第13話 弁護士協会

 二日目の午後、リーフェは中間報告書の提出場所である弁護士協会の事務所を目指して、裁判所の廊下を足早に歩いていた。

(何やかんやで、締切ギリギリだよ。あの人がことごとく私のやることを阻むから!)

 むかつきをこらえつつ、リーフェは肩にかけた鞄のストラップを握りしめた。


 ハヴェルの残した言葉に悩まされ、その問いをやっと振り切ったところで今度は現在進行形のハヴェルの奇行に気を散らされる。そんなことを繰り返し、結局リーフェが報告書を完成させることができたのは、今日の数時間前のことだった。


(事務所はえぇっと、ここ、かな)

 いくつもの部屋が並ぶ棟の中、リーフェはなんとか協会の事務所らしき部屋のドアの前にたどりついた。

 すぐに報告書を出せるように、リーフェは鞄から書類の入った封筒をあらかじめ取り出した。

 少しだけ緊張しながら呼び鈴を鳴らす。すると「どうぞ」という男性の声がしたので、リーフェはドアを開けて部屋に入った。


 中は重々しく装飾された本棚に囲まれた、それなりの広さがある書斎だった。床には古めかしい唐草模様のカーペットが敷かれ、明かりもやや薄暗く落ち着いている。

 いくつか並べられた木製の机に一人、髭が立派な眼鏡の老人がいた。多分、半分くらい引退した高齢の弁護士の人が、人材育成のためにこういう仕事についているのだろう。


「研修生のリーフェ・ミシュカです。遅くなりましたが、報告書を出しに来ました」

 リーフェは封筒を手に、挨拶をした。


 老人は読んでいた本を置いて、リーフェの方を向いた。

「おぉ、報告書だな。では、この紙に、自分と指導官の名前を書いてくれ」

 提出者の名前がずらりと書かれた表の紙とペンが、老人により机の上に出される。

 リーフェはペンを借り、その紙を書いた。指導官の名前をハヴェルにするべきかイグナーツにするべきか迷ったが、結局ハヴェルにした。


 封筒と紙をリーフェから受け取ると、老人は表の確認欄にサインを書き、封筒を棚にしまおうとした。

「これで、間違いなく受理したぞ……。おや、お前さんの指導官はハヴェル・ノヴァーチェクだったのか」

 提出者一覧表を引き出しに戻そうとした老人は、その指導官の名前の欄に目を止めた。


 知り合いだから知っているのか、悪名高いから知っているのか、どちらだろうかとリーフェは尋ねた。

「あの人のことを、ご存じなのですか?」

「そりゃだって、わしがあいつの指導官だったからな」

「そうなんですか。それじゃ、私にとってはあなたは大先生ですね」

 どうやら老人はハヴェルの知り合いどころか、恩師だったらしい。不思議な偶然もあるものだとリーフェは思った。


 老人は孫弟子に会えたということで、嬉しそうに髭を撫でた。

「そうなるな。わしの名前はドラホスラフ・ドルボフラフ。困ったことがあれば、相談に乗るぞ。というか、あいつが指導官とか、その時点で困っているのではないか?」

 優しげな微笑みとは裏腹に、ドルボフラフは弟子の指導能力を一ミリも信じていないようであった。

 そしてその評価はだいたい正しいのであるが、礼節を重んじる手前「はい。そうです」とも言えないリーフェは、もごもごと言いよどんだ。

「はぁ、まぁ、多少は……」

「遠慮しなくてもいい。ハヴェルが大分駄目な奴なのは、わしもよく知っている」

 絶対的に格上な先人らしく、ドルボフラフは言葉を飾らずに言い切った。

「ドルボフラフ先生のところにいたときから、あの人は少し変わった人だったんですね」

 リーフェはドルボフラフの態度から昔のハヴェルを想像した。


 だが、ドルボフラフの返答は意外なものだった。

「いや、あのころは今と比べるとそうでもなかったんだがな」

「え……?」

 驚いて、リーフェはドルボフラフを二度見した。


 するとドルボフラフは少しだけ真面目な目をして、リーフェに尋ねた。

「なぜハヴェルがまっとうに生きないのか。話せば長くなるが聞きたいか? その様子だとお前さんは、あの事件のことも知らないようだし」

 かなり思わせぶりだが、ドルボフラフが全ての事情を知っているのは確かなようだった。


 しかし、リーフェはあまり話を聞く気になれなかった。

「いや、別に私はそこまで……」

 リーフェはやんわりと、ドルボフラフの申し出を断ろうとした。

 ハヴェルの事情を知ることに、リーフェは消極的だった。思いやる義理も親しみもないので、理解したいとは思わなかった。ハヴェルと何か関係があるらしい事件はどういうものだったのか、興味がないと言えば嘘になり、かつてあの事務所にいたであろうもう一人の人物のことも気にはなった。

 だがそれでも、これ以上深くハヴェルと関わりたいという気持ちはなかった。

(だって私は、今はあの人の訳ありな昔話なんか聞いてる場合じゃないし。ただでさえあの変人のせいで裁判の準備が進んでないんだから、これ以上に時間を割くなんて嫌だよ)

 さらに、ハヴェルの過去を知ることがあまり自分にとって良い結果をもたらさないような気がしたことも、断りたい理由だった。それを聞けばまた悩まされ気分が悪くなるような、そんな予感がしていた。


 しかしドルボフラフは、もう完全に話す体制に入っていた。この老人はとても暇で、どうしても思い出を語りたくて仕方がないらしい。

「まぁ、立ち話もなんだから、そこに座ってくれ。ちょうどお茶も入ったところだ」

 ドルボフラフはリーフェに椅子を勧め、自分用に淹れていたらしい紅茶と、ビスケットの載った皿を机の上に置いた。

(もうこれは、聞くしかないんだな)

 しかたがなくあきらめて、リーフェはドルボフラフの話を聞くことにした。ドルボフラフと机を挟んで座り、お茶をいただく。


 そしてドルボフラフは、お菓子を食べながら話し出した。

「ノヴァーチェク家は、この街でもかなりの名門だ。そこの三男のハヴェルって言えば、顔は綺麗だけど頭がおかしい子供ってことで有名だった。ひどく無感動で無神経で、人が傷ついたときも笑っていた。誰にどれだけ叱られてもまったく効果はない。遊び相手はだいたい泣いて帰り、家庭教師はノイローゼで辞める……。人間性を母親の腹に忘れてきた子供っていうのが、もっぱらの評判だった」

(さもありなん、って感じだなぁ)

 リーフェはハヴェルの少年時代を思い浮かべた。

 ハヴェルの人格は大人になった現在でもかなり破綻している。さらに好き勝手にやっていたであろう子供時代は、今以上におかしな性格であったことが推測できた。


「それから十数年後、その子供が育ってわしのもとに弁護士の研修生として来るっていうんだから、わしは相当身構えたね。だが、うちにやってきたハヴェル・ノヴァーチェクは思っていたよりもまともだった。寄宿校でできたまっとうな親友、エリク・セムラートが同期生として隣にいたからな」

 ハヴェルに普通の友達がいたことに驚きつつ、リーフェは聞いた。

「あの人は、そのエリクって方と二人でドルボフラフ先生のところに研修しにきたんですか?」

「そうだ。エリク・セムラートは、非常によくできた男だった。正義感が強く、どんな人にも影響を与えるような真っ直ぐさがあった」

 ドルボフラフは昔を懐かしむように、眼鏡の奥のしわの寄った目でどこか遠くを見た。

「ハヴェルが弁護士になろうと思ったのも、どうやらエリクに感化されたからのようだった。エリクがいたときは、ハヴェルも真面目なことをときどき言っていた。驚くべきことに、あの時のハヴェルには人のために働くという気持ちがあった」


「それは、とてもすごいことですね」

 今では考えられない当時のハヴェルの様子に、リーフェは信じられない気持ちで相づちをうった。あのハヴェルにまともなことを言わせるとは、エリクという人は半端のない人格者だったのだなと思った。

「本当に、びっくりだろ?」

 実際にそのころを知るドルボフラフも、半分疑ったような顔をしていた。それだけ、当時のハヴェルは今よりも良い人間のように見えていたのだろう。


「で、二人は順調に正式な弁護士になり、わしのもとを離れて法律事務所を始めた。それがお前さんがいま研修しているスシェンキ法律事務所だ。事業はまずまず順調で、二人はそれなりにうまくやっていた」

 そこでドルボフラフは言葉を切り、当人比で暗い顔になった。どんな不幸の話になるのだろうと、リーフェは身構えた。

 ドルボフラフはカップを置き、深くため息をついて再び話した。

「だがそういう日々は長くは続かなかった。エリクは死んだ。自分が弁護した相手に、殺されたんだ」

 それはリーフェが想像していたよりも、さらに重い話だった。

(そういう複雑な事情を聞いていられるほど、今の私には余裕ないんだけどなぁ……)

 リーフェはあまり続きを聞きたくはなかったが、ここまできたからには全部知るしかなかった。

「裁判に負けて、恨まれたんですか?」

 さっさと終わってほしい一心で、リーフェはなるべく核心をつく質問をした。


 ドルボフラフは重々しい口調で、だがすらすらと事件のあらましを語った。

「エリクは裁判に負けたわけではなかった。被告人は精神に障害を抱えた殺人者テオドル。何かが間違って義理の母親と恋人を殺した。どうやら幼少期からの家庭状況にも、何かしら問題があったみたいだな。エリクはテオドルの障害に寄り添った弁護をし、裁判官は情状酌量で無罪にした。それは人道的に、正しいことのはずだった」

 心神喪失者の行為は罰しない、という考え方がある。それは発達障害や精神病を抱えた人を通常通りに罰したところで、そこに意味はないのではないかという問いの中で生まれた。まずその心の病を治療し罪を理解させなければ、償いも罰も可能にはならない。だから罰せず治療するべきである……というのがその論理である。それが正しいことなのか間違っていることなのか、その議論にまだ決着はなかった。

(私は少ししか知らないけど、悪い考えだとは思ってなかった。でも、そんな簡単なことじゃないんだろうな)

 リーフェは複雑な気持ちになって、ドルボフラフの話に耳を傾けた。


「しかし、障害を抱えたテオドルには生きる意志はなく、求めていたのは死刑だった。しかも、自分の障害が裁判で焦点になるのも、嫌がっていた。エリクもそこのところはわかっていたと思うが、それでも最終的にはテオドルのためになると信じて弁護した。だがテオドルは送られた施設を抜け出して、エリクの前に現れた。施設の失態だな。そしてテオドルはなぜ自分を死刑してくれなかったのかと尋ねてエリクを刺し殺し、その場で自殺した」

(その死んだエリクって人が、あの部屋の持ち主か……。助けた人に逆に恨まれて殺されるとか、もう何というか……)

 リーフェは事務所にある、埃の被った誰かの部屋を思い出した。ハヴェルが触れられることを嫌った、もう使われていない部屋。その持ち主が死んだ親友だったのなら、ハヴェルのあの微妙な表情も納得がいく。

 自分の人生観を変えるほど大切だった人に、そんな救いようのない事件の中でそこまでひどい死に方をされたら、人間歪んでもおかしくはない。

「そんな過去が、あったんですね……」

 リーフェは小さくつぶやいた。


 正直なところ今の話を聞かなかったことにしてずっと無視したいくらいには、まだハヴェルを嫌う気持ちは強かった。今まで散々嫌悪の対象として見てきたのだから、そう簡単には扱いを変えることはできない。しかしそれでもやはり、嫌でも向ける感情は同情寄りになる。


 だいたい話を終えたドルボフラフは、半ばあきらめたような顔で髭を撫でた。

「エリクを失ったハヴェルは、再び元の無感動で無神経で無責任な人間に戻った。あいつはもう何も誰も、信じない。惰眠をむさぼり浪費して、その人生を無駄に過ごし続けている」

 そしてドルボフラフは、少しだけ期待するような目でリーフェを見た。

「ハヴェルもいろいろ面倒な人間だが、全部が全部駄目なわけじゃない。だが、これからあいつがまた真っ当な気持ちを取り戻せるのかというと……、わしにはわからん。お前さんは、どう思う?」

「え、私は……」

 いきなり意見を求められて、リーフェはうろたえた。他人の、しかもかなり嫌いな部類の人間に入るハヴェルの問題に対して今後を問われても、まったく何も思い浮かばない。どうにかなるといいねくらいは思っても、多分どうにもならないだろうし、どうにかしてあげたいとも思わない。

(急に話をふられても……)

 リーフェは返答に困って、黙り込んだ。ドルボフラフはどんな問いを重ねるのかと、次の言葉を恐れた。


 だがドルボフラフは質問の答えの追及はせず、老人特有のマイペースさで壁にかかった時計を見上げた。

「おや、もうそろそろこの事務所を閉める時間だな。引きとめてすまんかった」

 時間が遅いことに気づいたドルボフラフは立ち上がり、机の上を片付けた。結局この老人は、本当に昔話をしたいだけだったのである。

 話が終わったことに心底ほっとし、リーフェは荷物を持って席を立った。

「いえ、貴重なお話、ありがとうございました」

「ではな。気をつけて帰れ」

 ドルボフラフはドアを開け、手を振ってリーフェを見送る。

「はい。失礼いたします」

 リーフェは大先生が相手なので深々とお辞儀をして、事務所を去った。





 裁判所を出て街を歩くと、外は茜色の夕暮れだった。華やかな看板に彩られた建物に挟まれたタイル張りの道は、夕日の光につつまれぼんやりと照らされていた。夜に向けて道路沿いの街灯にも明かりがつけられ、きらきらと輝く。

 夕食の時間が近いので、街は帰宅者や食事場所を探す人で賑わっていた。もう深く暗い色になっている東の空を背にして進めば、元々心が重かったのが色を変えていく街の様子によりさらに感傷的な気分になっていく。


 リーフェは夕日を見上げて、ハヴェルのことを考えた。

(あの人は、本人の意図しないところでまで、私の邪魔をするんだね。あんな答えの出ない問題と、向き合っている暇はないのに)

 ハヴェルの過去に関係する事件がリーフェに投げかける問いは、リーフェが弁護士でいたい気持ちを根本から揺さぶるようなものだった。自分の志はそこまで軟弱なものではないと信じてはいるが、それでも今まで通りハヴェルを単なる障害として考えることはできないだろう。


 リーフェは途方に暮れた気持ちで、人ごみの中をとぼとぼと帰った。街の美しさが、胸に染みた。

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