農協おくりびと (32)千の風が、流れる
10基に増やされた香炉が、威力を発揮する。
喪主→遺族→親族→指名焼香と続いた焼香が、一般会葬者に移る頃、
幅の広い行列が、香炉の前に作られた。
頼みの綱の最長老は行列のはるか後方に、のんびりと並んでいる。
焼香が順調に進む中。司会のちひろは忙しい。
焼香の進み具合を横目で確認しながら、届いた弔電の束を読み上げる。
ときどき駐車場から届く、移動要請の車のナンバーも読み上げていく。
(いろいろあるものですねぇ、葬儀の最中にも・・・
でも、早くしないと読経が終ってしまいます。
千の風を流すタイミングは、いったい、いつになったらやって来るんでしょ。
このままでは住職の読経が終了し、焼香も終わりになってしまいます)
焼香を終えた会葬者たちが、遺族に向かって静かに頭を下げていく。
係員に誘導されながら、静かに会場から姿を消していく。
粛々と読経がすすむ中。会葬者の姿が会場からほとんど居なくなる。
11:40。読経を終えた住職が、席を起つ。
スタッフに先導された住職が、控室に向ってゆっくりと歩いて行く。
遺族と親族たちが、退席していく住職の背中を合掌で送る。
(あらら。ついに読経が終わってしまいました。どうなるの、いったい。
頑固坊主は居なくなるし、会場内に残っているのは遺族と近親者たちだけです。
あ・・・邪魔者の坊主が居なくなったという事は、もしかしたら、
千の風を流す、絶好のチャンスが来たという事かしら・・・)
ちひろが見送る中。頑固住職の姿が会場から消えていく。
導師の読経が終り、焼香を終えた会葬者たちが会場から姿を消していくことで
故人を送るセレモニーの、第一段階が終わりを告げる
だが葬儀が終了したわけでは無い。
焼香を終えた会場で、出棺の準備がはじまる。
喪主と遺族、近親者たちによる『別れ』の儀式が、ここからまたあたらしい幕を開ける。
「最後のお別れになります。親族の皆さま、ご準備をお願いします」
とひろが読み上げた時、会場の入り口に、最長老が姿が見せた。
住職が消えた控え室の方向に顔を向けたまま、両手を大きく広げる。
頭の上で大きな丸をつくり、千の風を流しても良いというOKサインをつくる。
祭壇から降ろされた棺が、頭を北向きに安置される。
棺のふたが開けられる。
遺族や故人と親しかった人たちのための、しばしの対面の時間がやってくる。
満を持してちひろの指が、「千の風」のスイッチを押す。
短いピアノの前奏がつづいたあと、秋川雅史の歌声がホールの中を、
ろうろうと響いていく。
千の風は長い曲だ。フルコーラスなら、かるく4分30秒を超える。
ちひろの心配ごとは、ただひとつ。
曲を流しているあいだに、あの頑固住職が、ホールへ戻って来ることだ。
ちひろの指は万一にそなえ、先ほどから音響スイッチの上にしっかりと置かれている。
住職の姿が見えたら、いち早く曲のスイッチを切る。
それが、ちひろが出来るただひとつの対応だ。
入り口に立った最長老は、住職が姿を消した控室から目を離さない。
控室周辺の動向を、鋭く伺っている。
住職が姿を見せれば、その場から「中止」の合図を送ってくれるらしい。
曲がはじまって、すでに2分30秒が経過した。
ちひろにしてみればハラハラドキドキの、この世でもっとも長い2分30秒だ。
終了まであと2分あまり。
このまま最後まで、奥さんと故人のために、無事に千の風を流し続けたい。
ちひろがそんな風に、切に願ったその瞬間。
入り口に立っている最長老の顏に、緊張の色が走った。
住職の控室のドアが、突然、何の前触れもなく開いたようだ。
(33)へつづく
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