番外編 ホットワインが冷める前に

①朝のひととき

 ティルキスの冬は寒い。

 雪に閉ざされるような土地ではないからこそ、その分暖房や防寒も貧弱で、街中が底冷えするような空気の冷たさがあるのだ。


 ここスシェンキ法律事務所のある住居も例外ではなく、ストーブを置いてない部屋の冷え込みは厳しいものがある。


(慣れれば平気なのかもしれないけど、余所者にはつらいなあ。実家の山の方が、雪は降ってもなんか暖かかったような気がする)


 リーフェは朝食のオムレツが載っていた皿を洗って棚に片付け、冷えた手に息を吹きかけた。水仕事は嫌いではないものの、冬の水は手を凍えさせる。


 次はダイニングテーブルを拭こうと振り返ると、その天板の上には一応は弁護士でこの事務所の主である――ハヴェル・ノヴァーチェクが居眠りする形で突っ伏していた。


「ちょっと師匠、朝ごはん食べた矢先に寝るのはやめてくださいよ。そうやって所構わず寝るから、この間みたいに風邪を引くんですからね」


 リーフェは居候の弁護士見習いという身分をわきまえ敬語を使いつつも、やや身振りは乱暴に自らの師であるハヴェルの肩をゆすった。


「んん……。オムレツはあともう少し、火が通っていた方が僕は好みだよ……」

「あなたの卵の焼き加減の趣味は、誰も聞いてないですけど」


 ほぼ寝言のハヴェルの返答に、リーフェはいらいらと肩を掴む手に力を込める。


 冬らしく厚手のガウンをもこもこと着込みファー付のスリッパを履いて羊のように眠ってはいても、銀の巻き毛の隙間から見える寝顔は宗教画みたいに綺麗だった。


 その安らかな表情が気に入らなくて、リーフェはその頬をつまんで引っ張ってみる。かじかんだリーフェの手には、ハヴェルの頬はまるで焼き立てのパンのように暖かく感じられた。

 しかしリーフェがハヴェルの頬を玩具のように伸ばしてみても、ハヴェルは端整な顔のまま眠っている。


(どうやったら、この顔を不細工にできるのかな。やっぱりインクで落書きくらいしないと駄目なんだろうか)


 リーフェは当初の目的をやや忘れて、微かな朝の陽光にきらきらと照らされたハヴェルの白く整った顔を見つめた。ハヴェルと暮らして半年以上がたったが、どれだけだらしのない姿だったとしても、ハヴェルがその美貌を損ねたところをリーフェは見たことがない。


 黙ってハヴェルの頬から手を離して次の手を考えていると、後ろのドアが開いてイグナーツが入ってきた。

 イグナーツはリーフェの先輩にあたるこの事務所所属の弁護士で、金髪以外に取り立てて特徴のないごく普通の外見の男性だ。


「先生の部屋、やっとひさびさに掃除しときましたよ……って、また食後の二度寝ですか」


 地味で薄い顔によく似合うアーガイルチェックの作業用のルームウェアを着たイグナーツは、テーブルに突っ伏すハヴェルを冷めた目で一瞥した。

 リーフェが食器を片づけていた間に、イグナーツは二階にあるハヴェルの部屋を掃除してくれていたのだ。


 くるりとハヴェルに背を向け、リーフェは一瞬前とはまったく違う素直な態度で、イグナーツにお礼を言った。


「他のお仕事もあるのに、ありがとうございます。イグナーツ先輩」

「今日は朝ごはんも作ってもらったし、大丈夫だよ。やることがあるって言っても外出する予定はないし、先生が部屋を空けたタイミングで掃除をしないと、次はいつできるかわからないからな」


 そう言ってイグナーツはリーフェに微笑み、ケトルに水を入れて火をかけ紅茶を淹れはじめた。


「リーフェくんは確か、今日は弁護士協会に報告書を出しに行く日だったよな。お茶を飲んでいる時間はあるか?」

「はい。出掛ける予定は午後なので、いただきます」


 エプロンを外しダイニングチェアの背もたれにかけて、リーフェはハヴェルの隣に腰掛ける。

 イグナーツの淹れる紅茶は茶葉の量も蒸らす時間も完璧で、舌の肥えてないリーフェにも良さがわかった。


「はい、リーフェくんの好きな茶葉だ」

「わ、ありがとうございます。美味しそうです」


 数分後、リーフェはティーカップに注がれた綺麗なルビー色の紅茶を、イグナーツに淹れてもらった。甘みが強くてフルーティーな味は、リーフェの好きなものだった。


「喜んでもらえて良かった」


 イグナーツは頷き、自分の分もカップに注いで椅子に座って飲もうとした。

 しかしそこに、眠そうな声で妨害が入る。


「僕は……、熱々でちょっとだけカルダモンの風味が香るホットチョコレートが飲みたいなあ……」


 こんな厚かましい要望を口にするのは、もちろんハヴェル・ノヴァーチェクしかいない。ハヴェルは目を閉じ一ミリも動かないまま、イグナーツに注文をつけていた。


「それ、かなり面倒なやつですよ。二度寝中の人には、必要ないんじゃないですかね」

「寝てても寝てなくても……ホットチョコレート……」


 イグナーツがそっけない態度をとっても、ハヴェルは寝たふりをしたまま飲み物を求める。


 自分のわがままをわがままとわかってなお維持できるハヴェルの遠慮のなさに、イグナーツは不満を隠さず舌打ちをして立ち上がった。


「わかりましたよ。作ればいいんですね、ホットチョコレートを」


 諦め折れた様子でココアやチョコを取り出すイグナーツに、リーフェはカップをソーサーに置いて声をかけた。


「先輩はさっきお茶を淹れてくれたので、次は私がやりますよ?」

「いや。先生の趣味はめちゃめちゃ細かいし、俺がやるよ。お茶も冷めてる方が好きだから、リーフェくんは気にせずゆっくりしてて」

「えっと。じゃあ、お言葉に甘えて……」


 イグナーツはリーフェよりもずっと長くハヴェルの気まぐれに付き合ってきているので、ため息をついてはいても行動は早い。


 熱いお茶をゆっくりと味わって飲みながら、リーフェはイグナーツがホットチョコレートを作るのを見ていた。

 カルダモンのさやから種をとったり、小鍋に牛乳を少しずつ加えて熱したり、ハヴェルの求めるホットチョコレートの作り方はたしかにかなり七面倒臭いものであるようだった。


「はい。できましたよ」


 しばらく小鍋につきっきりになった後、イグナーツは中身を大きめのマグカップに注いでハヴェルに渡した。


 甘くてほんのりスパイシーな香りに反応して、今まで微動だにしなかったハヴェルはむくりと起き上がる。


「わ、ありがとうございます~。美味しそうです~」


 ハヴェルは両手でマグカップを受け取り、わざとらしい笑顔でイグナーツにお礼を言った。


「ちょっとそれ、さっきの私の真似ですか? そんな言い方してないですよ、私」


 その言い方に引っかかりを覚えたリーフェは、厚手のガウンを着込んだハヴェルの脇腹を軽くひじで小突いた。軽くといってもリーフェにとっての力加減であるので、当たればそれなりに痛いはずである。


「ふふ、僕も紅茶をもらったリーフェくんみたいに素直にお礼言った方がイグナーツが喜ぶかと思ってね」


 リーフェの物理的な反撃に耐えたふりをして、ハヴェルは人を小馬鹿にしたような態度で笑った。


「俺を喜ばせたいなら、まずはだらけるのをやめてほしいものですけどね」


 やっと邪魔されずに椅子に腰掛け、イグナーツは二人のやりとりを見ながら冷めた紅茶を飲んでいた。

 ハヴェルはイグナーツとリーフェにとっての共通の上司だが、どちらにとってもめったに働いてくれない人物なのである。


「しかしやっぱり、冬はやっぱりホットチョコレートだよね。ホットワインも好きだけど、お酒はお酒として飲みたいし」


 息を吹きかけて冷ましながら、ハヴェルは満足げにマグカップの中身を飲む。なめらかでつやのあるホットチョコレートから湯気がふわりとただよう様子は、見るからに美味しそうだった。


 リーフェは鍋に余っていたホットチョコレートをティーカップによそい、そのスパイシーな甘さを楽しみながら自分の好みについて述べた。


「私は逆にお酒よりも、ホットワインの方が好きですけどね。暖かくなるし、アルコールが飛んで飲みやすいので」


 下戸ではないし普通に飲むこともできるのだが、リーフェはハヴェルのように毎日飲むほどはお酒が好きではなかった。しかしホットワインは実家でも冬の季節によく飲んでいた飲み物で、寝る前に飲むとよく寝ることができるので好きだった。


 リーフェがホットワインについて語ると、ハヴェルは意外そうに顔を上げた。


「あ、そうなんだ。それじゃ、今晩飲みに行く? 冬市場のホットワイン、美味しいのがあるよ」

「冬市場、ですか?」


 今晩とはまた急だなと思いながら、リーフェはハヴェルの提案を繰り返した。


 冬市場とは冬の祭礼行事に合わせてそこらじゅうの都市で行われる催し物で、特にここティルキスの冬市場は規模が大きいものとして有名だった。

 田舎者のリーフェはまだ訪れたことがないが、祭礼の飾りつけや季節の食べ物などを売り買いして楽しむ冬市場は、それはもう楽しいものらしい。


(今年も始まったって聞いてから、行ってみたいとは思ってたんだよね。でも師匠と二人っきりで夜に出歩くのはちょっと……)


 リーフェはハヴェルの誘いにそのまま乗るには躊躇して、イグナーツの方をちらりと見る。

 するとお茶をすすりながら、イグナーツも冬市場に興味を示してハヴェルに言った。


「リーフェくんの案件も一段落したところだし、いいんじゃないですか? あんまり祭り当日に近いと混みますからね、あそこ。俺も仕事が終われば行きますよ」


 ハヴェルと二人で行動するのを避けたいリーフェの心の機微を理解した様子はなかったが、イグナーツはリーフェの期待通りに申し出た。


(イグナーツ先輩もいるなら安心だ)


 純粋に冬市場を楽しむことができそうで、リーフェはほっとした。


「決まりだね。君の用事が終わるころに、弁護士協会の事務所のある棟の玄関ホールに迎えに行くっていう予定でいいかな」


 ホットチョコレートを飲み干して、ハヴェルが話をまとめる。


「あ、はい。ありがとうございます」


 リーフェは頷いた。

 実利があれば、ハヴェルの強引さも嫌ではなかった。

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