「野球の世界」前編
「どうもみなさん、お久しぶりです。」
暗い深い闇の中、どこからともなく差した光に照らされる老人。正中線を軸に線対称で白黒のスーツを身に纏っている。その老人は白黒のシルクハットを取り、深々とお辞儀をした。
「改めて自己紹介をさせていただきます。私は”ペーパートレイル”の卸売業者、パラレルと申します。」
頭を上げながらニコリと微笑むパラレル。その顔からは言葉にできないような、不快な雰囲気が感じられる。そんな謎の老人パラレルは再びシルクハットを被ると、おもむろに空中に手をかざし、そこから本を召喚した。大規模な図書館の蔵書室の奥の方に眠っていそうな、何とも言えない高級感が溢れる本だ。
「それでは早速語らせて頂きましょう。」
パラレルはゆっくりと紙質を味わいながら重厚な表紙を開き、こちらに語りかけてきた。
「タイトルは……野球の世界。」
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今回のペーパートレイルの主は「村間 球児(むらま きゅうじ)」。彼が高校三年生の時の話ですね。彼の世界では、学校の成績は野球で決まるそうです。一学期中に一回あるクラス対抗の試合を行い、その勝敗で成績が決定します。しかし、あくまで勝敗は成績を決める一つの要素に過ぎません。ヒットより多く打った者、ホームランを打った者、盗塁を成功させた者、バントでチャンスを作った者。それぞれが何かしらの活躍を見せると、その功績が成績に反映されるそうです。これは、そんな評価基準を持つ世界の、ある進学校のお話です。
吹き抜ける冷ややかな風が頬を切り裂く。今にも雪が降るのではないだろうか。そう考えてしまうほど、外気温は低い。連日続いた雨が昨晩やっと降り止み、多少軽い気持ちで学生は登校に、社会人は通勤に
向かう先にそびえ立つのは都内でも有数の進学校。野球技術を教えるエキスパート達が揃うエリート高校だ。ここに入学する事で将来は約束される。そのような謳い文句が巷を放浪している。
そんな名門校に近づくにつれ、徐々に生徒が増えてくる。男女問わず筋肉の締まった体つきで、いかにもスポーツができそうな、いい体をしている。しかしながら、球児の体はそれらと対極している。線の細い体、闘気を感じない弱々しい背中。まるで野球をするような者の体ではなかった。その華奢な体どおり、球児は運動が苦手だった。いわゆる「落ちこぼれ」という奴だ。となると、足取りが思い理由が簡単に理解できるはずだ。
今日も胃がキリキリと痛む。どんどんと近づいてくる学校が、腹を圧迫しているような。そんな感じがした。
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「ただいま。」
夕方、非力な声を上げながら重苦しい家に帰ってきた球児。リビングに入ると、ねっとりとしたなんとも言えない空気が球児を飲み込む。リビングには父と母がいるのだが、二人は一言も会話をすること無く、こちらをずっとにらみ続ける。球児は石になったような気がした。無言の圧力が重くのしかかる。
「出しなさい。」
長い沈黙を破ったのは父だった。腕を前で組み、あぐらをかいて座っている。その鋭い眼光で体に穴が開きそうだ。球児はそんな父の言葉でハッと気付き、通学カバンからプリントを取り出した。成績表だ。彼の通う学校では毎日成績表が出され、その日の授業の成績、例えばヒットの本数やベースランニングのタイムなどがグラフ化されて記載されている。その他にもクラス順位や学校内順位など、全てのデータが網羅され、集約されているのだ。
「……部屋に戻れ。」
長考の末の突き放す一言。村間の胃がキュゥッと引き締まる。エアコンの駆動音がより大きく聞こえる。父が成績表を破る音が、より鋭く脳に突き刺さった。
「……っでも父さん!」
「何か……言ったか?」
父の言葉の圧力、そして弾丸のような眼光。何も、言い返すことができなかった。目頭が熱くなったが、ぐっとこらえる。球児は何もすることなく、自らの部屋に向かった。破り捨てられた成績表を拾い集めて。
空気を裂くバット。球児は今日も日課の素振りを行う。グリップを握る力がいつもより強い。すり潰れるほどに歯を食いしばり、愚直に振り続ける。100を超え、1000を超え、10000を超え、一晩中振り続ける。掌から滲み出る血。それが遠心力によって壁に飛び散る。それでもなお、バットを振るう手は止まらない。一体いつからこの愚行をしているだろう。もう記憶の彼方に消えていた。目的もわからない。行う理由もわからない。それでもなお、馬鹿のように振り続ける。何度も潰れては治しを繰り返したマメ。今日もマメが潰れている。
「——でも、父さん……」
突然掌から走る痛み。それが終了の合図だ。バットを壁に立て掛け、ベッドにくたりと座り込む。肩で息をするほど疲れ果てた球児は、不意に破られた成績表を眺めた。
「僕……ちょっとだけ順位が、上がったんだよ……」
校内順位を見つめる球児が、哀しげに呟いた。
バットから滴る血が今日も、カーペットを染め上げている。
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