[4] 指令第227号

 7月23日、B軍集団の第6軍はA軍集団がカフカスへの進撃を開始したことに合わせて、スターリングラードへの攻勢を開始させた。

 第6軍の第14装甲軍団(ヴィッテルスハイム大将)は、チル河付近から第62軍(コルパクチ少将)の北翼に対して攻撃を開始した。3日に渡る戦闘の後、第14装甲軍団の第16装甲師団(フーベ中将)は第62軍の防御線を突破して、ドン河湾曲部の渡河点であるカラチの北方に到達した。

 7月25日、第62軍の後方に配置されていた第1戦車軍(モスカレンコ少将)と第4戦車軍(クリュウチェンキン少将)はドイツ軍の突出部を切断するため、第14装甲軍団の南北から反撃を仕掛けた。しかし、ソ連軍の戦車部隊は装備が不十分で、指揮官たちも未熟であったため、この反撃は失敗に終わった。

 さらなる進撃を計画していたB軍集団だったが、陸軍参謀本部から補給物資の分配がカフカスを侵攻するA軍集団を優先させると定められたため、第6軍は割り当てられるはずだった燃料を奪われてしまった。第6軍はあと数日でカラチに到達できる距離まで進撃した後、そこで停止を余儀なくされた。

 7月28日、スターリンはクレムリンの執務室で、ヴァシレフスキー参謀総長から前線の報告を聞いていた。これ以上の撤退が軍全体の戦意喪失につながると思い立ったスターリンは、ヴァシレフスキーに向かってこう叫んだ。

「兵卒どもは私の命令を忘れておる!」

 スターリンが持ち出したのは、前年の8月16日に口述した「指令第270号」のことだった。

「同じ文意で新しい命令を作成したまえ」

「いつまでにお持ちしますか」ヴィシネフスキーが言った。

「今日中にだ。でき次第、すぐ戻ってくるように」

 その日の夕方、ヴァシレフスキーが持ってきた「指令第227号」の草稿は、「一歩も退くなニ・シャグー・ナザード!」と題されていた。

「正面軍司令部の許可を得ることなく、勝手な判断で指揮下の部隊に退却を許可した軍・軍団・師団の司令官は即座に罷免して、軍事裁判に処する。臆病な者や逃亡の扇動者は見つけ次第、即刻銃殺する。各軍に3~5個中隊程度の規模で、優秀な兵士から成る『退却阻止分遣隊』を配置し、パニックに陥って逃亡しようとする将校や下士官を、武器を用いてでも鎮圧する。これ以上の退却は、祖国を破滅に導くことになるだろう。我々は今、退却を終わらせる時を迎えたのだ。一歩も退くな!」

 ドイツ軍が迅速に進撃している間、スターリンは緒戦の頃と同様、将軍たちに自身の責任をなすりつけようとしていた。まずロストフ陥落の責任を取らせるために、7月23日にティモシェンコをスターリングラード正面軍司令官から罷免し、後任に第21軍司令官ゴルドフ中将を任命させた。

 スターリンはヒトラーとは対照的に、スターリングラードを巡る戦いの情勢に大きな関心を寄せていた。それは内戦の功績から自らの名が付与された都市を防衛するという単純な理由によるものではなかった。

 ヴォルガ河の湾曲部にあるスターリングラードは河を利用した海運上の要衝であり、ロシア南部からモスクワ方面、ウラル山脈方面を結ぶ鉄道線上の結節点でもあった。ヴォルガ河の船舶輸送は鉄道の10倍に匹敵する輸送能力を保持しており、1942年春から夏にかけて、ソ連経済のほぼ1年分の備蓄量に相当する石油がヴォルガ河を通じてモスクワと、ドイツ軍に占領された地域から疎開した工場が集中する中央アジアに運ばれていた。したがって、この都市を占領されると、カスピ海や黒海沿岸の港からロシア中央部へ向かう物資輸送や増援として送られる部隊の移動にも支障をきたすことになる。

 そのため「最高司令部」はスターリングラード正面軍司令官ゴルドフ中将に対し、ドン河のロゴフスキーからヴォルガ河のライゴロドに至る線で防衛を強化するよう命じた。しかし、この時点ですでに同正面軍の担当地区が700キロに達していた。

 そこで、ヴォルガ河の下流地域を担当する南東部正面軍が新たに設置された。モスクワ前面で受けた戦傷から癒えたばかりのエレメンコ大将が、司令官に就任した。

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