[3] 旗が翻る

「ママイの丘」と第一停車場で戦闘が繰り広げられている間、同じような攻防戦が市南部のランドマークとも言える穀物サイロを中心とする狭い地域を巡って続いていた。

 9月17日、第48装甲軍団が市の南部を迅速に制圧した。第35親衛狙撃師団(ドゥビャンスキー大佐)の守備隊が穀物サイロの中に閉じ込められてしまった。

 この事態を受けたチュイコフはこの日の夜、バルト海艦隊所属の第92海軍歩兵旅団(ホジャノフ中尉)を増派した。増援隊は2挺の機関銃と、2挺の長い対戦車ライフルを持って来ていた。ドイツ軍将校と通訳が休戦の白旗をもってソ連兵に降伏を求めると、返事の代わりに対戦車ライフルでドイツ軍の戦車に銃弾を撃ち込み、抵抗の意志を示した。

 さらにチュイコフはツァリーツァ峡谷での戦闘があまりに激しくなったため、再び司令部を移動させることにした。参謀将校たちが選んだのは、「赤いバリケード」工場に近い河岸の地下壕だった。その真上には、巨大な石油貯蔵タンクが聳えていた。

 パウルスは第一停車場での戦闘に決着を付けるため、20両の戦車を第71歩兵師団の支援に派遣した。瓦礫に隠れて立てこもる第13親衛狙撃師団は果敢な反撃を繰り返し、この日もまた四度にわたる争奪戦を繰り広げた。

 9月18日、ドン正面軍による反攻が再び行なわれた。しかし、この時も第14装甲軍団(フーベ中将)と空軍によって阻まれてしまう。ドン正面軍は翌日も攻勢に出るが、大きな損害を受けて敗退した。市街地では、5日間で15回もその支配者を変えた第一停車場が、ついに第6軍の手に落ちた。この時までに、第13親衛狙撃師団は戦闘で兵員の9割を失っていた。

 9月20日、第6軍は穀物サイロの守備隊に対して戦車部隊を差し向けた。ソ連軍の守備隊はその頃には、手榴弾も銃弾も全て使い果たしていた。サイロは煙と炎に包まれ、侵入したドイツ兵はソ連兵の掛け合う声に向かって発砲した。夜闇に紛れて、ソ連軍の残兵たちは負傷者を置いたまま、北に脱出した。サイロは第6軍の手に落ちたものの、圧倒的な勝利とはいえなかった。

 その間にも、半ば要塞と化した都心の建物で同じような抵抗に遭遇して、多くのドイツ兵が命を落とした。赤の広場に面したウニヴェルマーク百貨店、「製釘工場」として知られる小さな倉庫でも激しい攻防戦が繰り広げられた。第62軍の「守備隊」に関する最も有名な逸話のひとつに、58日間続いた「パヴロフの家」防衛戦が挙げられる。

 第62軍にとって最も深刻だったのは、市の中心部にある桟橋に第6軍の一部が進撃してきたことであった。第6軍は増援部隊や補給物資が市街地に届くのを阻止しようとしていた。この危機に対し、チュイコフはシベリア兵から編成された第284狙撃師団(バチュク大佐)の出撃を命令した。

 9月23日、第284狙撃師団はヴォルガ河を渡った。桟橋からツァリーツァ峡谷の南に孤立した部隊と合流するため、反撃を開始した。しかし、連日の激戦で甚大な損害を受けていたにも関わらず、第6軍はこの反撃を追い返した。第284狙撃師団の反攻もむなしく、第62軍の南翼が孤立してしまった。この時点で、第62軍が保持していた地域は市北部の河沿い13キロにある重工業地帯だけとなった。

 9月26日、第6軍司令部はラシュテンブルクの総統大本営に対して「帝国の軍旗、スターリングラードの共産党ビルに翻る!」と打電した。

 9月30日、ヒトラーはベルリンのスポーツ宮殿で演説を行なった。連合国がドン河からヴォルガ河に至ったドイツ軍の進撃を正しく評価していないと豪語した上で、ヒトラーはこのように断じた。

「何人もこの地点から我々を動かせぬであろう」

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