第18話 居酒屋

 ティルキスの中心部に位置するからくり時計通りは、バーやパブが密集する夜の街である。ごちゃごちゃと店が並ぶ眺めは洗練されているとは言い難く、客引きも多い。だがいかがわしい売春の店が多いというよりはただ飲んで食べるための居酒屋が中心で、客層も大勢で飲んで騒ぐ人たちが中心だ。


 そんな通りにあるにしては比較的静かな佇まいの小さなパブで、リーフェはイグナーツと飲みに来ていた。

 席はカウンターとテーブルがいくつかあるだけで、照明も内装もおとなしく落ち着いた雰囲気の店である。客もリーフェ達の他に数組しかいなかった。


「たまには先輩と後輩でゆっくり話す機会もあった方がいいと思って誘ってみたんだが、嫌じゃなかったか?」

 カウンターに腰掛けて注文を待ちながら、イグナーツは尋ねた。


「いえ、全然大丈夫です。一人だとなかなかこういう店には入れないので、嬉しいです」

 リーフェは見たこともないような銘柄のお酒が並ぶ棚を眺め、わくわくして答えた。

 先日ハヴェルと行った高級レストランでは困り果てて味もわからなかったので、今日はしっかりと食べたい気分だった。まだ裁判への不安は強いが、今日は仕事が進んだような気がしているせいか、少々心にも余裕がある。


「ご注文の生ビールとカルヴァドスの氷割り、豚肉のカツレツ、チーズの盛り合わせです」

 てきぱきと働く店主が、お酒と料理をカウンターに置いた。


 カツレツが冷めないうちに、二人はまず食べて飲んだ。

(あ、お肉おいしい)

 リーフェは肉を噛みしめ、幸せに浸った。

 一口大にカットされた豚肉にパン粉をまぶしてラードでじっくり炒め揚げたカツレツは、さっくりとした衣が美味であった。添えられた赤スグリのソースをつけて食べると甘酸っぱくてまた良かった。


 食事が進んだところで、イグナーツがチーズを小皿に載せつつリーフェに聞く。

「今日はいろいろな場所を調べたみたいだな。収穫はどうだ?」

 真面目な話をふられたリーフェは、慌てて口を拭いてかしこまった。

「はい。役に立ちそうな発見がいくつかありました。それにどんな意味があるのか考えるのは、これからですけれども」

「そうか。順調そうで良かった。うちの事務所、先生がいてあまり集中できる環境じゃないから心配していたんだ」

 イグナーツは安心した様子で、リーフェに小さく微笑んだ。

 それはほんのささいな優しさであったが、お酒が入って気分がよくなっているリーフェにはとても嬉しく感じられた。

「お気遣い、ありがとうございます」

 リーフェは深々と感謝を表し、頭を下げた。

「俺も一応、リーフェ君の指導官代理だから」

 イグナーツも雰囲気に流され、はにかんだ。

 ハヴェルのいないところで改めて見ると、イグナーツの顔もすっきりと整っていて十分美形である。たしかにどこか印象が薄いのであるが、それでも人が良さそうに見える明るい緑色の目は綺麗に澄んでいた。


 こうしてリーフェはイグナーツと打ち解けて、様々なことをしゃべった。実家のことや弁護士になった理由など、どうでもいいことから大切なことまで話して、聞いた。

 話題はリーフェやイグナーツのことだけではなく、ハヴェルのことにまで広がった。

「そういえば私、最近知ったんですよ。あの事務所にいた、もう一人の話」

 何だって話せる気持ちになっているリーフェは、とくに忌避せずにエリクの話を出した。イグナーツが事件のことをどこまで知ってどう思っているのか、それが聞きたかった。

 イグナーツは少し表情を曇らせたが、口ごもることなく返した。

「あぁ、あの話か。俺もそう詳しくはないが、ひどい事件だってことは知っていた。先生が話してほしくなさそうだったから、リーフェ君には言わなかったが」


(先輩も、私と同じくらいにしか知らないっぽいな。だけど……)

 同情はしてもそれ以上のことは考えたくなさそうなイグナーツの様子に、リーフェは自分と同じものを感じた。しかし、イグナーツの態度には、リーフェとは違って迷いがないように見えた。

 真実を話すよりも黙って罪人になることを選ぶ被告人もいるという問題に対して、リーフェはいまいち自分の考えも信じきれないところがあった。イグナーツがどのように折り合いをつけているのか気になって、リーフェは思い切って質問した。

「先輩は被告人が真実を知られるよりも黙って罪を被ることを望むなら、その通りにしますか? それともどんな理由があるにしても、真実を明かしますか?」

 論点を包み隠さない答えにくい質問であったが、イグナーツは考え込みつつもあっさりと答えた。

「そうだな……俺は、先生みたいに真実や正義が無意味だとは思えない。しかし、かと言ってそういうものを守るのが一番大事だとも言えない。何というか、どちらも両極端すぎないか?」

 極端という言葉に、リーフェははっとした。イグナーツとしてはリーフェ個人に言っているわけではないだろうが、リーフェは自分のことを言われているように感じた。

(あれ、もしかして私もあの人も、どっちもおかしい……?)

 リーフェは今まで、ハヴェルの考え方が歪んでいるのであり、自分は普通の価値観を持っていると思っていた。だがイグナーツの言葉を聞いて、リーフェ自身も異端かもしれないことに気づかされた。


 イグナーツはほおづえをつき、グラスの中の酒につかった氷を眺めながらリーフェに言った。

「何が正しくて、何が間違っているのか、答えの出ない問題を人と人が話し合ってより良い判断を探すのが司法なのだと、俺は思う。だから俺は、そのときにならないと決められない。逃げかな、これは」

 自信がなさそうに言い終え、イグナーツは質問に答えたことになっているのか確かめるようにリーフェを見つめた。

「いいえ。先輩らしい一つの答えだと思います」

 リーフェは目を伏せ、イグナーツの言葉を頭の中で反芻した。イグナーツの中庸な姿勢を美徳だと思った。


 しかし、自分がそう考えられるかというと、話はまた別であった。

(先輩には先輩の答えがあって、あまり認めたくないことだけどあの人にはあの人の答えがある。じゃあ、私は? 私は今のままでいいのかな……?)

 リーフェはこれから自分がカリナにしようとしていることについて考えた。まだ事件の真相はまったくわからないが、このままだとカリナを傷付けてしまうのは確かだと思った。カリナを救いたいと思うけれども、そうしようとすればするほど、彼女の気持ちから遠ざかっているような気がした。


 どうしようもなくなって、リーフェは食事に戻った。焼きソーセージも追加で注文し、お腹いっぱいになるまで食べ続けた。

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