第15話 レストラン

 服を買った後、リーフェはハヴェルに連れられてオペラというものを生まれて初めて見た。

 教養のないリーフェには、何をやっているのかさっぱりわからなかったが、とにかくすごいものを見ているのだという気持ちだけで眠気を耐え、最後まで起きて鑑賞した。ハヴェルの方はだいたい寝ていたが、見せ場らしい歌の部分だけは目を覚ましていた。


 そうして二人は、夜はオペラ座から少し移動したところにあるレストランで夕食を食べた。

 そこは無数のアーチを描く天井を何本もの大理石の柱が支える、きらびやかなレストランであった。丸いテーブルと優雅な背もたれ付の椅子が並ぶ席では、お金持ちそうなたくさんの客が食事を楽しんでいる。

 リーフェとハヴェルが案内されたのは、窓際の席であった。高く細長い窓からは、夜の闇の中で明かりがきらめく外の街の様子を眺めることができた。月の浮かぶ空も見えたが、この都会では星の光はわからない。


「それで君、僕に話があるんじゃないの?」

 コース料理の中で順番に出されたスープを上品なしぐさで飲みながら、ハヴェルはリーフェに言った。さすがに本物の貴族なだけあってその姿は様になっている。

「何のことでしょうか」

 リーフェは長い前置きだったと思いつつも、間合いというものを考えて聞き返した。ハヴェルがリーフェと何の話をしようとしているのかは、最初から察しはついていた。

 出方を探るような調子のリーフェに、ハヴェルはどうでもよさそうな顔をして答えた。

「君が僕を嫌っているのは最初からだけど、最近はそれだけじゃないよそよそしさがあると思ってね。僕の気のせいなら、別にいいんだけど」

 ハヴェルもまた、リーフェがどう対応するか試すような態度であった。


(もう、逃げられないんだな)

 もはやハヴェルを無視できないことを、リーフェは憂鬱な気持ちで実感した。

 リーフェは味もよくわからないままスープを飲み干すと、嫌々最近の変化の理由について正直に明かした。

「……私、エリクさんって人のことを聞いたんです」

 殺された親友の名前に、ハヴェルの灰色の目が翳る。お互いに予想していた一瞬の沈黙。

 エリクという人は、本当にハヴェルの人生を良くも悪くも変えた大切な人だったらしい。そういう人を陰惨な事件で失ったハヴェルの心の傷は、他人であるリーフェには想像できないほど深いと思われた。


 だがハヴェルはすぐにいつもの気の抜けた顔に戻って、リーフェに尋ねた。

「へぇ。誰から?」

「ドルボフラフ先生です。協会の事務所で会いました」

「あの人も、口が軽いなぁ」

 リーフェが答えると、ハヴェルは仕方が無さそうにため息をついた。やはりエリクのことは、あまり人には勝手に話されたくないことだったらしい。

 望んで得た情報ではないはずなのに、リーフェは盗み聞いたようで居心地が悪くなった。また、知りたがりだと思われるのも心外だった。

「私は別に、あなたの過去を知りたかったわけじゃなかったんですけど」

 ハヴェルに誤解されないよう、リーフェはなるべく控えめに弁明した。本当にあまり、深入りはしたくはなかった。


 おそらく、ハヴェルの方も同じ気持ちなのか、ハヴェルはリーフェと目を合わせないままぽつりともらした。

「僕も知ってもらう気はなかったけどね。だってどうせ遠くなるだけだし。まぁ、僕はそれでも構わないけど」

 そうつぶやくハヴェルの様子からは、ハヴェルが孤独を望んでいることがよくわかった。今までリーフェが見てきたハヴェルは、わざわざ人を寄せ付けないようなことばかりをしていた。だからリーフェもハヴェルに近づきたくはなかった。


 だがそれでも、いままで感じないよう努力してきた同情心が、ふつふつと芽生えていく。

(馬鹿だな、私は。この人のことで悩んだところで、何にもならないのに。それなのに……)

 放っておいた方が楽だとは思いつつも、リーフェは抗いきれず踏み込んだ。

「ドルボフラフ先生が言ってました。あなたは昔は、今よりもずっといい人でいようとしていたと」

「……僕は元々こういう、ろくでもない人間だよ」

 ハヴェルは自嘲気味に、自分を卑下してみせた。

 生まれつきハヴェルがややずれた人間性を持っていた、というのはおそらく本当のことのようだった。だが、そういう自分から変わろうとしていた時が、ハヴェルにもあったはずだとリーフェは思った。

「それでも、エリクさんが生きているときは違ったんですよね」

 さらに問いを重ねるリーフェに、ハヴェルは小さく笑って答えた。

「そうかもね。でもあいつは僕を残して死んだよ。真実とか正義とかを守ろうとした結果、殺されたんだ。だから僕はもう、そういうものに価値があるとは思えないね」

 そう言って、ハヴェルはワイングラスに口をつけた。一見、何の痛みも感じていないように見えた。だがそこには確かに、静かな深い絶望があった。


 唯一で無二の生涯の友で、人生の意味を教えてくれた相手。そんな存在を信じようとした正義に裏切られる形で死なれたハヴェルは虚無的になっていた。リーフェがカリナの事件の真相を明かそうとするたびに、その行為は本当に人を幸せにするのかと問い続けたのも、エリクが正しくあろうとした結果、殺されたからなのだろう。

 リーフェは気まずくなって、ハヴェルから目をそらした。

(私はこの人のことを好きにはなれない。だけどあんな過去を知ってしまったら、何かしなくてはいけないような気がしてしまう。どうせ無意味なのに)

 リーフェはハヴェルに同情したくなかった。ハヴェルもまた、同情されたくないという気持ちだと思われた。しかし望まなくてもそうなってしまうのが、人の感情の理というものだった。


 どうすればいいのかわからなくなってしまったそのとき、給仕が次の料理を持って現れた。

「牛ランプ肉のティルキス風煮こみでございます」

 給仕は慣れた手つきで空いた皿を下げ、牛肉の載った皿をテーブルの上に置いた。牛肉には、様々なペーストやソースが添えられていた。

「僕、ここの付け合せのマッシュポテトが好きなんだ」

 ハヴェルはメインの料理を前に、話を変えた。

「たしかにこれ、元がジャガイモとは思えないほどなめらかですね」

 リーフェもまたその流れにのって、食事の話を続ける。何とかリーフェは、一旦その場を逃れた。

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