第21話 法律事務所7

 リーフェが事務所へと帰ったのは、もう完全に日が暮れたころだった。

 事務所にはイグナーツが戻っていて、何やら仕事の書き物をしていた。

「おかえり、リーフェ君。わりと遅かったが、何かあったか?」

 イグナーツはリーフェの表情が暗いことに気がついて、何気なく尋ねてきた。


「……それはまた、後々相談します。とりあえず今日の夕ご飯は、シチューの温め直しとパンだけでいいですか?」

 今すぐに事件の真相のことを話そうとは思えず、リーフェは荷物を自分の机に置くと椅子に掛けておいたエプロンを手にした。


「俺はそれで構わないよ。昨日のシチューは美味しかった」

 深くは追求せず、イグナーツは書き物を続けた。こういうときに無理に話を聞こうとしないところが楽でいい人だと、リーフェは思った。


 ハヴェルが部屋から出てこなかったので、夕食は二人だけであった。


 食事を終えた後も、リーフェは自室に戻らずに事務所に残った。自分の考えを整理するために、まずは今日わかったことをもとにして裁判の冒頭陳述の要旨の草稿を書いてみることにしたのである。


 事務所で一人、机に向かう。ランプは机の近くのものだけを灯してあるので、部屋は薄暗かった。

(どうすれば、カリナさんが犯人じゃないことを証明しつつ、あの姉妹を幸せにできるんだろう……?)

 リーフェは迷いながらもペン先をインクに浸し、白紙に思いつくまま書き出した。途中何度も手が止まったが、それでも何とか努力した。


 だが結局、数時間後に出来上がったのは、事実をまとめただけの文書だった。

(これじゃあ、最悪な形でただ暴露するだけになっちゃうよなぁ)

 リーフェは机の上に突っ伏し、自分の能力不足を噛みしめた。もう夜の二時を過ぎた深夜なので、少々濃い目の眠気に襲われてもいた。リーフェは半分悩み、半分眠った。


 そうしていると、頭上から嘘っぽい甘さのある声がした。

「ふーん、これが君の担当している事件の真相か」

 慌てて起き上がると、机の上に座ったハヴェルがリーフェの書いた要旨を読んでいた。


 ハヴェルは白いナイトシャツにガウンを羽織っていて、胸元はもちろんはだけていた。隣の席が空いているのにも関わらず椅子ではなく机に腰かけているので、細い足首と裸足の足がよく見えた。中が見えるわけではないけれども、それでも少しは気にはなる。


「何、勝手に読んでるんですか!」

 リーフェは要旨をハヴェルから取り返そうと手を伸ばした。人に見せるために書いたものではないので、あまり読まれたくはなかった。

 するりとリーフェの手から逃れて、ハヴェルは紙を持ったまま笑った。

「だって、僕は君の指導官だよ? 読んで指導してあげないと」

「都合のいいときだけ指導官のふりをするのはやめてください。普段は何もしないくせに」

 リーフェは机の上に手をついて、ハヴェルをにらんだ。余裕がないので、態度はいつも以上に刺々しくなる。


 だがハヴェルはあまりなだめる気はないらしく、むしろ煽るように人を馬鹿にした微笑みを浮かべていた。

「いらいらしてるね。やっと、自分のやったことの意味がわかったかな?」

 気づかないうちに距離を詰め、ハヴェルは机の上からリーフェを見下ろす。夜の部屋の薄暗さの中で、ハヴェルの灰色の瞳はリーフェをやんわりと突き放していた。

 その綺麗だが冷たいまなざしに射抜かれて、リーフェは何か言うのを忘れて一瞬見惚れた。


「だから正義とか真実は胡散臭いって、教えてあげたのに」

 ハヴェルはゆっくりと、その白い手をリーフェの顔に近づけた。そして、机の上で寝ていたせいで乱れた髪のほつれをそっと耳元にかけて直す。

 くすぐったいうえにからかわれているようで、あまり気持ちのよいものではないのだが、リーフェはなぜか抵抗できなかった。


「あなたは気づいてたんですか? カリナさんがサシャちゃんを庇っていたこと」

「ちゃんと調べたわけじゃないから言わなかったけど、君から話を聞いたときから、そういう可能性もあるんじゃないかなぁとは思っていたよ」

 最初からあきらめた顔をして、ハヴェルはリーフェの髪をもてあそびつづけた。その言葉には、嘘はないようだった。

 何も考えていないように見えて、実は誰よりも事件の本質を理解していたハヴェルに、リーフェは完全に負けた気持ちになった。

「私が鈍くて、馬鹿だったってことですね」

 リーフェは悔しさにうつむいた。カリナが背負っているものをもっと早く察することができなかった自分が不甲斐ない。


 落ち込むリーフェに、ハヴェルは優しげに囁いた。それは励ましに見せかけた鋭い追い打ちだった。

「君はよくも悪くも素直だから」

「……わざわざ響きのいい言葉に言い直してくれて、ありがとうございます」

 反論できないもどかしさをこらえて、リーフェは何とか皮肉めいたお礼を返した。

「どういたしまして」

 ハヴェルはくすくす笑っていた。意地の悪い笑いだった。


 そしてひとしきり笑い終えたハヴェルは、より一層冷たい瞳になって、リーフェを見つめてそのあごをつまんだ。

 ハヴェルの冷たい指の感触に、リーフェの体はびくりと震えた。

(この人は今、何を……?)

 リーフェは何が起きているのか理解できないまま、机の上に腰掛けるハヴェルを見上げた。


 ハヴェルは口づけをするかのように顔を近づけて、リーフェに甘い声でつぶやいた。

「それで君は、カリナって子が守ろうとした秘密を暴いて、これからどうするのかな?」

 形の良いくちびるが紡ぐ言葉に吐息を感じ、鼓動が速まる。


 混乱してなすがままにされているリーフェではあったが、ハヴェルのその挑発的な発言はしっかりと耳に届いた。

(確かにこの人が言っていた通り、私はカリナさんの秘密を暴いて傷付けた。でも、それでも私は……)

 リーフェはうつむき、カリナとサシャのことを考えた。

 無実のカリナに彼女の望み通り妹の罪を抱えさせるか、幼い殺人者であるサシャにその罪をそのまま背負わせるか、この姉妹には残酷な結末しか許されていなかった。どちらを選ぶにせよ、全く問題のない幸せな未来は見えない。


 リーフェは答えが見つからないまま、目を上げた。目の前には、静かな絶望を秘めたハヴェルの美しい微笑があった。もうすぐ口と口が触れあうのではと思える距離であった。

 その度を超えた近さで我に返ったリーフェは、あごに触れているハヴェルの手を掴んで立ち上がり、机の上でねじりふせ叫んだ。

「今考えているところですから、あなたは邪魔をしないでください!」

 腕力では優位に立つことに成功したリーフェは、ハヴェルの手首を強く握りしめながらにらんだ。


「――っ……。ちょっと君、本気でやりすぎじゃない?」

 腕をねじられている状態がわりと痛いのか、ハヴェルは慌ててリーフェを止めようとした。

 リーフェはハヴェルの手を乱暴に離すと、奪われた要旨を取り返した。少々力を入れ過ぎた気もするが、先に手を出したのはハヴェルの方であるので、謝ろうとは思わなかった。


 ハヴェルは腕をさすりながら、余裕な態度に戻ってリーフェに言った。

「君が何を選ぶのか、楽しみにしているよ」

 高みから見物するような口調だった。


 リーフェは黙ってハヴェルを一瞥して背を向けると、部屋を出て自室に戻った。これ以上ハヴェルとは話したくはなかった。





 自室に戻ったリーフェは、そのままベッドに座り込み、頭を抱えて深いため息をついた。

(今日のところは何とか全部これから考えますで切り抜けてきたけれども、裁判の日にはちゃんと答えを出さないといけないんだよね……)

 カリナとサシャのこと、ハヴェルのこと、トマーシュのこと、様々な人のことがリーフェの心に浮かんだ。


 リーフェはベッドに仰向けに倒れ込んで、天井を見上げた。明かりをつけていない部屋は暗く、細い三日月の光だけがわずかに窓から射しこんでいた。

 自分がしようとしていることはサシャを守ろうとするカリナの決意をないがしろにするものではないのかという葛藤が、深夜の闇の中でリーフェの胸の奥に重くのしかかる。

 今まで何事も真実が大事だと思っていたリーフェではあったが、幼いサシャのことを考えるとカリナの言う通りにした方がいいような気もしてきた。そもそも自分には、彼女たちの人生に口出しできる権利はないのかもしれないとさえ思える。


 閉じた目を手で覆って、リーフェは考え込んだ。普段起きてはいない時間であるということもあり、頭が痛かった。


 こうなってみて初めて、リーフェはハヴェルが言ってきたことは忠告だったのだと、本当の意味で実感した。態度にはかなり問題が多く、その言動は極端すぎたが、逃げずにもっと真剣に彼と向き合うべきだったと今は思った。そうすればもしかしたら、カリナの信頼を得ることができて、事件の真相もより良い形で明かすことができたかもしれない。

 ハヴェルを決定的に懐疑的にした、親友の死。その死に対して、リーフェは何も言うことはできず、ハヴェルと距離を縮める方法もない。

 同じようにまた、カリナとサシャが抱える二律背反について、リーフェができることも少なかった。


 何もかも、誰に対してもリーフェは無力である。


 リーフェは目を開けて、窓の外の月を見つめた。

(トマーシュ様なら、私にどんなことを言ってくれるんだろう?)

 一人では心が折れてしまいそうなので、トマーシュに救いを求める。


 自分の信じた道を進めと言ってもらえるのか、それともまた違う道を指し示してくれるのか、どうなのだろうかと想像した。だがトマーシュは遠くにいて、リーフェはただ憧れているだけで彼の考え方がわかるわけではないので、答えは出なかった。

 記憶の中のトマーシュの手は温かく、その笑顔は優しい。その思い描いた姿がまぶしいほど、今の駄目な自分が歯がゆい。


 結局のところリーフェはトマーシュのようになりたくて弁護士を目指していただけで、人を救うということの本当の意味をわかっていなかった。カリナを助けたいと思っていた気持ちは、真に相手のことを考えた結果ではなかった。リーフェはただ、弁護士らしいことがしてみたかっただけである。

(だから私は、カリナさんに信頼してもらえなかった。人のためと言いながら、自分のためにしか動かないから)

 今まで取ってきたすべての態度が悔やまれた。自分の浅はかさが恥ずかしくなって、連鎖的に情けなくなる記憶が蘇っていく。


 後ろ向きな考えをふり切れないまま、リーフェは月に背を向けて横になった。

 今までリーフェは、カリナのことがわからずに勝手なことばかりをしてきた。その結果、カリナを傷付けた。

 だがそれでも、たとえ自己満足や独善だと言われたとしても、自分が信じる弁護士として後悔のない選択をしたいとリーフェは思った。

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