第三章

第12話 法律事務所5

 研修の裁判の通知をもらってから、一週間がたった。

 三週間用意されていた準備期間も、もう三分の一は過ぎた計算である。しかし、リーフェの生まれて初めての裁判の準備は、順調に進んでいるとは言い難かった。


(どうしよう、全然中間報告書が書けてない!)

 事務所の机の上で、リーフェは頭を抱えた。机には、真っ白な紙が置かれている。

 研修生は裁判の準備中に一度、中間報告書を出す決まりになっている。その締め切りは明後日に迫っていたが、リーフェは一行も書けてはいない。


「とりあえず、何でもいいから書いてみたらどうだ? それで駄目だったら、後で書き直せばいい」

 隣の机で自分の仕事を進めるイグナーツが、焦るリーフェをなだめるようにアドバイスを送る。


 しかし、どうしてもリーフェはイグナーツの言うようには行動できなかった。リーフェは机の上に突っ伏しながら弁明した。

「書いてみないと始まらないことはわかります。でも、気分的にとりあえずでも間違ってること書きたくなくて。だって、依頼人の有罪無罪に関わることなんですよ」

「気持ちはわからないでもないが……」

 イグナーツはそれ以上の助言はあきらめたようで、リーフェの前の真っ白な紙を心配そうに見つつ自分の仕事に戻った。イグナーツはイグナーツで、なかなか忙しい人間なのである。


(はぁ……、本当にどうしようか。カリナさんは相変わらずだんまりだし……、まだ全然事件のいろいろなことがわからないし……)

 リーフェは役に立つのかどうかわからない情報ばかりが増えていく資料の山を眺め、ため息をついた。





 リーフェはバルトン家の捜査をした次の日に、カリナのいる留置所に再び行っていた。

 しかし、カリナの態度は固いままで、リーフェはほとんど口を聞いてもらえなかった。


「最近、転職されてたんですね。新しい職場ではどうでしたか」

「……普通」

「ここの居心地はどうですか? 看守さんに言っておきたいことがあるなら、私から話しときますけど」

「……別に……」


 だいたい、このような感じである。


 だが、サシャの話をしたときだけは様子が違った。

「そうそう私、サシャちゃんに会いましたよ」

 リーフェはなるべく何でもないことのように報告した。

 するとカリナは、鋭い目でリーフェをにらんだ。

「サシャに事件の話を聞いたの?」

「えぇ、まぁ」

 何となく予想はしていた反応だったが、それでもやはり少しは怖く、リーフェはたじろいだ。


 カリナは立ち上がり、鉄格子の前に立つリーフェに近づいた。

「あの子には、関わらないで」

 格子を握りしめ、カリナは語気を強めてリーフェに言った。今までずっと突き放されてきた中でも、一番深い拒絶であった。

「はぁ……、そうですねぇ……」

 言葉を濁して、返事をする。

(そんなこと言われても、私は話聞くのが仕事だし……)

 カリナの怒りにどうすることもできず、リーフェは困った。


 リーフェはカリナのにらんでくる目を見ないようにして、メモをつけるふりをした。そしてゆっくりと時間を稼ぐように手帳を閉じて、鞄にしまう。

「……それじゃ、今日のところはこんな感じで失礼いたします」

 たどたどしい微笑みで取り繕いつつ、リーフェはおそるおそる目を上げた。

 カリナは何も言わずにリーフェを冷たく見ていた。

 そんなカリナを後にして、リーフェは留置所から逃げ帰ったのである。





 リーフェはカリナとのほとんど会話になっていないような会話を思い出しながら、暗い気持ちになった。信頼を得るどころかより溝を深めているような状況に自分の未熟さを感じ、嫌気がさす。

 最初はどうにかなると思っていられたが、だんだんそうではないことがわかってきた。


(うーん、しかしそれにしても、カリナさんは本当に全然話してくれないなぁ。やっぱり私には想像できないくらい、つらくて苦しいことがあったりされたりしたんだろうな。人に絶対話せないような、深い一家の事情が……)

 書くこともないままペンをもてあそび、リーフェは頭を悩ませた。カリナの態度からは、心配することさえ許されないほどの強い拒絶が感じられた。

 そう思い出したくはなかったが、嫌でもハヴェルの言葉が頭に浮かぶ。

 ハヴェルを否定し、自分は依頼人のためになることをしていると信じているリーフェであったが、カリナのかたくなさには自分が間違っているような気になってしまう。


(いけない。これじゃ、余計に駄目になる方向だ。何とか、転換しないと……。そうだ、ここはトマーシュ様のことを考えよう)

 前向きな気持ちを取り戻すため、リーフェはペンを放ってほおづえをつき、頭の中からハヴェルの顔を追い払ってトマーシュのことを考えた。


 トマーシュはリーフェにとって、恩人であり師であり、誰よりも大切な人だった。

 やわらかな白銀の髪に、知性を感じさせる青色の瞳。いつもリーフェの頭を撫でてくれた大きな手。親にも半ば見捨てられ味方がいなかったとき、トマーシュだけがリーフェに手を差し伸べてくれた。

 孤独で不安で何を言えばいいのかわからず黙っていたリーフェに優しく語りかけてくれたトマーシュの声。それはリーフェにとって永遠に忘れることのできない、光だった。


 その日からリーフェは、トマーシュのような人間になりたいと思い生きてきた。ただ単純にトマーシュの姿にあこがれたというのが大きかったが、実のところはそれだけではない気持ちもあった。

 リーフェはトマーシュに恩を感じ、そして慕った。できればずっとそばにいたかった。しかし何となく、身分や年齢の差、そしてそもそも相手にしてもらえるのかどうかなどの問題により、その願いは叶わないと察していた。そこでリーフェは、トマーシュと同じ志を持つことで、彼とのつながりを保つ道を選んだ。

 はじめはそんな幼い恋心のようなものであったが、今のリーフェにとってはそれが生きる意味だった。トマーシュに会う前の自分の望みが何だったのか思い出せなくなるほどに、志は大きくなっていた。トマーシュがリーフェを教え導いてくれたことも、その気持ちを強くした。


(そう、だから私は弁護士を目指した。トマーシュ様みたいに、誰かに寄り添い救うことができる人になりたいと、思った。でも……)

 目を閉じて、リーフェはカリナのことを考えた。

 トマーシュがリーフェを救ってくれたように、リーフェはカリナを救いたかった。しかし、現時点のリーフェはその理想から限りなく遠い。状況が違うということを差し引いても、あまりに無力である。


 何とか少しでもトマーシュの姿に近づこうと、リーフェはできることは何かを考えた。

(……とりあえず、事件とは直接関係のある人の話は聞いたから、次はもっと周辺の人に会おうかな)

 大きなことはできそうにないので、現実的なところから自分に可能な最善を選ぶ。思ったほどは前向きにはなれなかったが、トマーシュのことを思い出したおかげで今後も頑張る力が少しはわいてきた。これ以上悩んでもらちがあかないので、根本的な問題は棚上げする。


 こうして中間報告書の内容は、次は何を調べるかという方向の話でまとめることに決まった。

 リーフェはやっと書けそうな気持ちになって、ペンを持ち紙をきれいに机の真ん中に置いた。


 一文字目を書こうとしたそのとき、廊下につながるドアが勢いよく開き、真っ白なバスローブを着たハヴェルがタオルで頭をふきながら入ってきた。

「ふー。やっぱり、朝風呂はいいね」

「朝ってもう、正午過ぎてますよ」

 上機嫌で歩くハヴェルに、机に向かうイグナーツは書類から目を上げることなく訂正を入れた。

(今三時だから、むしろ夜の方が近いよね)

 リーフェは新参者らしく黙って、心の中でかぶせる。

「僕の気分的には、起きて日が昇っていればだいたい朝なんだよ」

 事務所のソファに腰かけ、今日もハヴェルはとんでもな持論をかました。


(仕事進めるムードを、この人は本当に見事にぶち壊してくれるなぁ)

 早速やる気を削がれてむかつきつつも様子を見てみると、湯上りのハヴェルは普段とはまた違って美しかった。頬は薄く紅潮し、透き通るように白い肌はいつもにも増してつやがある。濡れて巻きぐせが弱まった髪も、新鮮な印象を与えていた。

 リーフェは思わずずっと見つめそうになるのを、こらえなくてはならなかった。


 ソファに座ったハヴェルは、そのままクロスワードパズルの載っている雑誌をテーブルに広げ鼻歌を口ずさみながら解き出した。

 歌っているのは、どうやらオペラの曲のようだった。うろおぼえの適当な歌詞のものではあったが、わりと上手いのが鼻についた。

 透き通るような高音に、壮大なメロディー。それはとても周囲の気を散らす歌声だった。


 これにさすがに困ったのか、イグナーツはハヴェルに鼻歌を止めるように頼んだ。

「先生、ちょっと静かにしてくれません?」

「えぇー、まだ一番好きな所歌ってないのに?」

「頼むから、黙ってくださいよ」

 イグナーツの説得にハヴェルが渋々口を閉じると、部屋は再び静かになった。


 しかし、リーフェは一瞬掴みかけた集中力をなかなか取り戻せず、苦心した。

 イグナーツとリーフェの使っている机は壁につけて配置されており、前を向いていればソファに座るハヴェルの姿は見えない。

 だがしかし、下着をおそらく履いていないバスローブ姿の男が同じ部屋の背後にいるというだけで、リーフェのそれなりにはある乙女心は乱された。


(やっとやる気がでたところなのに……。何でまた今、邪魔しに来るんだろう)

 リーフェはハヴェルに対して声に出さずに毒づいた。今までと比べて露出が特別多いというわけではないが、やはりバスローブ一枚で女子の周りをうろうろするのは非常識だし、目の毒だと思った。


 こうしてリーフェは、書けそうで書けない中間報告書と格闘した。

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