農協おくりびと 31話から35話

落合順平

農協おくりびと (31)紅い眼鏡

 11:00。開式の時刻がやってくる。

ちひろの緊張が一気に、レッドゾーンへ突入していく。

心臓の鼓動が、今世紀最大の数に到達する。

全身をかけめぐる血液が、沸騰寸前までたぎっていく。


(いよいよ、わたしの、初舞台がこれから幕を開ける・・・)


 喪主席に座る奥さんが、『大丈夫でしょうね、先ほどお願いした例の件は?』

と鋭い視線を、司会席のちひろへ向けてくる。

(最長老が、ワシに任せろと胸を叩いてくれましたが、その後の進展は分かりません。

何とかなると思いますが、確信は、残念ながら有りません・・・)

そう応えようとした瞬間。奥さんが、会場の気配にきづいて横を向く。


 導師(僧侶)が、入り口に現れたからだ。

コホンと咳払いした導師が、しずしずと歩いて祭壇の前に座る。

黙礼を送っていた会葬者たちも、物音をたてないようにして椅子へ腰を下ろす。


 11:03。ちひろが 開式の辞に目を落とす。

激しく隆起する胸元を軽く抑え、ふっと短い息を吐いた後、

手元に置いたメモに、目を走らせる。

だが、文字が良く見えない。

文面がかすれたまま、書いてあるはずの文字が目の中に飛び込んでこない。

(えぇ・・・文字がまったく見えません。どういうことなのかしら、これっていったい・・・)


 コンタクトレンズを入れ忘れていることに、ちひろがようやく気が付いた。

普段は朝起きた時。習慣として装着するようこころがけている。

それが今朝に限り、そのことをすっかり忘れていた。


 (道理で車の運転の時。前方の景色が、ぼんやりしていたはずだ・・・

 コンタクトを忘れていたとは、気がつきませんでした。

 平常心のつもりでいたけれど、朝から舞い上がっていたあたしが居たようです。

 あれ、そういえば、母が作ってくれたお赤飯のお弁当はどうしたのかしら?

 バックの中に、入れた覚えもありませんねぇ・・・)

 

 あわてて、コンタクトレンズを装着している余裕はない。

反射的にポケットへ触れた瞬間、万一にそなえて持っていた眼鏡に気が付いた。


 (地獄に仏です・・・間一髪で命拾いをしたようですねぇ・・・ふぅぅ~)


 眼鏡ケースからちひろが、真っ赤な眼鏡を取り出す。

顔を下に向け、取り出した真っ赤なフレームを、慣れた手つきで目にかける。

固唾をのんで見守っていた最前列から、『ほぉぉ~』と溜息が漏れる。


 小さな驚嘆の声が、後ろに向かってさざ波のように広がっていく。

紅い眼鏡が、あまりにもちひろの顔に似合っているからだ。

普段メガネを使用していない女性が、ある日とつぜん眼鏡をかけると、

美女度が急上昇することがある。

ちひろの場合が、まさにそれに当てはまる。


 ただしちひろの場合。美人度が上がるというよりも、知性を感じさせる顏になる。

最前列から湧き上がった「ほぉ・・・」という声は、どうやら知性を醸し出した

ちひろの急変ぶりに有るようだ。


 開式の言葉を無事に読み終えたちひろが、ほっとため息を吐く。

ドキドキとしている胸を、そっと小さくなでおろす。

11:05。予定通り、頑固住職の読経がはじまる。

僧侶が退席するまで、読経は続く。

通常は30分~40分程だが、お経の長さは宗派や僧侶よっておおきく異なる。


 赤い眼鏡をかけたちひろが、長老の姿を必死で探す。

最後方の壁際に立っている最長老を見つけた時、ちひろの手元にあたらしいメモが届く。


 『読経開始、10分後に、焼香をはじめる許可をいただきました。

 喪主→遺族→親族→指名焼香→一般参列者の順番で、案内をお願いします』


 と書いてある。

だがちひろの一番の心配事である千の風については、ひとことも触れていない。

(流すことが出来るんだろうか、千の風は無事に・・・)


 10分後の11:15。予定通り、喪主の奥さんが焼香に立つ。

だが待てど暮らせど、『千の風を流せ』という指示は、ちひろの手元に届かない。

じりじりとしながら500人を超える焼香の時間が、順調に過ぎていく・・・

 

(32)へつづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る