第9話 事件現場1

 リーフェとイグナーツはその日、事件が起きたクルク地区へと地下鉄で向かった。


「リーフェ君、ちょっと、待っててくれないかっ」

 駅の出口へと向かう階段をふらふらと上がるイグナーツが、息を切らし立ち止まる。

「わかりました。急がなくてもいいので、ゆっくり来てください」

 先に出口に着いていたリーフェは、その情けない姿を上から見下ろした。イグナーツの階段を上るスピードは、老人か、というほどに遅い。

(本当に、体力がないんだなぁ。先輩は)

 事務所での様子から非力なことはわかっていたが、それでもイグナーツの消耗の速さには驚かされた。

「はぁ、やっと終わった……っ」

 かなりの時間をかけて階段を上りきったイグナーツは、倒れそうな勢いでしゃがみこんだ。


 その異様な疲れ方に心配になって、リーフェはイグナーツに手を貸した。

「大丈夫ですか、先輩。どこかで休憩します?」

「いや、その、病弱とかじゃなくて、ただ単にスタミナないだけだから、気にしないでくれ……」

 ふらふらと、イグナーツは申し訳なさそうに立ち上がった。

(都会の男子だからにしても、ちょっと貧弱すぎるような)

 内心あきれつつ、リーフェはイグナーツにあわせてゆっくりと歩き出した。


 クルク地区はティルキスの南の方にある貧民街で、事務所の近くとはまったく違って暗く荒れ果てた場所だった。

 ぎっしりとひしめく建物は今にも崩れそうなほどぼろぼろで、煉瓦は焼き菓子みたいに脆く見えた。そこら中に汚物が散乱した道は狭く舗装も雑で、空気はどんよりと淀んでひどい臭いがする。多分、水道が機能していないのであろう。すれ違う人々も不潔でみすぼらしくて、目つきに生気がない。


「昨日歩いた場所は、あんなに綺麗だったのに」

 リーフェは汚れた空気に咳きこみ、口元を手で覆った。リーフェの住んでいた農村も貧しい方ではあったが、少なくとも健康に生きられるだけの環境はあった。ここと故郷では、貧困の質が別物である。

「あんなに綺麗だったからこそ、じゃないか。光が強ければ影も濃くなる。あちらが栄えれば、こちらは廃れる……」

 イグナーツの方は慣れたもので、わりと割り切った様子だった。

「そういうもの、なんですかね」

「まぁ、俺もそんなに貧民街のことを知ってるわけじゃないが」

 そんな話をしながら歩いているうちに、二人は事件現場となったアパートに着いた。


 屋根はひしゃげて窓ガラスは所々割れた、ひどい物件だ。どうやら元は一軒の家だったのをむりやり仕切ってアパートにしているらしく、ドアのいくつかは後付けに見えた。

 そのうちの一つのドアが開けっ放しで、おそらく進入禁止を意味しているであろう黄色いテープが貼られていた。

 リーフェは入っていいものかどうか迷い立ち止まったが、イグナーツは気にせずにテープをまたいで先へ進んだ。

「どうやらここが、事件現場みたいだな」

「ですね」

 リーフェもイグナーツに続き、おそるおそる中に入った。


 中には、薄汚れた小さな空間が広がっていた。外の汚れを反映して真っ黒なガラスの窓から、ぼんやりとした太陽の光が差し込む。剥がれかけた壁紙は元の色がわからないほど黄ばんで、天井はもうすぐ寿命なのかなんなのか時折ぱらぱらと粉塵をふらせていた。流しとコンロは一応あるが、それ以外の家具はタンスとぼろぼろのマットレスのみ。


(こんなひどいところで、カリナさんは一家三人で暮らしてたんだ……)

 その貧困の半端の無さに委縮しつつ、リーフェは床に視線を落とした。すると、そのまま残された血痕が目に入った。それは何かを象るように赤く黒く、板張りの床の上に乾いてこびりついていた。


「このあたりで、被害者の人は死んでたらしいな」

 イグナーツは血痕を見下ろした。

「包丁で腹部を二回刺されて死亡……でしたっけ」

 スカートが床につかないようにたくしあげて、リーフェは屈んだ。しかし、とりあえず近くで見てみても、さっぱり何もわからない。

(カリナさんは、本当にここで自分の父親……義理だけど……を殺したのかな)

 リーフェはカリナのことを考えようとした。


 そのとき、部屋の外から声がした。

「あれ、警察の人がまた来たのかね」

 ドアの方を見上げると、知らない中年の女性が立っていた。煤で汚れた顔をした、隣人と思われる女性だ。


 リーフェは立ち上がり、話を聞こうと思って自己紹介をした。

「いえ、私は弁護士の研修生です。カリナさんの弁護を担当するリーフェ・ミシュカと言います」

「俺は彼女の指導官代理で、イグナーツ・クレイツァルです」

 隣のイグナーツも、お辞儀をして名乗る。


 女性はリーフェとイグナーツの二人をまじまじと見た。

「はぁ……、カリナちゃんの。あたしはヴラスタ。あんたたちが弁護士なら、あたしも裁判であんたたちに尋問とかされちゃうのかねぇ」

「あなたは目撃者の人なんですか?」

 リーフェは驚いて聞き返した。いきなり事件の関係者に会えるとは思っていなかった。

「刑事さんが言うには、第一発見者ということになるそうだよ」

 自信が無さそうに、ヴラスタは肩をすくめた。どうやらそれほど熱心な証言者ではないらしい。


「私たちにも、お話を聞かせていただけますか」

「と言っても、あたしもよくわからないんだけどねぇ」

「どんな情報でも構いませんから」

 渋るヴラスタに、リーフェはにじり寄って頼みこんだ。

「じゃあ仕方がないから、話そうかね」

 ヴラスタはもったいぶって喋りだした。


「カリナちゃんは、気の毒な子でねぇ。母親が死んでその再婚相手のあの男……ヤーヒムと縁を切りたがっていたけど、幼い妹を見捨てられずにここにいたんだよ。ヤーヒムは酷い男で、カリナちゃんにもサシャちゃんにも暴力を振るってた。可哀想だから、私もなるべくここの家になるべくおかずとか、分けてあげてたんだわ。うちも楽じゃないんだけど」

 話すことをためらっていたわりには、ヴラスタはよく喋った。証言者であることは負担に感じていても、事件のことを人に話したいとは思っていたようだ。


「事件の日も、そうだったんですよね」

 話が脱線しないように、リーフェは相づちをうった。資料を読みこんだ成果が、発揮される時が来た。

「そう、煮物をあげようと思って。だけど、なんだかドアの前に立ったときから変な感じがしてねぇ。呼んでも返事はないし。で、開けたら血まみれで包丁握ってるカリナちゃんと倒れてるヤーヒムがいてね。あたしゃびっくりしちゃったよ」

「で、警察に通報したんですか」

 リーフェが尋ねると、ヴラスタは興奮を抑えた様子で答えた。

「確か、そうしたんだったかしらね。動転してたから、あんまりよく覚えてないわ」


 そして、そのままカリナの擁護に入る。

「でも、カリナちゃんがヤーヒムを殺すのも仕方がないよ。ヤーヒムは犬畜生以下の男だったし。弁護士さん、頑張ってカリナちゃんがすぐ出られるようにしてあげてね」

 ヴラスタは、カリナの犯した罪に何の疑問も抱いてなさそうな真っ直ぐな目でリーフェを激励していた。

 予想していなかった話の流れに、リーフェは返答に困ってしまった。

「……ちゃんと正しい結果になるように、努力します」

 何とか、それらしいことを言う。ここまで普通に応援されると、逆に弱る。


 調子を狂わされたリーフェに助け舟を出す形で、イグナーツがヴラスタに質問した。

「この一家の普段の様子は、どうだったんですか?」

「普段、普段ねぇ。ヤーヒムは飲んだくれだから、大黒柱はカリナちゃんだったわよ。ちょっと前まではここの近くの陶磁器製造所で働いてたんだけど、最近はもっと稼ぎのいい少し遠くの縫製工場に行ってたみたい。それで帰りが遅くなったりとかしたね。で、サシャちゃんは……半分浮浪児のようなものだったわ」

 ヴラスタは一家の事情をすらすらと答えた。イグナーツのおかげで、なかなか重要な情報が手に入ったような気がした。


「そういえば、妹さんはどこへ?」

 リーフェは、妹が見当たらないことに気づき聞いた。

 表情を曇らせて、ヴラスタは言った。

「今は救貧院にいるよ。あそこも酷いところだけどね」

「救貧院……」

 リーフェは手帳を取り出し、メモを取った。妹とも接触する必要があると思われた。


「おっと、もうこんな時間かい。私も戻らないと」

 日の傾きを眺め、ヴラスタは慌てて会話を切り上げた。

 手帳をしまい、リーフェはヴラスタに頭を下げてお礼を言った。

「あの、お話ありがとうございました。ヴラスタさん」

「いいわよ、カリナちゃんのためだもの。それじゃあね」

 ヴラスタはそう言って手を振り、バタバタと走り去った。


 その後ろ姿を見ながら、イグナーツは考えこんだ。

「今の話を聞いていると、謎も何もなく、カリナって子が犯人みたいだ」

 リーフェは事件について尋ねた際のカリナの、何かを恐れたような様子を思い出した。

「そうですね……。でもやっぱり、カリナさんの口の閉ざし方の感じだと、何か別の深い事情があるとしか思えなくて」

 ヴラスタから多くの情報を得ることはできた。だがしかし、今聞いたことを使ってもカリナに心を開いてもらうことは難しいと思った。ヴラスタの話も重要ではあるが、真実には辿り着くには違う視点が必要だろう。


(カリナさんのこと、もっとちゃんと理解しないとな)


 そう考えて、リーフェは部屋を見回した。カリナが父と妹と一緒に住んでいた部屋である。

「確かに、飲んだくれで暴力を振るう義理の父を殺したってだけなら、何も隠す必要はないが……」

 そう言って、イグナーツは無造作にタンスを開けた。

 二人は部屋を一通り捜査してみたが、警察が一度見た後なのでやはりそうたいしたものは見つからなかった。

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