第16話 ハヴェルの寝室
その夜の帰り道、リーフェとハヴェルは事務所の前で馬車から降りた。
リーフェは眠ったハヴェルに肩を貸していた。ハヴェルは背が高いわりに細いので、実家の農家で俵を運んでいたリーフェにとっては軽いものだった。
「ほら、もう着きましたから、ちょっと起きてください」
ハヴェルを起こそうと、軽くこづく。だが飲んで食べた結果酔いつぶれたハヴェルは、まったく目を覚ます気配がなかった。
「最後は寝オチとか、ありえないでしょ……。だから追加のワインはやめておけばよかったのに」
相手が寝ているので、今日は声に出して心置きなくつっこみを入れる。
リーフェは着なれないドレスの裾を踏まないように注意しながら、ハヴェルを担いだまま玄関の前に移動した。手がふさがって鍵を出せないので、呼び鈴を鳴らすと、イグナーツがドアを開けて迎えた。
「遅かったですね……、って先生、寝ちゃったのか。アル中には本当に困るな」
「馬車に乗ったら、気づいたら寝てたんですよ」
リーフェは軽く状況を説明した。
ハヴェルが熟睡して帰ってくることは想定の範囲内だったらしく、イグナーツはあまり驚いてはいなかった。だがめずらしく化粧をして着飾って戻ったリーフェの姿は意外だったようで、しげしげと眺めた。
「リーフェ君は、何だか立派な淑女になったな」
「そうですか? あんまりこういう格好って慣れないので、変な感じがするんですけど」
「いや、よく似合っている。ドレスもその髪も」
イグナーツにほめられて、リーフェは素直に照れた。ハヴェルの褒め言葉にはない、率直さが感じられた。
リーフェはイグナーツにも手を貸してもらい、ハヴェルを二階の寝室へ運んだ。イグナーツは非力なのであまり役には立たなかったが、それでも手伝ってはくれた。
ハヴェルの寝室はこの家の主人らしく広い部屋で、服や小物などの細々としたものはすべてウォークインクローゼットや物置に放り込んであるので表面上は片付いていた。置いてあるのは異国趣味な紋様のカバーがかかったベッドにサイドテーブル、そしてスタンドランプくらいであった。
「よいしょっと」
リーフェはイグナーツと一緒に、ベッドの上にハヴェルを転がした。眠るハヴェルはされるがままに、ベッドに投げ出された。
「それじゃ、俺は水を入れてくるよ」
イグナーツはサイドテーブルに置かれた空の水差しを持ち、一階へと下りていく。
そしてリーフェはハヴェルと二人、部屋に残された。
(あんまりこの人と残りたくなかったんだけどな)
リーフェはぐうぐうと眠るハヴェルを前に、ため息をついた。酔いつぶれたハヴェルは酒臭くて顔が赤かったが、それでもその寝顔はまぎれもなく美形だった。
(とりあえず、寝ゲロで死なないように、体を横に向けておこうか……)
リーフェはハヴェルの体を横にしようと、ベッドの上をさらに転がした。するとジャケットが半分脱げて、ハヴェルはシャツとベスト姿になった。ハヴェルのベッドは新婚用だろうか、というほどに大きいので、リーフェは妙な気分になってしまった。
そのとき、ハヴェルは無駄に長いまつげをふるわせ、ゆっくりと目をあけた。
「あれ……リーフェ……?」
ハヴェルはぼんやりとしたまなざしで、リーフェを見上げた。
自業自得なアル中が相手なので、リーフェはなるべく冷淡に対応しようとした。
「起きたんですか? 調子は?」
「悪い」
ハヴェルは覇気のない声でつぶやいた。どうやら本当に飲みすぎたらしい。
「いつもこれじゃ、早死にしますよ」
リーフェはハヴェルを見下ろし、言い捨てた。やたら大きなベッドの上にいるハヴェルは、いつもよりも華奢に見えた。
「別に長生きしたいとは、思わないけどね」
そう言うとハヴェルは寝返りを打って、そっぽを向いた。
(駄々っ子じゃないんだからさぁ)
リーフェはハヴェルの子供っぽい態度に少々いらついた。
だが同時に本当に、ハヴェルの行く末が心配になった。ハヴェルが生に執着していないのは嘘ではないことが、リーフェにはわかった。エリクを失ったハヴェルは、あまりもうこの世界に未練がないようであった。
「……もっと自分を大切にできないんですか?」
怒りと同情の区別がつかないまま、リーフェはハヴェルに問いかけた。リーフェとしては、突き放した言い方をしたつもりだった。だがしかし、それは普通にハヴェルを思いやるような言葉になってしまった。
ハヴェルはリーフェの殊勝な様子に、意外そうに目を上げた。だが結局、リーフェの気遣う気持ちにはまともにとりあわずくすりと笑った。
「あんまり優しくすると、僕は調子に乗るからね」
ハヴェルは気まぐれな受け答えに逃げることで、リーフェの真剣さも適当に流そうとしていた。
その言動に、リーフェはさらに腹が立った。
「茶化さないでください。これは忠告です。冗談で言ってんじゃ、ないですよ」
リーフェはいらいらと、声を荒げた。他人の誠意をふざけてごまかそうとするハヴェルが許せなかった。
気がつけば、リーフェはよくわからない衝動に駆られて、ハヴェルのベッドに座り手をついていた。案外距離を近づけてしまったので、リーフェはほとんどハヴェルを押し伏せたような形になっていた。
やや薄暗い部屋の照明のもと、リーフェのすみれ色のドレスがベッドの上に重なり広がる。白いシーツを握りしめ、リーフェは自分の影がハヴェルを覆うのを見ていた。
ハヴェルの深い灰色の目が、リーフェを見つめ返す。体温を感じるほどの至近距離で眺めてもなお、ハヴェルは最上級に美しかった。肌は陶器のように白くなめらかで、緩めたシャツの襟元から覗く首は細い。
その吐息の近さにリーフェの鼓動は高鳴った。目的を忘れ、考えることもできずに固まるリーフェ。
ハヴェルの方はしばらく、次はどうするつもりなのか試すように何もしなかった。だがリーフェが動けなくなっていることがわかると面白がって笑い、からかった。
「女の子に弄られちゃうのは、初めてかな」
甘噛みするような調子でハヴェルは囁いた。銀色の前髪がさらりと揺れて、そのすき間から灰色の瞳がリーフェを捉える。
その瞬間、やっとリーフェは我に返った。
(私は今、一体何を……!)
リーフェはベッドから手を離して立ち上がり、急いでハヴェルの体から離れた。だが感じた温もりはすぐには消えず、間近で見た姿は目に焼きついていた。
自分のしたことを改めて実感につれて、リーフェは頭の中はまた真っ白になっていった。恥ずかしさや気まずさに混乱して、言葉を失う。
そのとき、ドアを開けてイグナーツが戻ってきた。
「あ、先生起きたんですか」
イグナーツはリーフェとハヴェルの間にある雰囲気を察することなく部屋に入った。そして水差しとコップをサイドテーブルに置き、ハヴェルに背を向けたまま言う。
「じゃあ、着替えは自分でしてくださいよ」
「うーん」
日課をこなすように慣れた調子のイグナーツに、ハヴェルはつまらなさそうな顔をして再び横を向いて目を閉じた。
「ちょっと、また寝るとかなしですから!」
イグナーツはハヴェルが再び熟睡に入ったのに気付くと、慌てて体を揺すって起こそうとした。だが、ハヴェルはもうまたしばらく起きそうになかった。
(それじゃ、ここからはイグナーツ先輩の仕事ということで……)
リーフェは後をイグナーツに任せて部屋を出た。
しかしハヴェルの寝室を去って自室に戻ってもなお、リーフェの鼓動はうるさかった。
リーフェはドレスを脱いで、洗面台で化粧を落とした。何かをすることで、ハヴェルのこと以外について考えようとした。だがそれは、無理な話であった。
(あの人がどんな不幸を抱えてたとしても、私には関係ない。裁判が近い私は、あの人に構っている場合じゃない。だけど、私は……)
リーフェは真っ直ぐにハヴェルのことと向き合うことができるほど、健気な人間ではない。しかし切り替えて自分のやるべきことだけをやれる器用な人間でもなかった。
何も意味のあることは考えられないまま、リーフェは肌着姿になってベッドで横になった。とりあえずもう寝てしまいたかった。
幸いなことに、レストランで満腹になってワインも多少は飲んでいたので、眠気はすぐに訪れた。こうしてリーフェは、面倒事は明日以降に持ち越すことにした。
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