボートも何もなく、一人が着水した位置は、岸から距離があった。水温やこちらの装備を考えると、二次遭難のおそれが考えられた。

 草原脇に着地したパイロットに駆け寄る。

「大丈夫か」

 南波がパイロットの肩に手をかける。飛行服姿に航空ヘルメット。マスクをつけたままだが、ヘルメット・バイザーが割れていた。割れた隙間から目が見える。薄い茶色の瞳。

「大丈夫、」

 パイロットが答えた。マスク越しのくぐもった声だが、……女だった。飛行服のネームを見る。伊来中尉。階級章を見て、一瞬だけ南波が複雑な表情をした。この瞬間から、伊来中尉が上官になる。

 伊来はパーソナルシュートを切り離し、ハーネスの類を解き、マスクをはずした。見ると、飛行服の背中側に血の飛沫が散っていた。

「けがはないか、」

 南波がそれに気づいて訊く。

「私の血じゃない」

 はっきりした口調。やや細い声だったが、力が入っていた。

「後席のWSO(ウィゾ)だ……」

「とりあえず、立てるか」

「立てる、大丈夫」

 南波が差し出した手を無視して、伊来は立ち上がる。

「陸軍……五五派遣隊の南波……少尉だ」

 立ち上がると、伊来中尉は私よりも小柄だった。おそらくパイロット資格を得るには最低限の身長だろう。だが強い目をしていた。

「なぜこんなところにいる」

 挑戦的な目をしていると私は思った。もしかすると、彼女……伊来中尉は屈辱を感じているのかもしれなかった。そうかもしれない。乗機を墜としたのだ。クルーとともに。

「作戦行動中」

「たった二人でか」

 伊来中尉が私を向く。階級はいちばん上だが、おそらく年齢は一番下だろう。そう思う。

「仲間はいたさ。たくさん。あんたと同じさ、でも今は二人だ」

 南波はこういうときの口調が軽すぎる。

「相棒は……」

 伊来が歯切れ悪く言う。南波に対して彼の相棒は、という意味ではない。ようするに私のことを言ったのではなく、彼女自身の相棒を指しているのだ。WSO……戦闘爆撃機の兵装士官。彼女の後席。

 南波は言葉では答えず、もう一つのパラシュートが着水した水面を、右手の大きい動作で示した。泡立ち波立っていた水面はもう落ち着いていた。オレンジと白のストライプ模様のパラシュートが波間に漂い、萌葱色のマーカーが水面を染めている。その様子を見ると、伊来中尉は硬く唇を結ぶ。

「気の毒だ」

 南波。

「いや……、墜ちる前から、致命傷を負っていた。なんとか基地までたどり着きたかった……私の責任だ」

 伊来はそれっきり口をつぐみ、パーソナルシュートに付属しているサバイバルキットやビーコン発信器を集めに廻る。私と南波も続いた。

「構わないで。一人でできる」

「気にするな、」

「食料が目当てならくれてやるよ」

「勘違いしないでくれ、友軍(フレンド)だろう、」

 サバイバルキットに付属している自動小銃を手に取る伊来。機甲部隊向けのと同じ、Kタイプの4716。光学照準器はついていない。

「銃、撃てるのか」

 南波。やめておけ、私は目配せをしたが、彼の態度は変わらない。軽薄なのだ。こういうときに。

「訓練は受けている」

「俺たちに任せろ、」

「つきまとわないでくれ」

「南波、よせって」

 どちらにしろ、彼女の装備は私たちのものと比較にならない。せいぜい数日分の非常食と、私たちのものより出力の大きなビーコンがある程度で、防弾機能皆無の飛行服に予備弾倉一本の自動小銃。信号弾も用意されているが、基本的には「待ち」の体勢だ。私たちが有利で「頼れる」存在なのは明白だった。

「伊来中尉、」

 私がしゃべるしかない。

「五五派遣隊北洋州分遣隊の入地准尉です」

 伊来が私を向く。

「私もあなたも、立場はたいして変わらない。私たちも作戦中に装備をかなり失い、救援を受けることができなかった。ここから拠点まではまだ距離がある。一緒に向かいませんか」

「それには及ばない。空軍の救難機が来る」

 パイロットはそれを信じて飛ぶという。残念ながら、陸軍の特殊作戦隊とはいえ、私たち一人の命の重さと、パイロット一人の命の重さを天秤にかければ、費用対効果でパイロットの天秤が大きく傾く。パイロット一人を養成するのにかかるコストは、戦車一両に相当するのだ。機体は再建すればいいが、パイロットを失うことの損失は計り知れない。だから、空軍はパイロットを決して見捨てない。

「伊来中尉」

「私はここで救難を待つ。装備もある」

「夜は冷え込みますぜ」

「訓練は受けている」

「一緒に行きましょう、伊来中尉。このまま歩けば、日が暮れるまでにはいちばん近い拠点にたどり着けそうだ」

「俺たちと一緒の方が安心できると思うがな」

 お前は黙ってろ、言いそうになったが、仮にも少尉に対して准尉がそれを言ってはおしまいだ。伊来中尉の手前、まずい。彼女たちパイロットはエリートだ。私たちのように地べたを這いずり回る人間とは違う。感性も考え方も違うはずだ。その若さが何よりのエリートの証だった。

「ビーコンを持って行けばいいんです。南波少尉が持ちますよ」

「おい、」

「行きましょう。ここは寒いです」

「なぜ君らはそう急ぐんだ、」

「私たちはまだ作戦行動中です。拠点に戻って、次の任務がある」

「私もだ……」

「上空から見えていたかどうか、この道路はいちおう国道です。たどり着けますよ」

 できるだけ慎重な口調に努めた。こういうとき、同盟国の例の装備……<THINK>と私たちが呼んでいる装置があったらどうなっただろう。私の考えが彼女にすべて伝わっただろうか。別に見捨てて行ってもよかったのだ。本当に救難機はここまで来るだろう。

「失礼ですが、被弾したのはあなたの戦闘機だけでしたか、」

 訓練機が基地の近くの海に墜ちるのとは違う。作戦行動中の戦闘爆撃機が、戦闘地域で被弾し、墜落したのだ。被弾する機体は彼女の機だけではない。救難隊がいつ彼女を拾い上げに来るのか、今日中なのか一週間後なのか、私は保証できないと思った。以前出会った元空軍パイロットのことを思い出した。救難を待ち続け、死の世界を覗いてしまった彼……私が軍人になるきっかけのイメージを語った元パイロット。

「わかった、」

 伊来は短く嘆息した。そして、かぶっていた航空ヘルメットを抜ぎ、パラシュートのそばへ放った。そして、サバイバルキットから、非常食を私に放った。

「陸軍のハケンなら……風連奪還戦に参加したのか、」

 伊来が訊く。「ハケン」で通じてしまうところが私たちの部隊の因果だ。もう少しまともな符牒が与えられればよかったのにと思う。

「まあ、そんなとこだ」

 南波が答える。

「私は第二航空団第八飛行隊の伊来中尉」

「行こう、」

 南波が言った。

 伊来は栗色のきれいな髪をしていた。ヘルメットを抜ぐと、肩まで伸ばした髪が風に舞った。彼女は数時間前まで、安全が確保された空軍基地にいたのだ。

「食べなくていいのか、」

 南波が、私に放られた非常食を見て言う。

「私は、今朝基地でしっかり食べてきた。君らにやる。風連奪還戦は一週間前だった。君らはずっと作戦行動中だったんだろう、君らの方が必要だ」

「全部はいりません。あとできちんと分配しましょう、中尉」

 私が言うと、南波はビーコンを拾い上げ、チェストハーネスに挟み込んだ。スリングを直し、私に目線で合図をくれる。出発しよう。

 サバイバルキットはたいして重さもなかったが、私たちがバックパックを失っているため、どうしても搬送にかさばった。非常食は三人で分配して、国道をさらに南下する。

「伊来中尉、」

 歩きながら私。先頭は南波、二番手が彼女、最後尾を私。装備や戦闘能力からすると、パーティの順序はこうなる。もっとも白兵戦に弱そうなパイロットを前後から守る形になる。

「なんだ、」

「今日の目標はどこだったんです」

「機密だ」

「話してくれよ、」

「なぜ陸軍に言わなければならない」

「どうせ戻ったらわかるんだから」

「では戻ってから確認すればいい」

「縫高町ですか」

「あそこにもう軍事目標は何もない。支援戦闘機(FS)叩きつぶしたから」

「対空砲火でやられたのですか」

 南波は前を向いたまま。

「低すぎたんだ。……遊佐が警告してきたのに」

 伊来は淡々としゃべる。もしかすると……、彼女は相当強い調律(チューニング)を受けている。パイロットは私たちとはまたまったく違う強いストレスにさらされる。それを緩和させるというより、意識させない方向で補強が入ると聞いたことがある。そのかわり、常に精神的抑制と補強をかけ続けなければならない。さもないと破綻する。だから、戦闘機のパイロットは、彼ら彼女らが駆る戦闘機と同じように、整った設備でのメンテナンスが欠かせない。「任務の話は、またにしましょう、伊来中尉」

 私の前を行く伊来の背中。派手に散った血しぶき。後席に乗っていた彼女のクルーは、座席が射出される前にきっと絶命していたに違いない。コクピットに命中弾があったのか、破片がキャノピを貫いたのかはわからないが。

「空軍のパイロットから聞いたことがあります。あなたが知っているかどうか、」

「なんだ、」

「拠点まで歩く、その時間つぶしだと思って聞き流して下さい。たいした話ではないんです。だから真に受けないで」

「わかった」

 パラパラと雨が落ちてきていた。飛行服姿の伊来はやはり寒そうだ。私たちは彼女の機体の墜落で水しぶきを派手に浴びていたから、すでにかなり寒かった。

「第一次北方戦役での話です」

「ずいぶんと前の話だな、」

「十五、六年前か」

 先頭の南波。しっかりと話を聞いている。

「そのときに戦ったパイロットたちの間で話されていたことです」

「空軍の」

「ですね、空軍の。……伊来さん、『死後の世界』ってあると思いますか」

 雨音。

「死んだらどこへ行くのか、気になったことはありませんか」

「そんな話は今したくない」

「暇つぶしです。聞き流して下さい」

「気になったことなんかない」

「もし『死後の世界』……天国があるとしたら、」

 南波がどんな気持ちで私の話を聞いているのか何となくわかった。……また始まった。これだ。

「天国があるとしたら、どんな場所だと思いますか」

「知らない」

「おおむね、『天国』というくらいだから、それは空の上にあると思われてる。これって、世界的にはなかなか普遍的なイメージなんですよ。逆に云うと、普遍的すぎて陳腐だけれど、」

 足音。

「帝国の宗教でも西方の教えでも、死者が天へ上っていく宗教画がいくつもあります。だいたい空の上に天国があると思われているわけです」

「毎日飛んでいるが、そんなものはなかったよ」

「そうでしょうね。私もそう思います。けれど、どうして『死後の世界』のイメージが、時も場所も隔たって共通、というか普遍的なんでしょう。不思議だと思ったことはありませんか」

「そんなことは考えたこともない。……陸軍ではそんなことをいちいち考えながら作戦を行うのか」

「姉さん、俺たちが誤解される」

「伊来中尉、人間の頭の中には、そういう『天国モード』がプリセットされているんじゃないかって、私はときどき思います。あなたはどうです?」

「私は死後の世界なんて信じない。私は神様を持たない。そんなものがいるなら、戦争なんて起こらない。違うか」

「宗教論をしようなんて話じゃないんです。ただ私は、『天国』って言葉に、なぜ空の上がいつでもどこでも想起されるのかが不思議だと思っているんですよ。海の底が天国だとか、そういう文化もあるでしょうし、洞窟の奥には神々の世界が広がっているなんて神話を持っている文化もありますけど、けれど、だいたい、世界的に普遍なのは、やっぱり空の上には死後の世界への入口があるっていう、ごくごくシンプルで、しかも陳腐なイメージなんですよ」

「なんとなくそれはわかる気がする。入地……准尉、君も空を飛んでみたらわかる。雲の上には、確かに神様がいるような気はする。でもそこが天国だとは思わないけど」

「おや、伊来中尉、」

「南波、茶化すなよ……失礼、南波少尉」

「よろしい」

「私は戦闘機には乗ったことはありませんが。輸送機から空挺降下する前、空を見て、たしかに『天国があるとしたらこういう場所かもしれない』と思ったことはあります。縁起が悪いのであんまり考えないようにしていますが」

 塗り込めたような空。直視していると酔いそうなくらい白い雲。遥か高空を漂う彩雲、雲に落ちた輸送機の影と、それを囲む虹。地上の猥雑さなどかけらもない世界。

「お前そんなこと考えながら飛んでいたのか。勘弁してくれ」

「南波、ちょっと黙っててくれないか。雑談だけど、いちいち合いの手を入れないでくれないか」

「そいつは失礼。リード・オンリー・モードに移行するよ」

 私が言うと、伊来がくすりと笑った、ような音が聞こえた。

「でも、ほかにもイメージがあるんじゃないのか」

 伊来が言う。

「どんなですか?」

「……花が咲いてるとか」

「なるほど」

「川を渡るっていうのもある」

「だから棺に硬貨を入れる風習がありますね」

「光が満ちた世界」

「そうですね。暗い天国はイメージとして斬新だけれど聞いたことがない。真っ暗闇のじめじめした天国なんて、聞いたことがないですよね。斬新だけど」

「斬新……そうなのか?」

 南波がにやりと言う。

「南波……少尉、なにかほかのイメージでも?」

「昔読んだことがあるぜ。さっき姉さんも言ったじゃないか。巨大な洞窟を住居にしている部族があって、その彼らの宗教では、死者は洞窟の奥に送られて、地下の世界で蘇るっていう系統の話だよ。海の底の天国の話は知らないけどな」

山岳地帯で発達した文化を持つ民族で散見される話だ。南大陸の少数民族などがその典型で、洞穴の多い地形で発達した文明を持ち、だから建築技術はほかの文明と比べてもつたなかったが、建築に労力を割かなくてもよい分、文化的な面で特筆すべきものをいくつも残した。大規模な壁画は、中世の西方教会に描かれた宗教画にも匹敵する彩色と筆致で研究者たちを魅了する。自然光の届かない洞窟内で、たとえば松明やろうそくの灯りだけで正確な彩色が行われたことも驚嘆すべきことだが、彼らの「神話」は、地下世界と深く関わっていることがめずらしい。そう、「地下の世界の天国」だ。

「俺は何度もケービングをした。訓練でだけどな。けど、あれは人間の住む場所じゃないな。湿度は高い。コウモリだの地を這う無数のゴキブリだの、それを食らうやたらと足の生えた虫だの、得体の知れない気色の悪い生き物の巣窟だ。なにより健康によくないぜ。お天道様がそばにいてくれないと、俺はダメだな。人間は夜行性の動物じゃないってつくづく思い知る」

「私もそう思うな」

 伊来の口調が砕けてきた。やはり彼女は私たちよりも年少なのは間違いない。少女の面影が見え隠れする。するとやはり彼女はエリートだ。パイロットの目は共通して子どものように澄んだ色を持っているが、伊来中尉のそれは別格に思えた。ことによると、遺伝子的エリートなのかもしれない。

「それにしても、南波少尉。洞窟の中に天国なんて、私は初めて聞いた」

 例外的な分類だと思います。南大陸の話だと、地下洞穴が網の目のように発達していたその特殊な立地から、生活範囲がどうしてもほかの民族より偏っていたから。そういう生活をしていれば、身近な場所から天国が続いていると考えても不思議ではないかと。私たちの国でも、山がちな地域だと、伝承として、山の奥のどこかに死者の国があると言われているし。

 けれど、やはり多くの民族では、天国は地の底ではなく、空にあることが多い。伊来中尉が言うように、花畑があったり、北方民族だと、氷の世界の向こうに安寧の地があると信じられていることもあるけれど、それでもやはり光に満ちた世界だと」

「イメージが貧困なのかね、人間は。それこそ、姉さんの言う『天国モードプリインストール状態』ってことかね」

「由来はなんとなくわかるよ。人間が死の直前に、というか、死に直面するような極限状態で見る幻覚のことだろう」

 伊来がためらいがちに言う。

「そうですね。いわゆる、臨死(ニア)体験(デス)という、極限状態で脳に麻薬によく似た物質が分泌されて苦痛を緩和する。その副作用的に、みな同じようなイメージを得て、それがおそらく全世界で普遍的な天国イメージができあがったのではないかと、そう言われていますね」

「言われていますねってことは、お前の意見は違うのか」

「例外があるってことは、ちょっと違うんじゃないかと思うわけだ」

「どういうこと?」

「伊来中尉、立ち止まっちゃダメですよ。疲れたら休憩します。あと一時間、行きますよ」

「すまない」

 雨脚は強まることはなく、ぽつりぽつりと私たちの肩を打つ。

「そこで最初の命題に戻るわけです……天国は、死後の世界は本当にあるのかどうか」

「ないだろう。あるわけない」

 南波が即座に否定する。

「私もそう思う」

 伊来中尉も同意する。

「ないでしょうね。そう考えるのが合理的ですから」

 私も同意する。

「話が終わるじゃないか」

「いや、そこで十五年前の北方戦役の話です」

 十五年前に一旦停戦した第一次北方戦役。帝国と北方会議同盟(ルーシ)連邦との資源紛争に端を発し、結局北部自治域からシェルコヴニコフ海沿岸全域を巻き込んだ大戦争に発展した。北緯五〇度からさらに北、そしてその東、庫裏(くり)流(る)諸島の領有権まで巻き込んだ戦い。帝国海軍は北方艦隊の三分の一を失う大損害を被った。結局どちらが勝利したのかわからないほど曖昧な停戦状態となり、結果今回の戦争に繋がった。

「この北部自治域……もうちょっと狭めれば、北洋州のどこかに、地平線まで広がる『天国への入口』が存在する、そういう噂がパイロットの間で広まったんです。ワタスゲが一面に咲いていて、霧が巻いているけれど、空は抜けるように青いって場所」

「ワタスゲってなんだ?」

「タンポポの綿毛みたいな、ソバの花みたいに白い草さ。北部自治域ならどこでも生えてる。内地なら高原の湿地に生えてる野草。見たことないか。見たことがないものを、絵も描かずに口頭で説明するってのは難しいな」

「別にそこまで求めてない。ようするにフワフワの花ってことだな」

「そう。あれはきれいだよ。このあたりでも群生があるはずだ」

「じゃあ、本当にあるんだろう。天国への入口とかそういう胡散臭いシロモノじゃなく、そういう場所が」

「……その話、聞いたことがある」

「伊来中尉、」

「古参のパイロットから聞いたことがある」

「私も元パイロットから聞いたんです」

「けれど、そこへは行けないって。……撃ち墜とされたパイロットだけが行ける場所だって」

「何? なんだそれ、」

 南波があきれたような顔をして聞きかえした。嫌いなのだ、この手のたぐいの話が。南波は徹底した現実主義者で空想家ではなかった。むしろ空想家の特殊部隊少尉がいたら、私は配転をさらなる上官に進言するだろうけど。

「どれだけ探しても、そんな場所はなくて、行ったら帰ってこられないっていう、そういう場所だと」

 伊来中尉が引き取り、話を続けた。

「墜落したパイロットだけがたどり着ける場所で、そこは天国への入口だっていう話」

 一種、戦闘中の極度のストレスが生み出す幻想なのかもしれないと思われたが、そのワタスゲの原」のイメージは具体化されて、当時の空軍パイロットたちの間で、「戦死した後集う場所」として信じられていた。冗談のような本当の話だった。戦場では冗談のような本当の話が冗談のように信じられることがある。それもまた、世界で普遍的に発生している奇妙な話。都野崎の紀元記念公園あたりでその手の話を行く人に話しかけたなら、みな怪訝な顔をして避けていくだろう。だが、最前線の戦場では、そうした世間的には与太話に分類されるべき妄想世界がすんなりと居場所をあてがわれているのだ。幽霊兵士や幽霊戦艦、果ては雲間から現れて前線兵士の命を奪うという幽霊飛行船の目撃談まで。それらの本気の狂気がはびこるのが最前線の塹壕の中であり、前線基地の兵舎の中であり、宿営地の酒保の即席カウンターの中での話なのだ。

「そんな話、信じられないな。要するに、そのワタスゲが咲き乱れるお花畑が実際に存在していて、乗ってる戦闘機が撃墜されたらそこに辿りついちまったってだけの話じゃないのか」

「確かに。とくに北洋州や樺(かば)武(ぶ)戸(と)ではワタスゲなら実際にかなり広く分布しているから、廻り一面ワタスゲという、そんなところもある。けれど、『行ったきり帰れない』とか、『戦死したら集う場所』というのが、実のところ世界的で普遍的な『天国』のイメージと重なるところがあると思わないか。……南波少尉、銃弾飛び交う最前線で、具体的な地名を挙げて、どこそこ湿原の南のゲートあたりで、死んだら落ち合おう、なんて話をすると思うか」

 南波は答えず、伊来中尉が返事をした。

「そうだな」

「あまりにその話が蔓延したので、厭戦的ムードを払拭するためにも、戦況の間隙をついて、空軍が偵察機を飛ばしたんだそうだ。衛星写真の解析だとか、大まじめに」

 私が続ける。

 しかし、北洋州や庫裏流諸島、そして北部自治域全域をある程度スキャンしても、それに該当するような場所はなかったという。そもそも、陸上で撃墜され、運良く脱出したパイロットたちの生還率は五〇%を超えていた。「行ったきり帰れなくなる場所」とは大げさなイメージだった。

「人間の脳に、『天国願望』があるんじゃないか、そう思いませんか」

「脳内麻薬の話ではなくて? 入地准尉が言うように、『天国モード』がプリセットされているってこと?」

「光に溢れた場所……それくらいなら私もあなたも、南波少尉も、極限状態になったら見られる幻覚かもしれない。けれどそれを、なぜ私たち人間は『天国』だと判断するんでしょうか。『光を見た』ではなく『天国の入り口に立っていた』となぜ思うのでしょうか。私たちは、もしかすると、彼岸への憧れを常に持ち続けているのではないか、そう思うんです。たとえば、遺伝子的に、ヒトには『天国』のイメージがデフォルトで設定されている」

「なぜだ、」

 ついに南波が立ち止まってしまった。

「一種の逃避かもしれない。死ぬかもしれない、生き残れないかもしれない、そういうとき、生への執着を断ち切るために、無理矢理、別次元の世界を構築して、そこへ逃げ込めると、自分自身を安心させる場所」

 雨音。

「だから、まぶしい場所、明るい場所、空の上、そういう場所を、死者が集う場所だと理解する。……そういうイメージが、私たちの中に刻まれているのだとしたら? それを補強するのが、宗教だとしたら?」

「宗教は好かん。……奴らは生きることを放棄してる。天国なんてものがあるとしても、俺はそんなところに行くつもりはない」

「ずいぶんと極端だな。カルトな連中はそうかもしれないが、おおむね人生の安定と道徳に寄与する存在として、宗教はいい装置だと思うが。……だいたいお前、いまわの際になってもそう思えるか?」

「思ってやるさ。だいたい、俺が死ぬ場所は、自分の家の庭の、安楽椅子の上って決めてるんだ。陽だまりの午後、孫たちが遊ぶところを笑顔で見守りながら、俺は静かに旅立つって決めてる。そしたら孫たちが言うんだよ。『あれ、おじいちゃん、息してないよ』ってな。誰が戦場で死ぬか」

「なんだそれ。天国妄想よりもひどい。だいたい子どももいないだろう」

「結婚もしてないからな」

「そんなことは聞いてない」

 だが南波なら本当にそうかもしれない。息絶える瞬間まで、この男は生きようとするだろう。今まで何度も出撃してきたが、必ず帰ることを考えていた。あの映画を観ていない、帰ったら何を喰う、手当が安すぎる、エトセトラ。生への執着を感じさせないほど、南波は死の臭いがしない。だからこそ、五五派遣隊で生き残っているのだろう。おそらく私も。話ながら、私は天国の存在など信じていない。宗教は人が生きる上での支えになるべきもので、あくまでも手段であり目的ではあり得ない。連邦合衆国の軍隊では、アイコンとしての十字架を首から避げる兵士も多いと聞くが、私たちの国では一般的ではない。そもそも私たちのかみさまは森羅万象どこにでもいるから、わざわざアイコンを作る必要がないというせいもあるかもしれないが。八百万の神々と昔の人々は言った。木にも水にも家にもかまどにも、何もかもにかみさまがいるのだ。今現在も。それが私たちの帝国の姿だ。

「無責任だ、」

 伊来がうつむき気味に言う。

「伊来さん」

「遊佐は、……天国なんて考える暇もなく、やられた。声をかける時間もなかった。人が死ぬ瞬間に天国を見るとか、そんなことはどうでもいい。考えるまもなく死んだ人間はじゃあ、どこへ行くんだ、准尉?」

「どこへも行きはしないさ、伊来中尉」

 南波が、やけに明るく言う。

「あんたの中にいるんじゃないのか。……あんたの相棒は、残念だけれど、飛行機と一緒に川に沈んじまった。けど、存在はあんたの中に残ってるんだろうよ。俺もあんたに賛成だ。天国なんて、弱い奴らの世迷い言さ。こいつ……入地准尉が言うとおりさ。イメージが陳腐なんだよ。天国は空の上? 地獄は火山の火口みたいなドロドロの場所? ふざけるなさ」

「南波、お前は相変わらずだ」

「そう思わないとやってられん。俺は何人殺してきたと思う? 天国なんてものがあるんだったら、俺は天国ツアーの斡旋業者だ。誰がどう天国行き地獄行きを評価してるんだか知らないが、俺の所業を普通に考えたら一撃で地獄行きだ。小さい頃はそう教わってきたからな」

 人を殺めた人間は例外なく地獄へ。この国の標準的な道徳観だ。

「けど俺が地獄へ行くとしたら、それは温泉旅行だな。寒い場所よりあったかい場所なら大歓迎だ。ワタスゲだかタンポポだかが咲いてるお花畑ってのは、准尉、あんたの故郷の観光案内の絵ハガキみたいだぜ。ようするに寒いってことだ。俺は海峡の向こう出身だからな。避暑地の天国はごめんだぜ。今度『地獄谷』が名物の温泉があるから、一緒に行こう。おごってやる。ただし部屋は別々だ」

 どこまでが本気なのかよくわからない。

「ただ、」

 南波が歩き始めた。

「言葉は悪いが、気休めにはいいかもしれないな。……死んだ連中が、もしみんな天国にいるのなら、そこで幸せにやってくれればいい。残った俺たちがそう思って楽になれるなら、そう思えばいいんだ。死んだ人間は俺たちのことなんて考えられない。死んだ人間を考えられるのは俺たちだけだからな。……考えるのも面倒になるが」

「南波、一言多い」

「入地准尉、ありがとう」

 伊来が半身、私に振り返る。

「私を気遣ってくれてるんだろう」

「そんなつもりはありません」

「違うのか」

「あなたは、戦闘機乗りです。……もしかすると、私や南波少尉がいままでに殺してきたよりずっと多く、……いろんな人間を天国に強制的に送っているかもしれない。そんなあなたに、気休めなどは言えませんよ」

「そうか、」

「行きましょう。ちょっとおしゃべりが過ぎたようだ」

「結局、」

 南波。

「そのワタスゲの原っていうのは、本当にないのかね」

 ワタスゲの原。

 三六〇度、まばゆいばかりのワタスゲが揺れる場所。

 二度と戻れない場所。

「さあ、どうかな。任務で行けと言われれば、私は行く」

「俺もだな。そして帰ってくるさ。……ワタスゲが生えるような季節ならよかったのにな」

 歩きながら、南波がぶつくさ言っている。寒いのだ。吐く息が微かに白い。明け方から休憩を挟みながらも歩き通しで、足が痛い。

「もうその季節だ」

 私は答える。

「そうなのか。俺はこっち側の季節感覚がどうもわからん」

「伊来中尉、歩けますか」

「大丈夫だ。そんなに客人扱いしなくてもいい」

「失礼」

 私はくだんの元パイロットに同意する。おそらく天国など存在しない。きっとワタスゲの原は実在するのだろう。どこかに。

 どこかに。

 どこかはわからない。

 私が元パイロットにインタビューしたのは、都津野市の帝国大学医学部付属病院の……閉鎖病棟の談話室だった。精神医療課のだ。

 都津野市にある帝大医学部には、戦時後遺症を専門に治療する医官が常駐していた。軍病院ではなく第三者機関である医学部の方が、より多角的に治療できると政府が判断したからだ。私は南沢教授の紹介で彼に会うことができた。結局、元パイロットはあまりにも過酷な経験をしての生還のため、戦争が終わって、精神のバランスを大きく崩してしまったのだ。大規模な戦争のあとにはよく見られる後遺症だ。だから、彼が主張するワタスゲの原が北部自治域のどこかにあるとしても、だれもまともに探そうとしなかった。空軍内で伝承されていたその話を、みな知っていたからだ。おそらく彼もまた臨死体験を経て、幻想と現実の区別がつかなくなったのだろう、と。

 しかし、私は彼と話をしてみて、撃墜され、「ワタスゲの原」に降り立ってからの話に信憑性を感じずにはいられなかった。時系列にまったく破綻がなく、本来描写しなくてもいいビーコンの作動など、微に入り細に穿ち、説明によどみがなかった。惜しむらくは、救難機の到着までに予想以上の日数がかかってしまい、低湿地帯のはずれでビーコンを感知した救難ヘリコプターが彼を発見したとき、ついに彼は瀕死の状態まで衰弱していたのだ。結果、彼が撃墜された空域からどこに降り立ち、どうやって救出点まで移動したのかがわからなかった。ビーコンは信号の発信機能があるだけで、位置の記憶まではしない。そして、当時の救難体勢も無数の救難ビーコンをすべてリアルタイムで受信し記録するようなことはしていなかった。あまりに遭難者が多かったからだ。

 けれど、と私は思う。

 彼の言葉をそのまま引用するなら、「地続きの場所」に天国があることになる。

 もし戦士たちが集う黄泉の国がこの島のどこかにあるのなら、私は行って見てみたい。

 そして、南波が言うように、必ず帰ってくる。

 彼岸への憧れなど、潰してみせる。私が特殊作戦部隊である第五五派遣隊を志願したのはそんなきっかけだった……というのは過言か。

 考えながら歩いた。

 時間の感覚がややあいまいになりかけていたところを、耳に届くのはヘリコプターの羽ばたき音。

「南波、」

「ヘリコプターだ」

「准尉、少尉、……救難機だ」

 固定翼の捜索機が円を描いて飛来している。その向こうに、救難ヘリコプターが頼もしいローター音を響かせて飛んでくるのが見えている。

 南波のタクティカルベスト。ビーコンが作動している。

「さすが……飛行機を持っている軍隊は違いますね、救難が早い」

 やれやれ。自嘲気味に南波が私の顔を見る。それはそうだ。パイロットは「高価」なのだ。

「南波、よかったな。私たちも便乗させてもらおう。……中尉、頼めるだろうか」

「大丈夫だろう。友軍(フレンド)だからな」

 私と南波は、初めて伊来中尉の笑顔を見た。

 緊張が一気に緩んだようだ。少女のような顔をしていた。

「南波少尉、信号弾だ」

「了解、准尉」

 南波は信号銃を、陸上競技のスターターのように高く掲げると、トリガーを引いた。

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