不器用なワルツを貴方と共に 10
千晴さんに出会わなければ、きっと俺はこの世界ではありふれた、底辺の生き方ってやつをしていたのだと思う。
兄貴が入院する前、俺はコンビニやファミレスのアルバイトをいくつも掛け持ちしていた。兄貴は小学校の教師をしていて帰りがいつも遅かったから、家事全般は俺の仕事。
中学を卒業し職を転々としている俺に、お人よしな兄はよく言っていた。
「家に最低限お金を入れてくれさえすれば、後は瑞樹の好きに暮らせばいいよ」
その言葉に、俺は二十を過ぎてからも甘えていた。
兄貴が病気になったのは、俺がいつまでたってもふらふらしていて兄貴に負担を
かけていたからじゃないか。そんな後悔が常にあった。
だから俺は兄貴に恩返しをしたかったのだ。
「なにもこんなに立派な病院に入院しなくても。入院費だって、馬鹿にならないだろう」
そう言われた事は数え切れないくらいあった。
その度に俺は決まってこう返す。
「父さんと母さんが遺した金もあるし、新しく始めたバイトも時給いいしさ。兄貴は病気を治す事だけ考えてりゃいいんだよ」
兄貴がもう長くないことは、病気がわかった時点で医者から聞かされていた。
それでも一日でも、一分でも一秒でも長く生きられる可能性があるのなら。
医者の言葉を伝えることをせず、最先端の治療が受けられるこの病院へ俺が強引に入院させたのだ。
そこで、彼女に出会った。
俺がこうしてゆずの執事になったきっかけ。
それは千晴さんの言葉があったからだ。
「弟くんさ、これからどうするつもり?」
「これからって?」
「いつまでも、身を削るような仕事してたらだめだよ」
仕事のことを千晴さんに話したことは一度もない。
それなのに、彼女はすべてお見通しだと言う風に微笑んだ。
「私も弟くんと似たような仕事してたしね。同業者はなんとなくわかるのよ」
俺は当時、女に時間で買われるような仕事をしていた。
金さえ払って貰えれば、なんだってした。自分のこの顔は面白い程金になったのだ。それ以外にも、犯罪ぎりぎりのような仕事も頼まれれば引き受ける。要は便利屋だ。金さえ払って貰えればなんでもする便利屋。
当時はそれでいいと思っていた。
兄貴さえ元気でいてくれるのなら、なんだってしようと思っていた。
でも、その兄貴がいなくなったら俺はどうなるのだろう
そんな時だ。彼女が俺に提案してきたのは。
「ねぇ弟くん、ゆずと・・・・・暮らしてみる気はない?」
「・・・・・は?」
「年頃の女の子といきなり暮らすのはちょっと無理があるか。うーん、じゃあゆずの執事として弟くんが働くっていうのはどう?」
「ちょっと待った。ゆずってあんたの娘だろ?なんで俺がそんな子供のお守みたいなこと・・・・・!」
「だめ、かなやっぱり」
眉を下げながら困ったように笑う彼女が、あまりにも「らしくない」
いつもだったら、もっと強引に話を進めてくるくせに。
「・・・・・なんで俺なんかにそんなこと言うんだよ」
口をひらけば娘の自慢ばかりするあんたは、そいつが大切なんだろう。
なのに、どうしてそんな大事な事を俺なんかに言うんだよ。
「大切だから信頼できる誰かに頼みたいの。あの子、父親と義兄弟と上手くいっていないから・・・・・」
優しい子なのよ本当に、と彼女は続けた。
「優しいからこそ、人の言葉を受け入れすぎてしまう。人よりも多く傷つく。弟くんがあの子の傍に居てくれれば、そういうものからゆずを守ってくれるかな・・・・って。勝手な事言ってるってわかってるんだけどね」
本当に、勝手だ。
他人の俺なんかに娘を任せるなんて。
執事なんて、そんなものになって欲しいだなんて。
「やっぱりだめ、かな」
それでも俺があの時彼女の提案を断らなかった理由は一つだけ。
誰かに信頼される事が嬉しかったからだ。
だから柄にもなく、ああ言った。
「・・・・あんたの娘だけの執事ってことなら引き受けてもいい。でかい屋敷に仕えるなんて気が進まないけど、娘の面倒みるだけの仕事なら楽そうだし」
「瑞樹くん・・・・・」
「まぁ、気が向いたらの話だけど」
きょとん、と彼女の目が丸くなる。
居心地が悪くなって俺は横を向くと、彼女が深く頭を下げた。
「ありがとう・・・・本当に」
「ちょっと、大げさだって。絶対面倒見るって約束はしないし、そこまで感謝しないでよ」
「それでも、ありがとう。屋敷の人には事情を話しておくね。気が向いたらいつでも訪ねてきて」
「千晴さん?」
「よかった、これで・・・・・本当に心残りはないや」
彼女の言葉にどこか引っかかるものを感じていたそんな時、千晴さんの娘、高倉ゆずに出会った。
「亡くなった?」
「うん、昨日の夜だって。僕もさっき看護婦さんに聞いて驚いた」
兄貴の病室に入った途端、千晴さんが亡くなったことを聞かされる。
嘘だろ、この間まで、元気そうだったのに・・・・・・
「・・・・・あ!」
言葉を失っていると兄貴の間の抜けたような声が聞こえてきた。
「なんだよ」
「これ返さないと」
兄貴が慌てたように机から取り出したのは、珍しくもないただのトランプだった。
「はぁ・・・・・?なんだこれ」
「これ千晴さんのなんだよ。返しそびれちゃったな・・・・・」
「貰っておけば?わざわざ届けにいくようなものでもないだろ」
「うーん・・・・・って、あぁ!」
兄貴が声を上げ、窓の外を指さす。
「なんだよ、でかい声出すなって」
「ゆずちゃん!」
「はぁ?」
窓を覗くと、大きな袋を抱えた学生服姿の女の子が病棟に入っていくのが見えた。
あの子が・・・・・ゆず?
目を伏せながら歩くその姿が妙に目に焼き付いた。
最後に会った時に聞いた千晴さんの言葉のせいだろうか。
ぼんやりと彼女の姿を目で追っていると、肩を強く叩かれる。
「ほら瑞樹!急いでこのトランプ届けてきて!」
「はぁ!?なんで俺が・・・・・」
「だってこれゆずちゃんが持ってた方がいいに決まってる。あ、くれぐれもゆずちゃんには優しく接するようにね!」
強引に病室から追い出され仕方なくナースセンターの辺りをうろついていると、看護婦と話す彼女を見つけた。
「はい、これで全部だと思うわ」
「・・・・・ありがとうございます」
見覚えのある服や雑貨を両手いっぱいに抱えながら、頭を下げている。
あれは、千晴さんの・・・・・
看護婦が去った後、彼女は受け取った荷物を持っていた袋に丁寧に詰めていた。
三階まで階段をゆっくりと上がっていき、見覚えのある部屋の前で足を止める。
そこは、昨日まで千晴さんがいたはずの病室だった。
泣くこともせずにじっと佇む彼女。
空っぽになった部屋をただ見つめているその姿を見ていると、唐突に俺は気が付いた。
ああ、彼女は俺なのかもしれない。
遠くない未来、俺もこうして兄貴のいなくなった部屋で立ち竦む日がくるのだろう。彼女と自分がどうしようもなく重なった。
「・・・・・頑張ったね」
小さな声で呟くその言葉は千晴さんに向けたものだろうか。それとも、彼女自身に対しての言葉だろうか。
震える彼女の背中は、触れれば今にも倒れてしまいそうだった。
こんな時はいっそ、倒れてしまった方が楽なのかもしれないな。
声をかけられずにいると振り向いた彼女と目が合う。
「あ・・・・・」
思わず声を上げると、彼女は軽く会釈しながら俺の横を通り過ぎていった。
「ちょっとまった!」
柄にもなく焦るような自分の声が廊下に響く。
気が付くと黒い大きな瞳が俺を見つめていた。
「ゆず・・・・・だよな、あんた」
「え・・・・・?」
彼女はぽかんと口を開く。
どうして自分の名前を知っているのか
助けを求めるみたいに辺りを見回す彼女に、俺は思わず笑ってしまった。
「俺、駿の弟なんだけど」
「駿さんの弟さん・・・・・?」
「ついでに言えば、千晴さんとは茶飲み友達だった」
千晴さんとの関係に初めて<友達>と名前を付けた。
思いの外、その言葉がすとんと落ちる。
「あの、母は・・・・・」
千晴さんが亡くなった事を知らないと思ったのだろう。
彼女は懸命に、言葉を紡ぐ。
「あの・・・・・」
もどかしいというように唇を噛み締める姿は、痛々しさすら感じた。
だから思わず彼女の腕を取り、掌にトランプを置いたのだ。
「知ってる。昨日の夜だったんだって?」
「・・・・・え?」
「それ、兄貴から。千晴さんから預かってたらしい」
だから返すと口にした瞬間、腕に雫が落ちてきた。
彼女の頬から大粒の涙が降ってきたのだ。
「あれ・・・・・」
信じられないというように、彼女は瞬きした。
「ごめんなさい。お、おかあさんと駿さんとこのトランプで遊んだなぁって、思い出しただけなんですけど、どうして・・・・・」
「あーもう」
俺は袖で彼女の顔をごしごしと拭う。こんなことならハンカチの一つでも持ってくればよかった。
「ご、ごめんなさい」
「お前に苛立ったわけじゃない。ハンカチくらい持ってくればよかったと思っただけ」
そう否定すると彼女は合点がいったというように「やっぱり」と口にした。
「やっぱり駿さんの弟さんなんですね」
「似てないって、よく言われるけど」
「そうですか?優しいところが、よく似てると思いますけど」
柔らかくそう告げる彼女の言葉が何故だか耳に残る。
優しいなんて、そんな生き方はしていないのに。
「なぁ、あんた・・・・・これからどうするの?」
広い屋敷に一人で帰るのだろう。これから、一人で生きていくのだろう。
わかっている癖に、そう聞いた。
しかし彼女は悲観した言葉は言わなかったのだ。
彼女が口にしたその言葉は・・・・・
「これからはお母さんの代わりになろうって思います」
「千晴さんみたいに・・・・・あんたが?」
「そうしたらきっと、みんな笑ってくれると思うから。お母さんのこと、忘れないでくれると思うから」
告げられたのは不器用で、滑稽な彼女の言葉。
千晴さんの代わりなんてなれるはずがないのに。死者を忘れないでいる事なんて、生きている人間にはどうしたって出来ないのに。
そう思うのに、彼女を抱きしめたいと思うのは何故だろう。
繊細で、脆くて、人に分け与えられるくらいの優しさを持っている彼女は、あまりにも千晴さんがいなくなった世界で生きにくい。
「そう思ったら、だめ・・・・・でしょうか」
「・・・・・応援してくれるんじゃない」
「え?」
「千晴さん。きっとあんたを応援してくれる」
そう言うと、驚いたようだったが彼女は柔らかく微笑んだ。
「そうだと、いいなぁ」
彼女と別れた後、俺は空っぽになった千晴さんの病室に足を踏み入れ、ベッドに近づく。
「なぁ千晴さん、あの子・・・・・いい子だな」
執事にならないかと言われた時、気が向いたらそうしてもいいと答えた。
あの時は、執事なんてらしくない仕事をしている自分を想像することができなかったのだ。
だけど、今は・・・・・・
「あの子の執事なら、悪くない」
あの子の傍にいたい。
彼女を傷つける悪意の目隠しなら俺にも出来るんじゃないかと、そう思った。
多分この時にはもう、俺はゆずに恋をしていたのだろう。
幸せになんてできるはずないのに、そうわかっていても止めることができない。
不相応な恋が始まったのはきっとこの瞬間だったのだ。
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宮木辰久に屋敷で働くことを勧めたのは、彼にどこか昔の自分を重ねて見ていたからかもしれない。
あの時の俺を助けてくれた千晴さんのように自分自身がなりたかったのだとしたのなら・・・・・
「そいつにしてやられたんじゃ・・・・・ざまぁないよな」
ねっとりとした血が白いシャツを濡らす。
痛みに顔を歪め、深いため息を吐いた。
―ごめん・・・・・ほんとうに、ごめん・・・・・・
真っ青な顔で、全身の震えを隠すようにここを立ち去った宮木。
あいつはきっと誰かに脅されて俺を刺したのだろう。
宮木にそれを指示できる立場。
俺を邪魔だと思う人間。
そんな奴は限られてくる。
「ゆずが・・・・・・」
あの子が危ない。
力を入れて立ち上がろうとするが、無様に倒れこんでしまう。
「ふっざけんな・・・・しっかりしろよ」
早くゆずの所へ行かなければ。
そう思うのに、段々と意識が遠のいていく。
「くっそ・・・・・」
―瑞樹、瑞樹・・・・・!
どれくらい、意識を失っていたのだろう。
ゆっくりと目を開くと、不安そうに顔を歪めたゆずがいた。
「ゆ・・・・ず?」
重たい腕をなんとか動かし、彼女に触れる。
綺麗な肌には、切り傷のような跡が残っていた。
俺が傍にいられなかったから、誰かに傷つけられたのか。
「大丈夫ですか・・・・・?」
確認するようにそう言うと、自分の心配をしろと怒られた。
自分の心配なんて・・・・・
「ゆずさえ無事なら、いいんですよ・・・・・」
その言葉に、何故か彼女は傷ついたような顔をした。
俺の心配なんて、しなくたっていいのに。
どうだっていいのだ。自分のことなんて。
ゆずを守る事ができなかった時点で、執事としては失格なのだから。
「ごめん・・・・・」
再び深く沈む意識の中で、ただひたすら後悔だけが胸に残っていた。
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