ウツロウ嘘と想う夜 5

 彼の家は公園から五分とかからない場所にあった。

 たくさんの集合住宅が立ち並んでいる中で、一番歴史のありそうな建物の前で彼は足を止める。

「ここなんだ・・・・・」

 壁が所々剥がれた年季の入っている階段を三階まで上り、三〇六号室のドアを開ける。そこには必要最低限のものしかない簡素な空間が広がっていた。

「ほんとごめん、お嬢様が立ち入る場所じゃないよな」

「ううん、私こそ突然お邪魔させてもらってごめんね。お土産の一つも持ってきてないし・・・・・あ、今からでもいいからお菓子買ってきてくれない?瑞樹」

 ここから少し離れた場所に、おいしい洋菓子屋さんがある。季節のフルーツを入れたゼリーが有名で、そのゼリーは食べるのがもったいないくらい綺麗なのだ。

 きっと、落ち込んでいる花ちゃんと翔くんも喜んでくれる。そう思ったのだが、瑞樹はバッサリと言い切った。


「嫌です」


 その瞬間ぷち、と何かが頭の中で切れた気がした。


「あんたが来てから、執事ってなんなのかしらって思うのよ」

「ひとーつ、執事とは常に主人に付き従い、主人の要望を優先し、尽くす存在である。そう習いましたけど?」

「そうよね、忘れかけてたけど本来そういう役職よね執事って。屋敷の彼らはその精神に倣って仕事に励んでくれたわよ、瑞樹と違って」

「酷いなぁ。僕の場合は高倉家とは関係ありませんし、あくまでゆず限定の執事ですから彼らと比べられても困りますよ」

 のらりくらりと嫌味を交わす瑞樹に、ついに最終手段を口にした。 

「とにかく、お菓子を買ってきたくないって言うんなら、和江さんに頼んであんたを再教育してもらうわよ!」

「横暴だなぁ。買いに行かない理由も聞いてくださいよ」

「理由・・・・・そんなのあるの?」

「ありますよ。ゆずを一人にしたらここで何かあった時、対処できないじゃないですか」

 宮木くん達には聞こえないように、そっと耳打ちされる。

 その行為に昨日の、車内で迫られたことを思い出し、自分でも顔が真っ赤になっていくのがわかった。

「何かって・・・・・」

「ゼリーなら後でお礼として届けますから、それで勘弁してください。僕、ゆずに嫌われるの嫌ですからね」

 私は悔しいけれど、彼の言葉に頷くことしかできなかった。 


「なーゆず!何して遊ぶ?トランプ?ウノ?」

 会話を遮るように、翔くんが両手いっぱいにトランプ、ウノ、花札を抱えて走って来る。

「わ、わたしゆずちゃんと、お絵かきしたいです」

 その後ろから花ちゃんもノートと色鉛筆を持って顔を覗かせる。

 そんな二人の姿に顔が緩む。

「じゃあまず最初にトランプをして、そのあとお絵かきしようか」

 私に妹や弟がいたら、こんな感じなのだろうか。

 二人に手を引かれ、午後の穏やかな時間が始まったのだった。


「すごい、花ちゃん上手だね」

 画用紙に描かれた女の人の絵。

 私よりも上手な花ちゃんの絵に関心してしまった。

「これ、誰を描いたの?」

「えっとね、おかあさん」

「お母さん?綺麗な人だね」

「うん。お母さんいつもきれいで、いい匂いがするの」

「母ちゃんの爪こぉーんなに長くてさ、かっこいいんだ。ねぇねぇ、花の母ちゃんってどんな人?かっこいい?」

「私のお母さん?うーん、そうだなぁ。かっこいいっていうよりも、優しい人だったかな」

 きらきらと目を輝かせている二人に相槌を打つと突然、玄関の扉が音を立てた。

 扉に視線を向けると、黒いミニスカートに白いコートを羽織った、長い黒髪の女性が私たちを見渡している。


「・・・・・誰?あんた」

「お母さん!」

 花ちゃんが手に持っていた色鉛筆を離し、急いで彼女の元へ走っていく。

 そうか、この人が宮木くん達のお母さんなのか。


「あーもう花、邪魔よ。こっちは疲れてるの」

「ご、ごめんなさい」

「ったく、金魚のふんみたいにくっついてこないでよね、暑苦しい」

 花ちゃんを突き放すような物言いに言葉を失っていると、ビールを取り出す彼女と目が合った。

「あの、お邪魔してます。私・・・・」

「えーあんた辰久の女?うけるんだけど、こんな清潔そうな娘が好みだったわけ。どーせ付き合うならもっと遊んでそうなのにしなさいよ」


 彼女から漂う甘い香水の匂いが、嫌に頭を麻痺させる。

 あまりにあけすけな物言いに怯んでいると、隣にいる瑞樹が口を開いた。

「僕たちは偶然辰久さんや花さん、翔さんと知り合いお邪魔させていただいているだけです。彼女も、辰久さんとはただのお友達ですよ」

 人懐こい笑顔を浮かべる瑞樹に対し、彼女は目を細めた。

「ふぅん。ところであなた、なんで燕尾服なんて暑苦しいもの着てるのよ」

 彼は身体を密着させるように話す彼女を軽くかわし、恭しく頭を下げる。

「これが仕事着なもので。私は高倉ゆず様の執事ですから」

「は・・・・高倉って、あの高倉?」

「ええ、その通りで御座います」

 こんな風に高倉を名乗るに相応な態度を取る瑞樹は初めてだ。

「瑞樹・・・・・」

 やればできるじゃない、と彼を見直したその時、バンッと大きな音が部屋に響いた。宮木くんが机を殴ったのだ。

「おい、それよりなんで今日こいつらの授業参観に行かなかったんだよ」

 泣いている花ちゃんを守るように宮木くんが問い詰める。

「そういえばそんなこと言ってたっけ」

「ふざけんなよっ!花と翔がどれだけあんたを待ってたと思ってんだ」

 矢継ぎ早に言葉を投げる宮木くんを気にもせず、彼女は緩慢な動作で煙草に火を点けた。

「うるさいなぁ。しょうがないでしょ、急に呼び出されちゃったんだから。仕事よ仕事」

「どうせ働いた金は家に入れないで、男に貢ぐんだろうが。母親らしいこと頼むからしてくれよ」

「母親らしいこと?じょーだん、やめてよねそういう三流ドラマに出てきそうな台詞真顔で言うの。理想の母親が欲しいならそこのお嬢さん誑かして、花と翔と家族ごっこでもしなよ」

 翔くんと花ちゃんが、先程までの笑顔を曇らせうつむいてしまう。それを見たらもうだめだった。

 色々な家族の形がある。そんなことは充分すぎる程理解しているのに、口を挟まずにはいられなかった。


「あの、花ちゃんと翔くんは貴方のことが好きなんです。宮木くんは、二人のために必死にお兄ちゃんとしての役割を果たそうとしてる。今日、そう思ったんです」

 まっすぐ彼女を見据え、ただ祈る。どうか私の言葉が伝わるように。

「花ちゃんや翔くんの事を、もっと考えていただけませんか?お母さんのことを話す二人はとても幸せそうなんです、だから・・・・・っ」

「あっははははははは。なに、それ。もしかして本気で言ってる?」

「え・・・・・?」

「だとしたらさむっ。いかにも暖かいところでなに不自由なく暮らしてきた人って感じ。自慢でもしたいわけ?」

 違います。そう否定すると、笑う彼女の瞳が、途端に鋭くなった。

「なにが違うの。あたしのこと、馬鹿にしてんでしょ?もっと子供と一緒に遊べ、目を向けろ?そんなのは金に困らないやつの理想論よ。あたしはあんたの家のご立派な母親とは違うの」

「わ、私はただ・・・・・」

「はーぁ。いっその事、この子たちみんな高倉の家の子にしてくんないかなぁ。あんたの家の母親に育てて貰った方が、キヨーイクに良いだろうし」

 ぐっと唇を噛み締める。彼女の言葉に、圧されてしまう。


「そのくらいにしてあげて下さい」

 一歩瑞樹が前に出る。彼女の視線を遮るその背中に、情けないくらい安心してしまった。

「すみません、なにぶん世間を知らない方なので」

「へーぇ、やけに物わかりがいいじゃない。ねぇ、あんた執事なんてやめちゃえば?こんな世間知らずな子供の言う事を聞いてるより、向いてる仕事あるわよ。なんなら紹介してあげる」

「僕にはもったいない言葉です。ああ、もうこんな時間ですか。それでは僕たちは失礼します」

 瑞樹が今、どんな顔をしているかわからない。

 だからだろうか。外に出ても重く苦い感情から抜け出すことが出来なかった。



「ゆーず、ゆずってば」

 声をかける瑞樹を無視して、足を速める。

「一人で帰るって言ったでしょ」

 先に車で帰るよう言ったのに、案の定その指示に従わず後ろから付いてくる執事にうんざりする。

「一人で帰りたい気分なの」

「僕はゆずと帰りたい気分なんですけど」

 あっけらかんとそう言う彼に腹が立つ。

 思わず立ち止まり、感情を吐き出すように投げつけた。

「瑞樹は私の世話なんてしたくないんでしょう」

 宮木くんの母親に言われた言葉が離れない。

 瑞樹が彼女に理解を示したことも、腹が立った。

「私の執事なんて辞めて、さっさと他の仕事でも何でもすればいいわよ。別に、私は瑞樹がいなくなっても困らな・・・・・ひゃっ」

 いつの間にか彼に追いつかれ、強い力で腕を引かれる。

 身体が反転し、瑞樹と目が合ってしまう。  


「それ、本気で言ってます?」

 端正なその顔が歪む。

「本気よ。だって瑞樹は世間知らずで甘い私の世話なんて嫌なんでしょ!」


「・・・・・そんなにショックでしたか?」

「何が・・・・・っ」

 瑞樹の指が、私の目頭に触れる。

「ゆずは何も悪くないですよ。ミヤギクンのお母様の毒に当てられただけです」

「・・・・・だって、瑞樹も言ったじゃない。私のこと、世間知らずだって」

 ああ、こんなのは八つ当たりだ。子供が癇癪を起こしているのと同じだ。

 わかっているのに瑞樹を責めることも、溢れ出る涙も止めることも出来なかった。

「私だって、知っているもの。自分が恵まれてるって、人の家庭に口を挟む資格なんてないって、わかってるもの」

 それでも、私は彼女に花ちゃんや翔くんを見て欲しかった。宮木くんの気持ちを、わかってもらいたかった。

「私にはないものを、宮木くん達は持ってるから。だから余計にもどかしかったの。おせっかいだってわかってるけど、言わずにはいられなかったの」

 止まらない涙を見られたくなくて、瑞樹から目を逸らす。

「なんで隠すんですか」

 そんな努力を笑うように、この男は両手を広げて私を抱きしめた。

 その仕草があまりにも優しくて、いつものように離れてと言えない。 

「瑞樹・・・・・?」

「いいんですよゆずはそれで。ミヤギクンの母親の言うことなんて理解できなくて、しなくていいんです」

「でも瑞樹は世間知らずって言ったじゃない」

「ああでも言わないと場が収まらないでしょ。ゆず、この世界の汚いものなんて見ないで綺麗なものだけを感じてください。これは僕の願いでも、千晴さんの願いでもあります」

「願い?」

 瑞樹はどうしてそこまで私の事を考えてくれるのだろう。

 彼の事情を、考えてみればまったく知らないのだと気が付いた。

「瑞樹は・・・・・どうしてそこまでしてくれるの?」

「そんなのゆずが好きだからに決まってます」 

 彼らしい物言いに、少しだけ笑ってしまう。

 固まっていた気持ちがいつのまにか溶けていくのがわかった。


「帰ろうか、家に」

 顔を上げて彼を見つめる。

 考える事はたくさんある。でもそれは、彼のおいしい料理を食べながらにしよう。

 そう伝えると、彼は嬉しそうに微笑んだ。


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