綻ぶ気持ちと見えない心 3

―懐かしい、夢を見た。


 私が病院で出会った、母の友達の記憶。


「君が千晴さんの娘?」

 お母さんが使っている病室の前に立っていると、若い男性に声をかけられた。物腰は柔らかいのに、子供のように瞳を輝かせた人。

 病院の入院着を着ているところを見ると、彼もここに入院している患者さんなのだろうか。

「あなたは・・・・・?」

「僕、千晴さんの友達なんだ」


 彼の名は「駿しゅん

 私も母も、彼の事は名前でそう呼んでいた。


「駿くん!ゆずも、来てくれたの」

「ご機嫌いかが?千晴さん。お茶の誘いに来たよ」

「おはようお母さん。具合どう?病室の前でこの人に会ったんだけど、お母さんの友達って本当?」

 ゆずが不審に思いながら駿と名乗った彼を見ると、お母さんは慌てたように手を横に振った。

「本当よ!あたし、伸次郎しんじろうさん一筋だもの!駿くんはお友達よ」

「わー残念。振られちゃった」

 伸次郎とはゆずの父親の事だ。


 母は父と結婚する前、ホステスで働いていたらしい。

 母は両親である私の祖父母と不仲で、田舎を出て銀座のお店で働いていたところ、父に気に入られたそうだ。

 彼女は父一筋で、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいだ。

 母が入院するまで、本当に父と母は仲が良かった。


 父が未だに母の見舞いに来ないのは、何か理由があるからなのだろうか。

 その理由を、私は父に聞けないでいる。


「そうだ、ゆず。これから駿くんとお茶会なんだけど、一緒に行こう」

「お茶会?」

「そう。とっておきの場所があるのよ」



 二人が案内してくれたのは、病院の屋上。

 殺風景な場所で、周りには古いベンチしかない。私達以外の人はあまり見かけなかった。


「うーん、桜が散っちゃったわねぇ」

「桜?」

「うん。あそこに小学校が見えるでしょ?少し前まで、そこに桜がわーって広がっててね、いつもここで見てたのよ」

「千晴さんと初めて会ったの、丁度その桜が満開の時期だったんだよね」

 駿さんは懐かしそうに、コーヒーを一口飲む。

 母と彼はつい最近この場所で知り合い、それ以来お茶のみ友達になったそうだ。


「千晴さんがいつも話してるゆずちゃんが、こんなに可愛い子だったなんてね」

「そうでしょ、そうでしょう?だってあたしと伸次郎さんの子だもの。あ!あと二人、息子と娘がいるんだけど、その子達も中々の美男と美女なのよ?」

「ああ、その人達って千晴さんになかなか懐かないっていうあの?」

「うっ・・・・・痛いとこ突くわね駿くん。ふーん、どうせあたしの片想いですよー」

 母は、義姉と義兄にいくら心のない言葉を投げつけられても、いつもこうやって笑っている。私にはそれが不思議で仕方がない。


「ツグミ姉さんと直人兄さん・・・・・私は苦手」

 母の悪口を言う彼らの事を、好きになれない。

 そう口にすると、母が困ったような顔をした。

「ねえ、ゆず。あたしツグミちゃんと直人くん見てるとさ、自分がまだ子供だった頃を思い出すのよ。大人が信じられなくて、周りに反抗しながら自己主張をしてた頃をね」

 うんうん、と駿さんが頷く。

「それで、千晴さんは放って置けないわけだ」

「そうね、放って置けない。ゆずは素直で真っ白な感情の持ち主だから、二人の気持ちがわからないのも当然よ。ツグミちゃんと直人くんは、ゆずのそんなところに嫉妬してるんだと思う」

「なるほどね。確かに、いい子ってのは綺麗すぎて忌み嫌われることがある」

「そういうこと。まーゆずはそのままでいいのよ。あの二人の言葉を鵜呑みにしないことが一番。あの子たちは純粋なゆずが羨ましいから、突っかかって来るだけ」

「別に私、そんな風に言われるほど純粋でも素直でもないよ」

 出来た人間のように言われる程、綺麗な性格ではないのだ。そう主張すると駿さんに頭を撫でられた。

「照れない照れない。自分がどう思ってようと、第三者がそうだと言うなら君には確かにそういう面があるってことだよ」

「で、でも本当にそんな事ないです」

「うーん、じゃあ難しい話はここまでにしようか」

 駿さんがそう切り出すと、お母さんが大きな声で宣言した。


「それじゃあ改めて、第五回トランプ大会を開始しまーす」


「わーい」

「え・・・・・ちょっとまって、お母さん!?」

 状況が読めないと母に説明を求めるが、彼女の手はもうトランプを切り始めていた。

「待たないわよー、ここでお茶会をするってことはすなわちトランプ大会にも参加するって事なの」

「そんな説明あった!?」

「いやぁ入院中娯楽ってないしさぁ。あ、罰ゲームももちろんあるから心して参加してね、ゆずちゃん」

 駿さんが楽しそうにルールを説明してくれる。

 私はそんな二人に置いて行かれないように、必死に彼らの後を追った。


 母と駿さんと過ごす時間は、暖かくて楽しくて。でもほんの少し、苦しいものだった。



 それから桜が完全に散ったある日のこと。

「あれ、今日千晴さんは?」

 屋上まで上がると、先に駿さんがベンチで缶コーヒーを飲んでいた。

 ゆずは彼の隣に座り、事情を話す。

「今日はちょっと、調子悪いみたいで・・・・・」

 熱が続き、目を開けている時間が少ない日が何日か続いている。そう駿さんに話すと、ふいに頭を撫でられた。

「そう、ゆずちゃんもお疲れさま」

「疲れてないですよ。辛いのはお母さんの方だから」

 だからそんな風に言ってもらう資格などないのだ。そう話すと、駿さんは頷きながら続けた。

「看病される方も、看病する方もどっちが辛いなんてことないよ。多分、どっちも辛い」

「駿さん・・・・・」

「僕もさ、千晴さんと同じ病気なんだよね」

 なんてことないように彼は言うが、ゆずは驚いて何も言えなくなった。

 まだ若いのに、母と同じ病なのか。

 拳に力を込め、叫び出したい気持ちを抑える。


 どうして駿さんなんだろう。

 どうして、ここに居るのはお母さんじゃなきゃいけないんだろう。


 もしも神様に選ばれたというのなら、私は神様というものを恨んでしまう。

 


 俯き、歯を食いしばっていると駿さんの声が降ってくる。


「君は、泣いてくれるの?それは僕の為の涙かな」

「ごめん、なさい」


 溢れ出る大粒の涙を止められず、途方に暮れてしまう。 

 そんな私に彼は淡々と、穏やかな表情で話してくれた。


「常に死の恐怖と共にいる事は、怖いよ。大切な人を残して逝く寂しさ、辛さは大きい。それでもね、僕の為に泣いてくれる人がいるんだと思うと嬉しくなってしまう。ああ、僕の為に泣いてくれる人がいるのかって。勝手だけど存在してよかったんだって、そう思う」

「駿、さん・・・・・・」

「だからゆずちゃんは謝らなくていい。君が泣いてくれるから、救われる人もいるんだ」


 私は強引に顔を袖で拭い、駿さんと目を合わせる。

 彼は微笑みながら、フェンスの近くまで歩いていった。

 そこから見える小学校の校庭で、若葉が風に揺れている。


「僕の場合、もっと仕事がしたいかったとか、恋人が欲しかったとか、そんな風に色々思っていても心残りは結局一つなんだ」

「心残り・・・・・?」

「うん。僕にはもう親がいないから、僕がいなくなった後、一人になる弟が心配」

「駿さんの弟ってどんな人なんですか?」

「一言で言えば、危なっかしいんだよねぇ。自分一人で物事を全部決めてしまって、危ない橋も平気で渡る奴というか。あと喧嘩っ早い。弟が喧嘩して何回学校に呼び出されたことか」

「喧嘩!?駿さんは穏やかなのに、弟さんはやんちゃなんですか?」

「あ、でも喧嘩っ早いだけじゃないよ。料理が得意で、弟が作ったものはなによりも美味しいんだ。今度おすそ分けしてあげる」


 それは楽しみだと駿さんの隣に立ち、二人でぼんやりとフェンス越しの世界を見る。

フェンスの中、私達が立っているこの場所とフェンスの外。目に見えない境界線が引かれているみたいだ。


「駿さん」

 風が強くなってきて、そろそろ中に入ろうと言いかけたその時、彼は辛そうに眉を顰めた。


「ねぇ知ってる、ゆずちゃん?ここの入院費はとっても高いんだ。僕みたいな庶民は普通じゃ手が出せない」

「・・・・・駿さん?」

「僕は弟に生かされてるんだ。両親が遺したお金と、自分が働いたお金で入院費を補えてるから心配するなってあの子は言う。でも・・・・・」

 そうは思えないと、駿さんは顔を伏せた。

「弟が僕の為に無理をしていると思うと、僕は時々、このフェンスの外へ飛び出したくなる」


 その顔は泣いているようにも、悔しそうにも見えて、私はその手をしっかり握る事しかできなかった。


「ダメです」


 掴んでいないと、今にでも消えてしまう。そんな危うさが駿さんにはあった。

 だから私は、必死に言葉を紡ぐ。


「弟さんは、駿さんの為に無理をしたいんです」


 私は誰かを残して消えてしまう人の気持ちを想像することしかできない。

 それでも、残される人の気持ちはわかる。


「駿さんが好きだから、無理をしたいんです。だから・・・・・だからこのフェンスの向こうに自分から行くなんて絶対にダメです。駿さんは笑っていてくれないとだめですよ。だって、あなたの笑う顔が見たいから、弟さんは生きていけるんです」


 駿さんの手を掴む右手に力を込める。


 しばらくすると、彼の瞳からは一粒の雫が零れ落ちた。


 その涙はこの世界のどんなものよりも綺麗だと、私はこの時思ったのだ。

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