第11話 夜のテラス
その日の夜の十時頃、リーフェは朝食の下ごしらえを終え、戸締りの確認をするために事務所のある部屋へと続く廊下を歩いていた。
(台所は見たし、あとはテラスの前の窓と裏口だけかな)
ドアを開けて、事務所に入る。明かりはないが、月の光がちょうど射しこむので、真っ暗というわけではなかった。
リーフェはテラスに面した窓に近づいた。すると、ガラスの向こうに人影があることに気がついた。
窓に顔を寄せてのぞいてみると、ハヴェルがテラスに置いてあるベンチに座っていた。夕食の時には寝ていたので、今起きたところだろう。
(こんな夜遅くに……いやだからこそかな。中に戻ってもらうか、戸締りお願いするかしとこう)
わざわざハヴェルと話したくない気持ちもあったが、リーフェは声をかけることにした。
裏口のドアを開け、テラスに出る。
「もう、夜遅いですけど……」
リーフェの声に、ハヴェルが振り返る。
「誰かと思ったら、君だったんだ」
ハヴェルはめずらしく、寝間着ではない服を着ていた。高そうなシルクのシャツに、上品な色合いの黒いスラックス。シャツのボタンはいくつかはずれてはだけていたけれども、今まで見た中で一番真っ当な姿だ。
夜風にシャツはふわりとふくらみ、月の光に銀色の髪はきらきらと照らされる。薄闇に浮かぶ横顔の輪郭は恐ろしく綺麗で、まるで月の精霊か何かのようである。
この美貌に、そして財力。神様はその過ぎた二物とバランスをとるために、性格は難有にしておいたのであろう。結果、困っているのは本人ではなく周囲であるが。
そんなことを考えながらつい見つめてしまっているリーフェをからかうように、ハヴェルは笑った。
「何、僕に見惚れちゃった?」
「いえ。ちゃんと服着てるところは初めて見るな、と思っていただけです」
リーフェは即座に否定した。正直に言うと見惚れていたのであるが、そこは認めたくなかった。
「あぁ、これ? たまにはちゃんと服も着てあげないと思って、さっき着替えたんだ」
ハヴェルはリーフェに見せびらかすように、手を広げた。シルクのシャツはさらりと高級そうな衣擦れの音をたてた。今朝と違って、機嫌は良さそうだ。
リーフェが自分が何しに来たのか忘れていると、ハヴェルはベンチの真ん中から右端に移動して、空いた場所にぽんぽんと手を置いた。どうやらリーフェに座ることを促しているようだった。
自分はパジャマ姿なので正直長居はしたくなかったが、無視をするのも感じが悪いので、リーフェは仕方がなくハヴェルの隣に座った。テラスに置かれたベンチからは、夜の川と向こう岸の街の光が良く見えた。
「この街はどう? 慣れた?」
ハヴェルが、まるでまともな指導官であるかのように尋ねる。
まずは良く考えて、リーフェは真面目に答えた。
「……ティルキスの両極端な雰囲気は苦手です。すごく華やかで楽しいところもあれば、貧しくて暗くてひどい場所もあって、疲れます」
「ふーん。じゃあ裁判の準備は? どんな感じ?」
リーフェの回答を拾うことなく、ハヴェルはそのまま次の質問に移った。
(街の感想については、言わせてそのままなんだ)
雑な流れに、リーフェは不満を覚えた。せっかくそれなりの見解を示したのだから、それに対する反応というものがほしかった。しかし、ハヴェルはリーフェに答えさせただけで満足したらしい。
リーフェは渋々、ハヴェルの質問に従った。あまり期待はできないが、多少は指導する気があるのかもしれないことを考慮して、きちんと話した。
「被告人の方が完全沈黙で、困ってます。見たままのどうってことない事件だったとしても、本当のところを話してもらいたいのですが……」
そして、リーフェはかいつまんで事件の概要をハヴェルに説明した。改めてハヴェルに話していると、頭の整理ができた気がしてそこは悪くはなかった。
ハヴェルは「へー」とか「ふんふん」という、ちゃんと聞いているのか流し聞いているのかよくわからない気の抜けた相づちを返す。
「……というわけなんです」
一通り説明をして、リーフェはハヴェルの反応を見た。
リーフェの隣に座るハヴェルは無駄に長い脚を遊ばせて、どこか遠くの方を見ていた。
「だいたい、事情はわかったよ」
ハヴェルはある程度は話を聞いていたらしく、髪をもてあそびつつうなずいた。そしてうっすらとした笑みを崩さずにそのまま、リーフェを試すようにじっと見つめる。
「で、それってわざわざカリナって子に全部を話させる意味はあるの?」
「はぁ? それはどういう……?」
自分の仕事だと信じていることを根本的に否定するような質問に、リーフェは思わずわりと失礼な声を上げてしまった。
リーフェが驚いてハヴェルを凝視すると、ハヴェルはリーフェの顔を上からのぞきこんだ。
「いやさ、そこまで言いたくない秘密なら、暴くようなまねしない方が、いいと思うんだけど」
リーフェに向けられたハヴェルの灰色の瞳は、言っていることとは裏腹になぜか睦言を聞かせるような色気があった。
ハヴェルの言動に反感を抱いているリーフェではあったが、その妙な雰囲気に惑わされ思わず目をそらした。しかし、そらした先にあったのははだけたシャツの隙間から見える、ハヴェルの白い胸元だった。
不可抗力で顔が熱くなるのを隠すように、リーフェは語気を強めた。
「暴くって、言い方が悪いですよ。心を開いてもらうとか、そういうふうに言うべきです」
「耳ざわりのいい言葉にしたところで、本質は一緒でしょ」
わざわざ弱いところを狙っているのか、ハヴェルは触れてないのにくすぐったくなるような距離で、リーフェの耳元に囁いた。特上の、甘い声である。
(……っ、またこの手口? この顔と声に騙されちゃ駄目だ。この人の言ってることは、私の夢の邪魔をする)
初対面のときも似たような形で迫られたことを回想しながら、リーフェは自分を取り戻す努力をした。
リーフェの夢。それはかつて自分を救ってくれたトマーシュのような弁護士になることだった。
何かを恐れて口を閉ざすカリナ。彼女がその重荷から解放されてまた顔を上げて生きていけるように図ることが、リーフェの今のところの使命である。それは仕事としての義務であると同時に、リーフェがトマーシュに助けられたときからずっと求めていたやりたいことでもあった。
自分がどういう人間でありたいのか再確認し、何とか気持ちを強く持てたところで、リーフェは思い切ってハヴェルの顔を見上げた。
ハヴェルの非人間的なほどに整った端正な顔は、月明かりの下で熱を感じさせない微笑みをリーフェに向けていた。それをにらみつけて、リーフェはきつく返した。
「でも本当のことを知らずに、どうやって弁護するんですか。真実がわからなければ、私はカリナさんを助けられません」
リーフェは毅然として言った。
だが、ハヴェルはリーフェの反論をものともせずに、容赦なくさらにリーフェの信念の正当性を疑う言葉を重ねた。
「その真実というものを明らかにしたら、カリナって子は救われるのかな? より傷つくだけの可能性は? 少なくとも、本人にとっては知られるくらいなら死んだ方がマシだから黙ってるんだと、僕は思うのだけど」
魅惑的な響きの、しかし意味するところは鋭い言葉を吐きながら、ハヴェルは落としにかかるようにリーフェの腰に手を回す。パジャマ越しに感じられるハヴェルの指は細く、その冷たさにリーフェは身を強張らせた。だがその触れ方はやたら優しく、抗いがたい何かがあった。
ハヴェルの言っていること自体もそれなりに筋が通ってはいたので、リーフェは言葉に詰まってしまった。動くことも忘れて、ハヴェルの腕の中で一瞬屈服しかける。
「それは……そうかもしれませんが……」
「ほらね、真実ってやつは胡散臭い」
ハヴェルは勝ち誇ったように笑みを深めて、リーフェを抱き寄せた。指は冷たいくせに、体は熱かった。
(って、こんな至近距離な状況を受け入れてどうする)
リーフェはそのときやっと、その手を振りほどくという発想に至った。
「いい加減にしてください!」
思いっきりの力を込めて。リーフェはハヴェルを両手で突き飛ばした。
どさっという音がして、ハヴェルはベンチの上に倒れた。
やってみてしまえば、体格差はあれどもリーフェの農村仕込みの筋力なら、ハヴェルはごく簡単に離れさせることができた。
「……っ、君って結構怪力だね」
一撃の重さに驚いた顔で、ハヴェルは腰をさすりながら身を起こした。わりと痛かったようだった。しかしハヴェルがリーフェにしたことを考えると、同情する気にはなれなかった。
リーフェは立ち上がって、ベンチに座るハヴェルを息を切らして見下ろした。
「あなたは私に、このまま何もわからないままカリナさんに間違ってるかもしれない判決が下るのを見てろっていうんですか?」
「結果的には、そうなるかもね」
ハヴェルはあっさりと、依頼人を見捨てるような選択を肯定した。その言葉には迷いも葛藤も、未練もなかった。
仮にも弁護士で、しかも法律事務所の所長とは思えないその態度に、リーフェは完全に頭にきてしまった。苦渋の決断ならともかく、こんな簡単にあきらめるハヴェルはやはりろくでもない男だと思った。
間に上下関係が存在していることも忘れて、リーフェは気づけば声を上げていた。
「そんなの、弁護士の仕事じゃないですよ。あなたみたいな酔っ払いの敗北主義者にとってはそれでいいのかもしれないですが、私には認められません!」
それはほとんど怒鳴る寸前の勢いで、罵っている状態に近かった。リーフェは軽蔑の気持ちを隠すことなく、ハヴェルをにらんだ。
だがハヴェルは、自分に真っ直ぐに向けられたリーフェの怒りをまったく意に介さず、逆に面白がって見つめてきた。
「せっかく忠告してあげたのに、君は頭が固いね」
「あなたの脳が溶けすぎてるんですよ。その頭の中身はババロアですか?」
リーフェはババロアを食べたことはないが、ハヴェルが間食に食べているところは見たことがあった。リーフェとしては、それなりにひどいことを言ったつもりだ。
しかしそれもまた、ハヴェルにはまったく効果がなかった。ハヴェルは余裕で自分の頭を人差し指で指さし、嘘みたいな美しさで目を細めて綺麗に笑った。
「そうだね。もし本当に中がババロアなら、お腹がすいたときに便利だよね。今度一緒に食べようか」
残念ながら完全に、リーフェの負けだった。
(この人、めちゃめちゃ煽り耐性強いな……!)
ハヴェルの悪口言われた回数とリーフェの悪口を言った回数では、おそらく比べ物にはならないだろう。リーフェには圧倒的に経験が不足していた。
「何でもいいですけど、戸締りはよろしくおねがいしますよ!」
精一杯、同等の体裁を取り繕って、リーフェは勢いよくドアを開けて事務所に戻った。鍵をかけてハヴェルを締め出したい衝動に駆られたのを我慢して、リーフェは自分の部屋へと向かう。
(何、あの人は。指導するどころか混乱させるようなことばかり言って)
ハヴェルとは関わりたくないという気持ちが、リーフェの中でより大きくなって、嫌悪感が強まる。ハヴェルにはハヴェルなりの何かがあって、誠実さや真面目さを軽んじているのだと考えられた。だが例えどんな事情があったとしても、リーフェはハヴェルの態度を許せないと思ったし、そんな態度をとれる人間の心を理解したくはなかった。
(あの人が何と言おうと、私は絶対に惑わされない。私は私の正しいと思った道を行く)
リーフェはまだ頭に残るハヴェルの言葉を振り切って、階段を上った。
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