第24話 裁判所2

 そのとき、傍聴席側の入り口が音を立てて開いた。


 見ると、いまだざわざわとしている傍聴席に姿を現したのは、ハヴェル・ノヴァーチェクだった。ものすごく遅い入場ではあるが、一応リーフェの様子を見に来たらしい。


 ハヴェルはフロックの上に黒いロングコートを羽織って座らず立っていた。コートは立派な仕立てのもので、先日見た正装よりもさらによく目立つ装いである。

 大きな窓から射しこむ日の光に照らされたハヴェルの姿は、まるで神の使いか何かのように美しかった。

 その本当に血が通った生き物なのかわからなくなるほど端麗な顔が、ゆっくりとリーフェの方を向く。そして途中入場で今の状況を把握していないはずなのに、すべてわかった面持ちで薄く笑って、試すような瞳でリーフェを見た。


『君はこうなってもまだ、その真実とか正義ってやつを守れるのかな……?』


 そう問いかけるように、ハヴェルは高い場所からリーフェを見下ろしていた。


(そうだ。私は、この人には負けられないんだった)

 ハヴェルに見つめられて、リーフェの心に再び火が灯る。


 リーフェはカリナとサシャのためになることがしたかった。だがリーフェの選んだ方向はカリナに認めてもらうのが難しく、相手を想う気持ちだけでは踏み出せない。

 そんなとき最後にリーフェを突き動かすのは、誇りや面子、志を賭けたハヴェルへの闘争心であった。

(私は、あの人の言うような考え方はできない。トマーシュ様に胸を張ってまた会いたい。そういう人間で、あり続けたい!)

 リーフェはその茶色の瞳を凛と輝かせ、少し遠くに立つハヴェルの姿をまっすぐに見据えた。

 目の色が変わったリーフェの様子に、ハヴェルは意外そうに眉を上げた。どうやらハヴェルは、リーフェが屈することを期待していたらしい。


 ハヴェルに自分の意思を示すと、リーフェはカリナの方を向き小さくうなずいた。

 リーフェの決意をこめた表情に、カリナはうろたえた。怒りとあきらめが入り混じったような顔をして、リーフェを見る。


 そしてリーフェは謝るようにゆっくりとカリナから目を離すと、法廷全体を見て口を開いた。

「被告人の妹サシャ・バルトンが本当の加害者であるという事実をこの裁判で明らかにするべきかどうか、私はずいぶん悩みました」

 リーフェの声は朗々と響き渡り、ざわついていた周りも静かになる。

 はやる気持ちを抑え、リーフェは用意してきた原稿を確認しながら続けた。

「なぜならサシャは年少者で、しかも被害者ヤーヒムは彼女の実の父親です。被告人は幼い妹に父殺しの罪を背負わせたくないがために、自分がヤーヒムを殺したことにしようとしました」

 そこでリーフェは一旦息を継ぎ、そっとカリナの様子をうかがった。


 カリナはわなわなと震え、リーフェをにらんでいた。

(届くだろうか、カリナさんに)

 不安を抱えながらも、リーフェはもう止まらなかった。自己犠牲によりこじれるものもあることをカリナに伝えたくて、リーフェは続けた。


「私は被告人の弁護士です。被告人を幸せにするためにいます。そしてその被告人カリナ・バルトンの幸せは、妹サシャ・バルトンの幸せでもあります。被告人は妹サシャを幸せにするために、彼女の罪を被ろうとしました。しかし、そうするとこで本当に被告人の妹サシャは幸せになれるのでしょうか」

 リーフェは法廷の人々に話していたがそれはほとんどカリナへの問いかけだった。

 何かに気付き出した表情で、カリナは黙ってリーフェの言葉を聞いていた。

「父親を殺し錯乱したサシャ・バルトンは、被告人にすべてを忘れるように言われて、懸命にその通りにしようとしています。もしかしたら本当に忘れているのかもしれません」

 救貧院で会った際のサシャの言動を、リーフェは思い出す。忘れたと言い張っていたサシャの記憶や認識がどうなっているのか、リーフェにはわからない。

「しかし、この先サシャ・バルトンが成長して、姉が自分のためにしたことを理解する可能性もあります。十分起こりうる事態です。そのときサシャは、自分の代わりに姉が罰を受けたという事実を前にして、何を思うのでしょうか。姉の人生を犠牲にしてしまったことに負い目を感じ、かえって傷つくのではないですか?」

 静まりかえった法廷に、リーフェの声はしんと響いた。


「こうして考えてみると、やはり真実に基づいた裁きには価値があるのだと、私は思います」

 これが、リーフェの出した答えだった。


 真実は時に、人を深く傷つける。ハヴェルは親友を失い、虚無的になった。カリナは妹の罪が明らかになることを恐れ、心を閉ざす。そんな現実を前に、リーフェもいろいろ迷い、悩んできた。

 だがそれでもリーフェは、真実を求め続けた。妥協することが一つの解決策なのだとしても、リーフェにはやはりごまかしや逃げだとしか思えなかった。道のりが困難であればあるほど、なおさら真実や正義を大事にするべきだと強く感じた。

 リーフェを駆り立てる、理屈ではもう変えることができない形で心に刻まれた信念。それはトマーシュに救われたその日から、絶対的な価値観としてリーフェの中心にあり続けていた。

 そのためリーフェは結局、真実を明らかにするという以外の決断は最初から選べなかった。身勝手で独りよがりな、リーフェが後悔しないための選択である。

 難しいことだとわかってはいたが、リーフェは真実を明らかにした上でカリナを救いたかった。その方法を、リーフェはずっと探し続けた。


 そうしてやっと得たのが、今言葉にした考えである。

(嘘ついて罪から逃れた結果、大切な人に重荷を背負わせてしまったら、やっぱり嫌な気持ちになると思うんだよね。まぁ、これも私の想像だけど)

 相手の過去や事情を知ったとしても、自分にわかるのは結局自分のことだけであることを、ハヴェルと過ごすうちにリーフェは学んだ。

 カリナとサシャの気持ちを本当の意味で理解することは、他人であるリーフェには一生できない。同じようにカリナもまた、姉妹とはいえサシャの感じていることが完全にわかるわけではないだろう。

 誰にとって、何が幸せなのか。その問いに確実な答えはない。

 リーフェはだからこそ、真実を明らかにすることにした。


 話し終えたリーフェは、カリナの方を向いた。

 カリナは泣き出しそうな顔をして、リーフェを見ていた。そしてうつむき、崩れるように椅子に座りこんだ。何もリーフェに対して言わなかったが、今までの沈黙とはまた違う気がした。

(納得してもらえた……のかな……?)

 周りを見回してみると、裁判長や検察官もだいたい事情が把握できたような顔をしていた。

 リーフェはおぼろげながら、達成感のようなものを感じた。

「以上です」

 やるべきことをやった気持ちになったリーフェは、半ば放心状態になって着席した。


 すると、隣にいたイグナーツが慌てて耳打ちした。

「リーフェ君、証拠の話とかがまだだ」

「あ、はい。そうでした」

 リーフェはあたふたと立ち上がり、カリナではなくサシャがヤーヒムを殺害したという事実を証明する根拠について話した。地下鉄の運休や二本目のナイフについてのことである。

 最初の陳述で力を使い果たし、その後のことはほめられた出来ではなかった。しかしイグナーツが手助けしてくれたので何とかなった。


 途中でハヴェルのことを思い出して、リーフェは傍聴席を横目で見た。しかし、もうすでに姿は消えていた。見るべきものは見たと考えたのだろう。


 そうして、リーフェの初めての裁判も終わりが近づく。


「では、検察側からの異議もないため、ここで判決を言い渡す」

 休廷を挟んでいくつかの事務的な手続きが行われた後、裁判長が判決文を読み上げた。

「ヤーヒム殺害について、被告人カリナ・バルトンは無罪。サシャ・バルトンへの容疑は、後日改めて審理することとする」

 裁判長は低く重々しい声で、判決を言い渡した。

 無罪という言葉に、リーフェは自分がひとつのことを成し遂げたらしいことを認識する。

 前に立っている検察官も、不思議そうな顔をしつつもリーフェを見て小さくうなずいていた。

(私はカリナさんを、無罪にしたんだ)

 リーフェは漠然とした思考の中で、そう思った。


「では、本日はこれにて閉廷」

 裁判長が終わりをつげ、立ち去る。

 想定されていなかった結末に、人々はざわざわと話しながら退出していった。


 イグナーツは机の上の書類をまとめながら、リーフェに微笑みかけた。

「良かったな、リーフェ君。うまくいったんじゃないか、多分」

「そうですね」

 リーフェはぼんやりと返事をした。終わったという実感はまだわかず、イグナーツが言っていることも頭に入ってこなかった。


 とりあえず片付けて帰る準備をしていると、目の端でカリナが廷吏に付き添われて出て行くのが見えた。


「カリナさん!」

 慌てて呼び止め、リーフェは駆け寄った。

 カリナは足を止め、ゆっくりと振り返った。

「弁護士さん……」

 感謝するべきか責めるべきかわからず、カリナは困っているようだった。リーフェがもたらした未来を受け入れていいものなのか、まだ決めかねているらしい。


 そして、カリナは震える声でリーフェに言った。

「私がありがとう、とか言うのを期待してるの?」

 精一杯の強がりで保たれた棘のある態度。今までの自分の立場を守るため、カリナはリーフェを遠ざけることにしたようだった。


 しかし最後にカリナへもう少しだけ伝えたいことがあったので、リーフェは引き下がらずに言った。

「いいえ。私は、あなたに謝りに来たんです」

 カリナに歩み寄り、そのもつれた黒髪の下で戸惑っている瞳を見つめる。

「たくさんご迷惑をおかけして、すみません。でもこれが、私のするべきだと思ったことでした」

 今までずっとカリナの気持ちを無視し続けてきたことを申し訳なく思いながら、リーフェは目をそらさずに謝罪した。


 距離を詰めるリーフェに、カリナは信頼するべきかどうか悩んでいる様子で見つめ返した。

 リーフェは気持ちを強制させないように慎重に言葉を選んだ。

「私にも、これで良かったのかまだわかりません。だから、お礼はいいです。もし感謝してもらえるなら、今日のこの裁判の判決が良かったと思えたその日がいいな、と思います」

 サシャがこれから別の裁判でどう裁かれるのか、その結果はまだ見えない。

 今日自分がしたことを、リーフェは後悔はしていない。しかし、カリナとサシャにとって絶対に良いことだったとは言い切れなかった。


 リーフェの願いに対して、カリナは黙って顔をそらした。

 また「もし良いと思える日が来なかったらどうするのか」などという批判的な返答をされるのかもしれないと思い、リーフェは一瞬身構えた。


 しかし、帰ってきたのは想像していたのとは違う言葉だった。

「……最初はこんな無遠慮な人は嫌だと思ったけど、もしかしたらあなたみたいな弁護士さんで、良かったのかもしれないね」

 カリナは今まで一回もリーフェに見せたことがないような、柔らかい表情の横顔でそうつぶやいた。

 そしてそのまま背を向けて、カリナは廷吏とともに去っていった。


(今のは感謝の笑顔だったのかな。それともあきらめの……?)

 自分の見たものが信じられず、リーフェは無言で立ち尽くしてカリナの後ろ姿が遠くなっていくのを見送った。





 そしてそれから数か月後、サシャ・バルトンのヤーヒム殺害の容疑についての裁判が行われた。リーフェよりもずっと腕が良くて年少者の犯罪に詳しいベテランの弁護士の人が、サシャの弁護を担当した。

 その裁判の様子を、リーフェは傍聴席で見ていた。とても良い裁判で、勉強になった。

 サシャは無罪放免というわけではないが、事件に至った家庭環境がかなり考慮され、通常の少年院と比べると条件の良い施設に送られることとなった。


 わずかな違いはあっても、サシャはより良い結果を迎えることができた。

 リーフェはそのときやっと、本当の意味で裁判を終えることができたのだと思った。カリナとサシャに対して抱いていた後ろめたさも、薄らいでいく。


 しかしまだそれでも、カリナが最後に見せた表情の意味をリーフェは図りかねていた。

(あの時カリナさんは、私にどんなことを思ってたのかな……)

 一定の安心感は得られても、その疑問はずっとリーフェの心に残り続けた。

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