[2] 死闘

 9月13日午前6時45分、第6軍によるスターリングラードへの総攻撃が始まった。このときドイツ軍の攻勢の主軸が向けられたのは、市の南部地域だった。

 第51軍団は第259歩兵師団が第62軍司令部の置かれた「ママイの丘」に向かい、第71・第76歩兵師団が第一停車場(鉄道駅)を攻撃した。市の郊外から、第48装甲軍団が長方形の大穀物サイロに向かって進撃した。

 第259歩兵師団(コルフェス少将)は激しい抵抗に遭いながらも、じりじりと「ママイの丘」に迫っていた。ドイツ空軍の猛烈な爆撃によって通信線を切断されため、第62軍司令部は一時的に指揮下の部隊との連絡手段を失ってしまった。

 この事態を受けて、チュイコフは夜間に幕僚らを引き連れて、「ママイの丘」にある司令部を引き払い、ツァリーツァ河の河畔に築かれた地下10メートルの古い地下壕に新たな司令部を移設した。

 第71歩兵師団(ハルトマン中将)は第24装甲師団(レンスキー中将)の支援を受けながら、第244狙撃師団の守る薄い防衛線を瞬く間に粉砕して、第一停車場に肉薄した。この駅はソ連軍の増援や物資の運搬に不可欠な中央桟橋にも近く、独ソ両軍にとって戦略上の重要な拠点を目されていた。

 この日の夕方、ラシュテンブルクの総統大本営「ヴォルフシャンツェ」は第71歩兵師団がツァリーツァ峡谷の北方で市の中心部に到達したとの報告に沸き立った。敵の司令部が置かれた地下壕までわずか800メートルの位置だという。

 同じ情報はクレムリンにも伝えられた。スターリンがジューコフとヴァシレフスキーを相手に今後の戦略について論議しているところに、秘書が南東部正面軍司令部から電話が入っていると告げた。電話に出た後、スターリンは2人の将軍に言った。

「第13親衛狙撃師団にヴォルガを渡河するようただちに命令を出したまえ。それから出撃させられる部隊があるかどうか確かめてくれ」

 9月14日の夜間、第13親衛狙撃師団(ロジムチェフ少将)の2個親衛狙撃連隊(第39・第42)が民間から徴用された船舶や漁船、手漕ぎボートなどに分乗してヴォルガ河を渡り始めた。

 やがて、河岸の近くに置かれたドイツ軍の火砲から砲火を浴びせられる。水柱が流れの中程に林立し、兵士たちは水びだしにされた。気絶した魚が銀色の腹を見せて水面に浮かび上がる。炸裂する砲弾の音に肩を埋めて、兵士たちは西岸の壮絶な光景に眼をみはる。

岸に近づくと、黒く焦げた建物の匂いと瓦礫の下で朽ちかけている死体の悪臭が鼻を突いた。船の両側から浅瀬に飛び降り、第42親衛狙撃連隊は急勾配の河岸を駆けあがってNKVD部隊と合流し、第一停車場でドイツ軍を押し返した。

 9月15日、第71歩兵師団は再び第一停車場の周辺に攻撃を開始して第13親衛狙撃師団と衝突し、この日だけで駅は四度もその支配者を変えた。夕刻を迎える頃にはソ連軍の手に落ちたが、この24時間で兵員の死傷者は師団定員の3割にも達した。

 9月16日、「ママイの丘」の戦闘はますます激しくなっていた。ドイツ軍は丘の上に火砲を据え置いて、ヴォルガ河の海運を断ち切ろうと考えていた。NKVD狙撃連隊の一つが辛うじて防衛しているところへ、第42親衛狙撃連隊の生き残りと第95狙撃師団(ゴリシュヌイ少将)の一部が応援に駆けつけ、ドイツ軍の兵士らが丘の頂上に立てたドイツ国旗を引き下ろした。

 パウルスは丘の攻略に第100猟兵師団(ザンヌ中将)を増派し、数日に渡って幾度となく攻撃を仕掛けたが、第42親衛狙撃連隊とNKVD狙撃連隊の生き残りは何とか丘を守り通した。ドイツ軍の損害は日に日に増大し、次第に攻勢を立ち往生させられた。

 わずか数週間前までは市民の憩いの場だった「ママイの丘」は砲撃で絶えず土が掘り返され、砲撃で出来た穴が繰り返される攻防の中で即席の塹壕となった。丘の斜面は打ち込まれた砲弾の熱によって、この年は雪が一度も積もらなかったといわれている。

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