[3] 高山を巡る戦い

 7月20日、ロストフの占領を完了させたA軍集団の第1装甲軍と第17軍は、ドン河南岸の橋頭保を出撃してカフカス地方への進撃作戦「エーデルヴァイス」を開始した。

 高山植物にちなんだ作戦名が物語るように、A軍集団が進撃する先はヨーロッパとアジアの境界に位置する標高4000メートル級の高山地帯―カフカス山脈が立ちはだかっていた。山脈の麓まではロストフから直線距離で一番近いクラスノダール付近でも200キロ以上、重要な作戦目標であるグロズヌイまでは600キロも離れていた。そこに至るまでの乾燥した平原地帯を走る交通網は1本の鉄道と貧弱な道路がわずかに存在するだけだったが、装甲部隊による機動戦には適した土地だった。

 第1装甲軍(クライスト上級大将)の3個装甲軍団(第3・第40・第57)が7月下旬に最初の難関であるマヌィチ河に到達した。南部正面軍はマヌィチ河上流のダムを破壊して、A軍集団のドン河渡河点を水浸しにした。だが、その結果はカフカスに向かうA軍集団を一時的に孤立させただけだった。

 7月28日、「最高司令部」は敵の突破を許した南部正面軍を廃止した。同正面軍の所属部隊は北カフカス正面軍(ブジョンヌイ元帥)に編入された。この時、北カフカス正面軍には計7個軍(第9軍・第12軍・第18軍・第24軍・第37軍・第47軍・第56軍)が所属していた。しかし戦車兵力は正面軍全体でわずか3個旅団しかなく、敵の装甲部隊に対して反撃できる能力を有してはいなかった。

 北カフカス正面軍は戦車の劣勢を補うため、この戦域に計7本の装甲列車(装甲板で周囲を覆われ、鉄道上でのみ移動できる砲台)を投入して敵の進撃を食い止めようと試みた。長距離砲撃を主眼とするドイツ軍の列車砲と異なり、ソ連軍の装甲列車は敵との近接戦闘を想定して設計されていた。

 だが25年前のロシア内戦で大きな威力を発揮した装甲列車もドイツ空軍の爆撃などで線路を破壊されてしまば、後方へと離脱することすら出来なかった。結局、前線に投入された装甲列車のうちの5本は退却するソ連軍自身の手で爆破された。1本はドイツ軍の攻撃で破壊、残る1本のみが味方とともに南東へ退却した。

 国防人民委員部は7月28日、「指令第227号」を発令して徹底した軍紀の粛正と退却の厳禁を命じていた。しかし独ソ両軍の兵力と戦闘能力の差は歴然としており、この命令が前線で厳守されることは極めて少なかった。

 7月30日、第1装甲軍はスターリングラードから黒海沿岸のノヴォロシースクに通じる重要な鉄道を遮断することに成功した。前線のドイツ軍にとって、それは栄光の日々であるかに思われた。「戦車とハーフトラックは見渡すかぎりの大草原を前進していく。きらめく午後の空に、三角旗が翻る」指揮官たちは臆面もなく戦車の砲塔に立ち、腕を高く挙げて部隊に合図を送る。道筋から舞いあがる土埃が煙霧のようにあたりに広がった。

 8月10日、第57装甲軍団の第13装甲師団(ヘア少将)は石油採掘地のあるマイコプを占領した。マイコプを占領したA軍集団はさっそく石油関連施設の被害状況に関する調査を行った。後に北カフカス正面軍が撤退する際に油井や精製施設を徹底的に破壊していたことが判明し、資源の確保を目論んでいたドイツ側の期待を粉々に打ち砕いた。

 スターリンはカフカス地方を敵に奪われることの危険性を感じ取っていた。カフカスの喪失は重要な石油産出地を失うという経済的打撃だけでなく、イランを経由して送られる連合国からの貸与物資輸送トルコ参戦の可能性など、計り知れないほどの政治的打撃を被ることを意味していた。

 8月12日、第1装甲軍の西翼を進む第17軍は石油精製所のあるカフカスの要衝クラスノダールを陥落させた。その後は黒海の制海権を奪取するために第5軍団をノヴォロシースク、第44軍団をツァプセに向けて進撃させた。

 8月21日、第17軍の東翼では第49山岳軍団(コンラート大将)に所属する2個山岳師団(第1・第4)の選抜隊がカフカス山脈の最高峰であるエリブルス山(標高5624メートル)の登頂に成功していた。

 黒海とカスピ海に挟まれた地峡部を内側からくり抜くようにして占領地を日毎に拡大させていたA軍集団だったが、幅が500キロ近くもある広大な地域を二個軍で戦線を維持しながら進撃するのは負担が大きかった。しかし南部戦域の戦況を楽観視したヒトラーは同月12日、カフカスに向かわせるはずだった第11軍をレニングラード攻略に転用する命令を下した。

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