第6話 留置場1
その後は午前中いっぱい、リーフェはイグナーツに案内されてティルキスの街を見学した。
「あの左手に見える青い屋根の建物が、王宮だ。この交差点を左に進むと国会議事堂があって、真っ直ぐ進むと大聖堂に着く」
隣を歩くイグナーツは、慣れた様子で様々な場所を紹介した。
遠くからでもよく見える、丸いドーム状の水色の屋根を持つ巨大な王宮。高く白い尖塔と細かな彫刻に彩られた大聖堂。古代趣味な設計の国会議事堂は、巨大な大理石の柱が輝いている。
どの建物も荘厳できらびやかで、その装飾に目をこらして眺めるだけで一日が過ぎていきそうだった。
「なんだか、夢の中にいるような……」
リーフェは目に映るものすべてに嘆息しながら、石畳の上を歩いた。心地の良い春の風が、頬をなでる。本当に、どこか違う世界に迷い込んでしまったような気分だった。
だが数時間後にその夢も終わり、現実に向き合うことになった。
案内状が指定していた午後一時、リーフェはイグナーツとともに、留置所の前にいた。
留置所は裁判所の隣に位置しており、それなりに都心にあった。華やかな街の中でも、この建物だけは異質な薄暗さを背負っている。
その外観は四角く巨大で窓が少なく、重々しい雰囲気だった。
(こんなでっかい建物いっぱいに捕まってる人がいるとは、さすが都会だなぁ)
その大きさに圧倒され、リーフェはかえってのんきな感想を持ってしまった。狭い村社会で生きてきたリーフェにとって、それは現実味のないスケールであった。
「リーフェ君、もう入れるか?」
入口の階段を上がっていくイグナーツが振り返る。
「はい!」
リーフェは肩掛け鞄から朝届いた封筒を出しながら、イグナーツについて歩いた。
警備員に研修の案内状を見せて厳重に守られた入口をくぐって中に入れば、もうそこは淀んだ空気の支配する監獄だった。木製のカウンターの受付と、各舎房への廊下に続くであろう扉。受付係も、立っている看守も、心なしか全員いかめしく見えた。
受付で手続きを済ませると、帽子を深く被った看守がやって来た。
「リーフェ・ミシュカとその指導官はこちらへ」
看守に先導されて奥へと進む。いくつもの扉をくぐり過ぎ、二人は独房が並ぶ廊下に通された。どうやら女性達が収監されている棟らしかった。整然と並ぶ扉は鉄格子でできており中の様子がある程度見えるのだが、とてもじっくりと見る気にはなれない。しかし、異臭と奇声が時折気になる以外は思ったより普通の場所である。
暗い石造りの廊下に、足音が響く。そろそろ突き当りというところで、看守の足が止まった。
「四○九号、弁護士の面会だ」
看守は番号で呼びかけ、鉄格子の扉の上部にある面会用の窓を開けた。
中には黒い髪の少女が椅子に座っていた。だが、呼ばれているのにまったく反応を示さない。
「こんにちは。今回あなたを担当させていただきます、弁護士研修生のリーフェ・ミシュカです」
「彼女の指導官のイグナーツ・クレイツァルです」
リーフェとイグナーツは窓から覗きこみ、挨拶をした。
しかし、返事はなかった。少女はまっすぐに前を見つめたまま、黙っている。貧民なのか、着ている服はぼろぼろで全体的に薄汚れていた。だが、とても賢そうな顔をしていた。齢は十代後半くらいで、リーフェとあまり変わらないように見える。
(お願いだから、何かしゃべってほしいんだけど……)
まったく話す気がない少女の様子に困ったリーフェは、隣のイグナーツを見て助けを求めた。
「……多分、さっき入口でもらった資料に名前と罪状とくらいは書いてあるはずだから、とりあえずそれを見てみようか」
「はい」
そっと耳打ちするイグナーツのアドバイスに従い、リーフェはなるべく動揺を見せないように綴じられて冊子になっている資料を開いた。こうなるのだったらあらかじめ資料に目を通してから話を始めたかったと思ったが、流れもわからないまま案内されたのだから仕方がない。
じっくりと、しかし素早く資料を読む。どうやら少女は名前をカリナ・バルトンといい、縫製工場で働いている労働者であるようだった。容疑は義理の父、ヤーヒム・バルトンを刺殺した疑い。ヤーヒムはカリナの母親アネタの再婚相手で、アネタはすでに故人。だが、アネタはヤーヒムとの間に娘を一人生んでいた。カリナは義理の父と父親違いの妹と共に、暮らしていたらしい。
(ちょっと待って、初っ端から殺人事件!?)
配慮も容赦もない誰かの采配に、リーフェは頭を抱えたくなった。研修生の、研修用の裁判である。普通そこはそんなに大きくない事件を任せるのが、良心というものではないだろうかと、そう思った。
しかしどんなに失敗しても仕方がない理由があるとしても、カリナを弁護するのは他でもないリーフェで、リーフェの頑張りがカリナの未来を決めるのである。
リーフェは資料から目を上げ、こちらを向こうともしないカリナを見つめた。
カリナはただ黙って、心に何かを抱えていた。
牢獄の中で孤独に口を閉ざしたこの少女の力になりたいという想いが、リーフェの胸に力強く灯っていく。
リーフェはできる限りの親身な態度をとって、カリナに問いかけた。
「あなたは、お義父様を殺害した疑いをかけられているんですね」
色あせたブラウスに覆われたカリナの肩が、わずかに震える。その意味するところは、まだリーフェにはわからない。
「本当にあなたが殺害したのですか?」
まず、一番の核心を尋ねた。
カリナはやはり何も答えない。
「……もし本当のことだったとしたら、どんな事情があったんですか?」
カリナが犯人であると仮定するのは気が引けたが、方向性を変えて再度質問する。嘘でも犯人扱いすることで、何か反応があることを期待した。
だがそれでもやっぱりカリナは、無言を貫いていた。表情も硬いまま変わらない。
(どうしよう。犯人なのか、そうじゃないのかすらわからない。ただ、人に言えない何かがあることは確かみたいだけど……)
カリナの異常なほどの沈黙に、リーフェは並々ならぬ覚悟を感じた。義父との間に複雑な関係があったのか、それとも誰かを庇っているのか、とにかく深い事情があることだけはわかった。
次の言葉が見つからず、リーフェは資料を読むふりをしてうつむいた。何かを聞き出さなくてはならないと思いつつも、下手なことを言って傷付けるのが怖かった。
「駄目だな、これは。また何か情報を得てから出直そう」
イグナーツがリーフェに囁いた。
悔しいけれども、イグナーツの判断は正しかった。何重もの意味で、今のリーフェにはカリナの閉ざした心を打ち明けてもらえそうになかった。少しあきらめが早すぎる気がしたが、どうしようもない。
リーフェは、軽い会釈をして立ち去ろうとした。
「今日はお話は難しいみたいですので、またにしますね。お会いしてくださり、ありが……」
「……私だよ」
そのとき、やっとカリナが言葉を発した。大きな声ではなかったが、静まりかえった独房の中で、はっきりとそれは響いた。
リーフェは最後にぎりぎり口を開いてくれたことにほっとしつつ、平静を装って聞き返した。
「え、何ですか?」
「あいつ……ヤーヒムを殺したのは私だよ。だから、あんたは何もしないで」
カリナは顔を歪めて、リーフェから目をそらしていた。やっと見ることができたカリナの心情であったが、経験不足なリーフェには判断に困るものだった。殺したようにも見えるし、殺していないようにも見えた。話すくらいなら罪が重くなっても罰を受けた方がましという気持ちである、ということだけが理解できた。
リーフェは窓に近づき、カリナに少しでも真心が伝わるよう語りかけた。
「それは残念ながら不可能です。たとえあなたが犯人だとしても、その理由を、真実を明らかにして、あなたが必要以上の罪を背負わないようにします。それが私の仕事ですから」
かろうじて会話らしき交流ができたことで、リーフェはまだ何もできていないにも関わらず、少しは仕事をした気になれた。カリナはまったく協力的とは言えない被告人であったが、それでもわずかでもしゃべってくれただけありがたいと思えた。
しかしこれ以上の会話は無駄だと思ったのか何なのか、カリナはまた無表情に戻って黙りこくった。
(……まぁ、今日はここまでかな。これからいろいろ調べていけば、カリナさんが黙っててもちゃんとわかることが絶対あるはず)
リーフェはむりやり楽観的に考えて、顔を上げた。事実を掴めばカリナに心を開いてもらえると信じていた。
「それでは、お邪魔いたしました」
リーフェはお辞儀をして別れを告げたが、カリナは見向きもしなかった。
そしてイグナーツとリーフェは、留置所を後にした。
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