第8話 法律事務所4

 翌日、リーフェは一階の事務所の掃除から一日を始めた。昨日の留置所からの帰りにお菓子と一緒にパンも買ったので、今日はあまり朝食の準備に時間をかけなくてもいいのである。


「よし。これでこのフロアはだいたい綺麗になったかな」

 リーフェはハヴェルがワインをこぼした跡が残っていたローテーブルをピカピカに磨き上げ、満足げに眺めた。

 研修の裁判のためにやるべきことは山積みだが、このように無心で取り組む家事の時間があるのは、いい気分転換になっている。

(朝食の時間までまだ少しあるけど、あとはどこを掃除しよう)

 リーフェは薄茶のタータンチェックのエプロンのポケットから小さなはたきを取り出し、あたりを見回した。


 すると部屋の隅にある、別室の扉が目に入った。イグナーツの話によれば、一応ハヴェルの書斎だという部屋である。

 リーフェは扉に近づき、ドアノブをひねった。鍵はかかっていないようだ。入ってはいけないとも言われていないので、好奇心半分掃除へのやる気半分で、リーフェはそのまま中へ入った。


 中は窓のない、小さな部屋だった。三方にはびっしりと中身の詰まった本棚が並び、その本に囲まれるようにデスクが壁を前にして置いてあった。空気は埃っぽくあまり使用されていないようだが、物は散らかっておらず整理整頓はされていた。

(だけど何か、変な感じがするなぁ……)

 リーフェはどことなく違和感を抱きながら、机の上に置かれた素朴な木製のペン立てやトレイを眺めた。そして、その理由に気がついた。

(あぁ、そうか。この文房具とか、本棚とか、あの人の持ち物っぽくないんだ)

 金持ちで買い物中毒で百貨店の常連らしいハヴェルがしつらえた部屋なら、まったく使わないにしても、机にしろ万年筆にしろもっと高級そうなものが置かれているはずだろう。しかし今この部屋にあるのは、庶民のリーフェも落ち着く軽い色合いの家具に、お手頃価格で手に入りそうな普通の文房具である。


 その意味するところを考えつつ、掃除を始めようとはたきを持ち上げたその時、背後からぼんやりとした声がした。


「何をやってるのかな、君は」


 突然の呼びかけに慌てて振り向くと、開けっ放しにしていたドアの前にハヴェルが眠たそうな顔をして立っていた。今日は半裸ではなく仕立ての良さそうな青いガウンを羽織っている。


「え、いや、あのちょっと、掃除をですね……」

 リーフェははたきを構えたまま、あたふたと状況を説明した。

 多少の確認不足はあるかもしれないが、大きく問題になることはしていないはずであった。しかし、のぞき見しようとする心がなかったわけではないので、ばつが悪い。


「ふぅん。ごくろうさま」

 ハヴェルは気だるげな灰色の目でリーフェを一瞥した。寝起きのせいなのか、それとも部屋にリーフェがいることが気に入らないのか、少々不機嫌に見える。

 その様子に不安になって、リーフェはおずおずと尋ねた。

「ここに入るのは、まずかったですか?」

「ん、いや、別にいいんだけど……」

 口ではそう言いながらも、やはりどこか嫌そうに見える。

 リーフェは急いで部屋を出た。

「あの、では朝食にしましょうか」

 雑巾やほうきを片付けながら、話をそらしとりつくろう。

「うーん、二度寝したいし、トイレに起きただけだから、まぁいいや」

 ハヴェルは大きくあくびをすると、自分の部屋へと戻って行った。

 普段はだいたい寝ているようなのに、こういうときだけ起きてくるとは間の悪い人だとリーフェは思った。


(しかしさっきの機嫌の悪そうな様子からすると、やっぱりあの部屋には何か事情があるみたいだな)

 リーフェはドアをちらりと見て、考えた。部屋の中で感じた違和感から計算したその推測。

(あの人でも先輩でもない人が、この事務所にいた。多分、先輩がここに来る前のこと。そして――)

 おそらくかつていたであろう、あの部屋の持ち主。その存在はどうやらハヴェルにとって何か深い意味があるらしい、ということだけをリーフェは理解した。どのような人だったのか、ハヴェルとはどんな関係だったのか、今はこれ以上のことはわからない。

(ま、別に無理して知ろうとは思わないけど)

 ハヴェルの過去について考えることをやめ、リーフェはバケツを持ち上げた。


 リーフェはハヴェルの過去にそこまで興味を持てなかった。部屋をのぞき見るくらいの好奇心はあるが、さらに踏み込むほどではない。リーフェにとってハヴェルは、そこまで深く関わりたい相手ではないのだ。

 そしてわずかに、リーフェはハヴェルの事情を知ることを恐れていた。ハヴェルのことを理解し、彼の考えを否定できなくなるのが怖かった。もしそうなってしまったら、自分が今信じているものを見失ってしまいそうな、そんな気がした。

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