第五章

第25話 墓地からの帰り道

 ティルキス中央墓地は、街の南東のはずれにある広大な霊園である。年中花が咲き乱れる美しい場所であり、ちょっとした観光地のようになっている。春はヒヤシンス、秋はサルビアで有名らしく、今は夏なのでブルーデイジーが青く花開いていた。

 だがまだ午前八時と時間が早いので、人影はまばらである。


(しかし、この街の夏は朝でも暑いなぁ)

 リーフェは麦わら帽子を被り木綿のブラウスを着て、その墓地に来ていた。涼しい山育ちのリーフェにとって、ティルキスの夏はおしゃれを気にすることができないくらいの暑さだった。


 墓地にいるとはいえ、用があるのは死者ではない。煉瓦造りの大きなアーチ状の入口の近くにあるベンチで、リーフェは時間をつぶして人を待った。相手の大切な時間を邪魔するような野暮な真似はしない。


 しばらく座っていると、待っていた人が墓参りを終えて戻ってきたので、帽子を少し上げて声をかけた。

「めずらしく朝から出かけたと思ったら、ここはエリクさんの墓ですか?」

 リーフェが一方的に待っていた相手は、ハヴェルである。

 ハヴェルはリーフェの存在に気づき、怪訝そうな顔をした。エリクという人の関係でしか見せない表情である。


「何かな。君は、僕をつけてきたのかな?」

 ハヴェルはリーフェの前で立ち止まった。

 黒いシンプルな礼服を着たハヴェルは、半裸に近いときや派手な服で着飾っているときとは違って、影のある魅力がある。華やかな庭園の中で、その姿は際立って美しかった。

「アル中の三十代が夏の暑さで倒れないか不安でついてきてあげたんです」

 汗一つかいていない涼やかなその美貌に見惚れてしまわないように気をつけながら、リーフェは言った。


 本当のところを言うと、リーフェはハヴェルと二人っきりになるのが目的であった。

 カリナの裁判が終わってやっと、リーフェはゆっくりとハヴェルのことを考えることができた。そうしているうちに闘争心以外の感情も大きくなり、一度きちんとハヴェルと話してみたいと思うようになった。

 だが必要ない時には現れるくせに、会いたいときには家にいてもつかまらないのが、ハヴェルである。

 リーフェはなんとか様子をうかがい続け、今日こうして二人になる機会を得たのである。


「それは、どうも」

 リーフェの真意を見抜いたのか、ハヴェルはそれ以上は聞かずに歩き出した。

 慌ててリーフェも、隣に並んで歩いた。


 馬車の発着場についたあたりで、ハヴェルはおもむろにリーフェに尋ねた。

「君、二階建ての馬車って乗ったことがある?」

「いいえ、ありません」

 実はひそかに乗ってみたかった気持ちを隠し、リーフェは答えた。

「それじゃ、今日はそれに乗って帰ろうか」

 そう言って、ハヴェルは定員十人くらいの乗合馬車を貸切にして、家までに路線を変更させた。


 リーフェはハヴェルと二人っきりでそれに乗り、帰ることになった。





「いい風ですね」

 ガタゴトと馬車に揺られ、リーフェは頬にかかる髪をかき上げながら隣に座るハヴェルに言った。


 二階建ての馬車の二階部分は屋根付の半屋外になっており、風通しが良く夏は過ごしやすい。

 だいぶ見慣れてきた街の景色も少し高い視点から見ると、人々の帽子の形や二階席の窓の装飾など、いつもと違うものが見えて楽しかった。リーフェは目的を忘れて、初めての乗り物に夢中になった。


 ハヴェルはわりとはしゃいでいるリーフェを見ながら、座席の縁でほおづえをついてぽつりと言った。

「そういえば言うの忘れてたけど、この前の君の裁判、悪くなかったよ。無事に終わっておめでとう」

 かなり遅れて送られた急な祝福に、リーフェは一瞬何を言われているのかわからなかった。

(今この人、おめでとうって言った?)

 祝ってもらえているらしいということを何とか理解したリーフェは驚き、振り向いてお礼を言った。

「え、はい。ありがとうございます」

 たどたどしいリーフェの感謝。

 横目でリーフェを見るハヴェルの表情は、気が乗らなさそうではあるが確かにリーフェを認めていた。


 ハヴェルにも評価され、とうとうリーフェにとってのあの裁判の心残りは、カリナが自分にどんな感情を向けていたのかわからないことだけになった。

 突然の肯定に、リーフェは思わずハヴェルに対してではあったが、本音をもらした。

「でも私、あれでカリナさんに納得してもらえたかどうか、どうも不安で……」

 カリナとサシャに対してしたことを後悔してはいない。だがそれでも、彼女たちにもちゃんとわかってもらえたという確信は得られなかった。


 自信がなさげにうつむくリーフェに、ハヴェルは特に気負いもなくカリナの気持ちを代弁した。

「きっとあのカリナって子も、君に感謝してると思うよ」

 ハヴェルの声は本当に自然で、普通のことを言うような調子だった。

 リーフェは心が軽くなっていくような心地になった。

「そう思いますか?」

「うーん。まぁ、多分だけど」

 リーフェが聞き返すと、ハヴェルは根拠などを示すこともなく適当にごまかした。

 その雑さに、リーフェは安心感を覚えた。

「そう言ってもらえると、気が楽になってきました」

 今までずっと、リーフェを批判してけなし続けてきた男が言う言葉である。リーフェに対して優しい判断を下しそうにないハヴェルが相手だからこそ、リーフェはそのままの意味を信じることができた。


(やっぱりあれは、感謝してくれてたってことでいいんだよね)

 リーフェはそのときやっと、カリナが最後に見せた感情が感謝だったのだと思えた。

 じんわりと、胸の奥に温かいものが広がる。

 ほっとした気持ちになって、リーフェはカリナのことを考えながら外の景色を見た。思い出されるカリナの横顔は、小さくリーフェに微笑んでいた。


 嬉しげに笑みを浮かべるリーフェを、ハヴェルは残念そうな表情で眺めた。

「僕は誰かを駄目にしてみたくて、研修生として君を受け入れたのに、君はそうはならなかったね」

 何やらひどい事実を告げてはいるが、どうもハヴェルはリーフェに感心しているようだった。


 リーフェは顔は外の風景に向けたまま、ハヴェルの方をちらりと見た。

「嫌がらせをしてきたことは、別にいいですが……いや、よくはないですが」

 やはりこれまでのハヴェルの行動は、リーフェを心配してと言うよりも邪魔をすることの方に重点が置かれていたのだな、とリーフェは思った。その程度の感想しか浮かばないくらいには、ハヴェルの人間性を理解していた。だが同時に、無為な日々を送り続けるハヴェルの人生を少しは心配する気持ちもあった。

「今までのことはともかく、これからもう少し、ちゃんとしてみる気はないんですか?」

 それなりにきついものの当人比では優しくなった言い方で、リーフェはハヴェルに尋ねた。


「僕はどう転んでも、まっとうには生きられないよ」

 ハヴェルは頭の上で手を組んで、馬車の座席の背もたれに身を預けた。生まれつきの人格破綻者ということになっているだけあって、それははっきりとした断定であった。

 実際ハヴェルは飲んだくれの上に寝てばかりで、好意的に見てもひどい部類の人間である。

 しかしリーフェは、ハヴェルがまったく改善の見込みがないほど人として外れているわけではないことを知っているので、あえてまともな人として扱うことにした。

「あなたは、大切な人が死んでしまったから、わざと駄目なふりをしてるだけじゃないですか?」

 なるべく何気なく、リーフェは尋ねた。


 リーフェの問いかけに、ハヴェルは少し間を置いてつぶやいた。

「あいつがいたときには、まともになれるような気がしてたんだけどね。本当の償いとか罰の意味とか、そんなのはどうでもいいからずっとそばにいてほしかったのに」

 いつも通りの軽い声に、切々とした感情が見え隠れする。ハヴェルの横顔はここではないどこかを見ていた。


 これまでずっと近づかないようにしてきたハヴェルの過去。リーフェはそれを、絶対どうにもならないものだと思ってきた。しかし今なら、踏み込める自信がなぜかあった。


 その灰色の瞳が映しているものを想像しながら、リーフェは言った。

「でも、そういう人だから、あなたはそのエリクって方のことが好きだったんですよね」

 それはある意味急所をえぐる言葉ではあったが、そのわりには優しげに響いた。


 ハヴェルはリーフェに虚をつかれることは想定していなかったらしく、一瞬呆然とした顔になって、黙り込んだ。

 リーフェは何も言わずに反応を待った。


 そしてハヴェルはだいぶしばらくたってから、口を開いた。

「最初から君を指導する気はあんまりなかったけど、やっぱりどうやっても僕は君の指導官にはなれそうにないね。このまま正式にイグナーツにやってもらおうか」

 ハヴェルはとりあえず、リーフェを遠ざけようとしていた。自分を理解しようとしてくる存在を近くに置きたくないらしい。

 また、ハヴェルはリーフェのことを認めたがために、その指導責任を完全に放棄する気になったようでもあった。リーフェが本当にいつか一人前になれるのだとしたら、自分はその指導官にはふさわしくないと考えたのだろう。


 しかし、リーフェはハヴェルの言う通りにしようとは思わなかった。

(昔の私なら、これで良かった。でも今は、そうじゃない気がする)

 かつてはリーフェがハヴェルから距離を置こうとしていたが、今は立場が逆転していた。リーフェはさんざんハヴェルに困らされていた分、仕返しをしてやりたいと考えていた。

 だがそれだけではない、ハヴェルを想う心というものも、確実に芽生えつつあった。


 リーフェは馬車の手すりを握り、流れていく景色を見ながら遠い故郷を思い出して言った。

「私、弁護士になりたいと思うきっかけになった人がいるんです。私に生きる意味をくれた人が」

 突然の話題ではあったが、ハヴェルは一応興味を示した。

「ふーん。で、死んだの?」

「いや、普通に生きてるんですけどね」

 無神経なハヴェルの反応を軽く流し、リーフェは話を進めた。

「……私に大切なことを教えてくれた人は死んでいないので、あなたの気持ちはわかりません。会ったこともない人ですから、死んだ人の気持ちも知りません。所詮人は、自分のことしかわかりません」

 今のリーフェは、多少はハヴェルの考えていることが想像できる。だが、それは本当に少しの理解に基づくもので、正しいものではないかもしれなかった。だがリーフェは、まずは完全にはわからないことを自覚することが、相手の心に寄り添う一歩だと思った。


 リーフェはハヴェルの方へと向き直って、その顔をしっかりとのぞきこんで自分の考えを伝えた。

「でも私は、もしもトマーシュ様が死んでしまったら、あの人がやれなかったことをやり遂げたいと思います。あなたも本当はそうなのでは?」

 街の喧騒の中でもリーフェの声はよく通り、はっきりと響いた。

 ハヴェルは何も言わず黙っていた。それが答えだった。


 エリクという無二を失って、ハヴェルはすべてを投げ捨ててきた。仕事も生活も人間関係も何もかも、真面目に向き合わなかった。

 金持ちで美形であること以外の長所が少ない、真正のろくでなし。

 だがハヴェルは、エリクと始めた法律事務所だけは捨てなかった。他人任せで自分では何一つ働かなかったかもしれないが、その場所を守り存続させた。

 リーフェは最初、ハヴェルが事務所の所長である意味がわからなかった。何もしないならやめればいいと思っていた。


 しかし、ハヴェルは一見すると無意味であるのに事務所に居続けた。それは、そこが死んだエリクが残した場所だったからなのだろう。

 ハヴェルは基本的には情が薄い。だが本当に心を許した人に対しては、実は非常に一途なのである。


 こちらを向こうとしないハヴェルを、リーフェはじっと見つめ続けた。その横顔は変わらず造りもののように美しかったが、今は普段にはない感情の揺れを秘めていた。

「だから私は、あなたが私の指導官に絶対なれないとは思いません。できればどうにかやってもらいたいです」

 リーフェはハヴェル・ノヴァーチェクという男を師にしてみたかった。真面目に生きているハヴェルを見たいと思った。できればそのとき、自分は隣にいたかった。

 それは最初に出会ったころには想像できなかった感情だった。


 馬車の音がガタゴトと響く。

 ハヴェルはまだ何も言わなかった。リーフェの方も見なかった。

 しばらくの間、沈黙が流れた。


 やがてハヴェルはあきらめたように小さくため息をついた。

 そして、いつも通りの気の抜けた表情に戻り、リーフェの手を握って笑いかけた。

「それじゃあ、僕が君のこと好きになっちゃったら、責任とってくれるの?」

 外からふりそそぐ光の中で、ふわりとハヴェルの端正な顔が優しくゆるむ。うしろでまとめられた銀の髪は照らされて輝き、前髪もきらきらと流れて日に透けた。


 その笑顔がとても綺麗で素敵だったので、リーフェはそれがその場を取り繕うためのものであるとわかってはいても、ときめいてしまった。

 自分の手が汗まみれなのが恥ずかしくなるくらい、ハヴェルの手はなめらかで冷たくて、指を絡められるとどきどきする。

 やや離れていたはずの距離も、いつの間にか縮まっていた。


(そうだった。この人はこうやって、色気で話をごまかすのが得意なんだった!)

 このまま流されるのは危険だと判断したリーフェは、慌ててハヴェルの足を踏みつけた。

 リーフェのルイヒールブーツのかかとが、重い音をたててハヴェルの足の甲に打撃を与える。


「っ!」

 ハヴェルは痛がり、リーフェの手を握る力が緩む。

 その隙に手を振りほどいて、リーフェはハヴェルから離れた。顔を赤くして、ハヴェルをにらみ非難する。

「まともに恋する気ないくせに、そういうことを言うのはやめてください」

「わからないよ、未来のことは。君だって僕のこと、好きになるかもしれないし」

 ハヴェルは足を痛そうにかばいながらも、リーフェをからかい続けた。

「あなたと恋をするほど私は血迷っちゃいませんよ。そりゃ顔は好みですけど」

 リーフェはきっぱりと断言した。


 初対面のころと違い、リーフェはハヴェルのことを少しは好ましく感じている。指導官になってほしいと思うほどには、嫌いではない。

 しかし、いやだからこそなのか、これから先ハヴェルに触れられて惑わされることはあっても、恋愛対象として考えることはないような気がしていた。単なる負けず嫌いでそう思っているだけかもしれないが、何となくそういう直感があった。

(どちらにせよ、私は不毛な恋ができるほどロマンチストじゃないから)

 ふざけて口説くふりをするばかりで本当の恋の相手になってくれる真摯さは持っていないだろう、というのがリーフェによるハヴェルの恋愛対象としての人物評価だった。


 そっぽを向くリーフェの顔を、ハヴェルがいたずらっぽくのぞきこむ。

「それは照れ隠し?」

「違いますって!」

 まだなお懲りずにいじり続けるハヴェルに、リーフェは思わず大声を出した。

 怒鳴られても、ハヴェルはずっとくすくすと笑っていた。

 苛立たないと言えば嘘になるが、以前のような意地の悪い笑い方とは違うような気がした。不思議と、本当の意味では腹が立たない。


 これはハヴェルなりに受け入れてくれたということなんだろうと、リーフェは思った。


 リーフェはハヴェルから目をそらして、外の風景を見た。夏の太陽に照らされた道の先には、もう事務所が見えていた。

 灰白色の煉瓦の建物が並ぶ通りの中の、その一つ。

 スシェンキ法律事務所はそこにあった。

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